読まない。

書くだけで読まないブログ。

ゲーム脳なのかもしれないけれども

ゲーム脳的な感じなのかもしれないけれども。

局面的な小さい事柄だけを大切にしていたら、それを取り巻く大きな環境がそれを巻き込んで大きくいつも通りなんのかわりもなく動いていたというような事になってたりしないだろうか。

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その愛という事で解決するのは2者間の関係性の中の話だと思う。

そういう関係性を二人でそうだとするのには共有化するための基準が必要になるそれを愛と言うのだろう。

 

結婚とか家族ってそういう問題ではないですよね。

二人が一緒にいるために、という事は局所的にそれを含むといえはするけどそのために必要なことではない、ですよね。

「そのために必要なことではない」と今いいましたね、そうですそのために必要なことではないのです、二人でいることには結婚は関係ありません家族も関係ありません、関係性を構築するのに結婚は関係ないんです、だからだれでも結婚できて家族ができても問題ないでしょう?

なんてつづけて最終的に結果に至るのは危うくないですか?

 

問題があるとして、それを解決するために、目標を設定するとして、その目標設定のために仮想の道程をつくるのはよしとしてもそれは仮想であるということは前提であるべきだと思います。

そしてそれは細部をあとから問題あれば考えるとしている時点のもの、細部には問題があるとわかっているとするべきかと思います。

その問題があることを問題解決の策として提示するということは、そこに含まれているあたらしい問題を提起することとほぼ同意ではないでしょうか。

 

まず一つ目は、家族になることは自由なので家族関係についての監督を国家が行うということ。

家族は家族として生まれて生きて時間を共にして感情があるからほとんどの場合問題行動や危険性が少なく比較的安全に利益重視ではない関係性があるだろうと思い込みで骨子をそこにすえた家族制度が現状で、それよりも運命や出会いや愛でそんな関係性はなくてもリスペクトしあえる人となら家族になれるだろう、という所。

そうであることが自然の摂理でできていたものと、それを人がつくれるものとだとしたら人はその自然の摂理ににた強欲を作ることもできるのではないでしょうか。

愛があって家族になるんだという事を人の目にみえる形で証明さえすればだれでも家族になれるということは、奴隷のような家族を仕入れることもできるのではないでしょうか。

それも人の人生を作り上げるという自然の摂理を不要として簡易に。

その関係性の監督を国家が行う、としたらそれは日常の細部にまで監視の目がいきとどき国が査定し管理するということでしょうか。

冷蔵庫のプリンを勝手に食べたから窃盗罪とか、冗談まじりにたたいたら暴行罪とか、家族だから見過ごされていた犯罪行為をあきらかにすることができてハッピーでしょうか。

それが不満なので家族を抜けますとか、甘やかしてくれるので、大富豪が子供10人募集してたので参加してみたとか、子供手当還元するので家族増強中というおうちに参加してもよいのか、そんなことが発生しないでしょうか。

そしてそれも自由だとして、それがただしく契約が履行されているかどうかの監督は家長の申告制という今のものはもちろんダメなのでしょうから、家族監督庁とかから家族審査員が家族評価に来るのでしょう。

少しも長所がでてこない気がします。

 

 

パートナーという制度を廃止すれば、それらは解決すると思います。全員が赤の他人なので全員が平等になるでしょう。

 

そうなると人口は、生産は、財産は、という話になるわけで。

結局人間は恋愛して生殖行為をして感情に流されて家族だけを特別扱いして、守って増えていくわけです。

そんなことはもう古い、そんな時代じゃない、といいたい気持ちもわかりますが、そうでなくては生きていけないのが現在の人類です。

替わりもなにもありません。新しくなったのは気持ちの中だけです。

気持ちが大事、肉体とかそんなの生々しい、ゲスで汚らわしい、差別的だ、と言いたくもなるでしょうけれども、高潔で清らかな文化や生命などまだないのです。

電子の海にすらまだありません。

それらが無機質に増殖していくものもありません。

しいて言うなら生命ではないものを垂れ流している人間こそが、なまなましくて汚らわしくて動物的な生命の輪を削り取って破壊する生物の存在しない状態をつくれる廃液や公害をまきちらして消毒していって綺麗になっていっているともいえなくはないでしょう。

 

結婚がよいとか戸籍制度がよいとかいまの家族制度がいいとは思いますがこれが完璧で問題を含んでいないかといえば問題はあると思いますし完璧ではないと思います。

まず人が増えるということと、家族という単位であるメリットデメリット、法の領域、その上での人の自由と、優先順位を尊厳と呼んで遵守する共通概念、それらを鑑みて考察すべきことなのではないでしょうか。

 

 

人が自由に関係性を自然のつくりあげたそれににせてあるとすることを容易にもってくる危うさ、これには慎重になってほしいなと私個人は考えます。

 

人工子宮の話題もでていましたが、それで解決できると見込んだとしても、それを人が作り上げるということは、全て人の監督責任のもと人が人のわかる範囲で行う事にさしかわるという事を気にかけてほしいです。

 

いままで神様や自然がといっていた謎おおき要素からほんの一部の偶然でできた現在の世界について、人間が知り得ていることなどほんの僅かです。

解っている範囲でわかることをわかるだけでやっている、雰囲気で地球を支配している人間に神が人間に行っているとする監督責任を人間が引き継いでなんとかなりそうかと考えてみたら、なんとかなりそうでしょうか。

 

人が産まれてくるプロセスも論理もわからず、あるものをねりあわせてなんかできてるだけの人を人間が解る範囲は同じなのでおなじだろうとしたりすることは、果たして安全かどうかというレベルに達する基準をできたからOKよりも上にはもっていきたいと思いませんか。

 

食べ物も自分でコピーして作れるわけでもなくほかの生態系からとってくるしかまだできていない現状で、不足があっても供給できない現状で、エネルギーを取り合いしているこの現状で、人間のありようは人間の気持ちの中にあるものだから人間の手でなんとかできるだろうと考えてしまうのは、いささか単純ではないでしょうか。

その人間の心がどうやって生成され形成され情動しているのかも原理もなにもわかっていないのに「人間はそうだから、だって私は人間だから」という理由で考えるのはあまりに他人を人間だと考えていなさすぎではないでしょうか。

他の人がどうして人間なのか定義することも解明することもままならないのに、自分が自分で体感として実証しているのでOK、というのはあまりに浅はかな気がします。

 

 

なにもだからといってこれは撤回してなかったことにして消し去る議題や問題などではないと思います。

もっとたくさん考えてもっとたくさん案を出して、良いと思われたものをいくつか試行してそこからさらに見直しと再度いくつも何度も試していくべき事だと思います。

 

 

そのうえで、単純に置き換えるだけのパートナーにどんな問題がありそうかと、すこし考えただけで大量に問題のある未来を想像できる論について、それを人に聞こえる所に形にする前に、もう少し検討すべき内容があるだろうにと思う事を共有しようとするのはなぜか、そう考えると、そうすることでまずそこには問題があるんだこれは浅いもっと深くにある事柄に、読んだ人自身が探り当てみつけてくると、いちいち言葉を選んで厳密に方向を示すより自身の向かうべきとしている方向に近くまた力強い影響力になるのではないか、そう考えているのだとしたら巧みではありますし、それでよい試案がうまれるといいなと思いますが、その歪みそうな勢いがありそうな情報の集積のコントロールが全く見えない恐怖感はあります。

 

 

きをつけて考えていただきたい、考えを声にするまえに、いろんな人といろんな角度で話し合うべき事柄だと思います。

満足と責任のトレードオフ

 

 

ドラム型のコンセントの延長が巻いたままつかうと危険という事で、美術系の展示の現場が話題になっていました。
ドラムから全部引き出して使うものだと。
ドラム型の延長を使うなんてことは10メートル以上離れていたりするところに使うもので、そういう状況ではだいたい監督者か上の立場の人がへんな使い方をしているところを見かけると注意することが多いと思います。
責任が責任者に実際に降りかかってきますし被害をうける側も塀をまたいだ他人ではなく毎朝全員顔を合わせる相手だったりするので身近なものでもありますし、そういう知識を惜しまずぶつける現場でもあったりすることが多いのではないでしょうか。


ドラム型の延長をもっと安全にもっと便利に、現状ではなにかが足りていない、と問題を提起するのもありかと思います。
しかし現状、巻いたままつかうような距離につかうものではないということと、近距離ならばそれ相応の延長が別にあり選択は可能であることを踏まえて考えるべきことかもしれません。

包丁に例えて、これを安全に設計するとなるとICを組み込んだり自動で保護する機構をつけたり認証動作や使用記録をとれるようにすべきとなるかもしれません。
しかし現状、取っ手と刃というシンプルな構造のまま運用されています。
この現状と、使い方や危険性の周知を教育として盛り込んでいない事は問題にはなっていないかと思います。
たまに包丁を家からもって出た状況や使い方について問題視はされますが、それは包丁の種類や形状の話ではなく持ち出して用途以外に使用したことについて問題視されているかと思います。

ドラム型の電源延長は、使い方によっては危険かもしれません。またそれを使用する場面はその長さが必要な場合であって、短い距離にも対応できる機構が必要というものでもありません。

包丁で肉を切るのに、おたまや料理箸やフライ返しや温度計が付いていないのは不便だと感じたことはあるでしょうか。
また包丁にそんな機能がついていたら便利なのにと考えたことはあるでしょうか。
たしかに、どれかに機能がついていて二役三役こなせると便利なツールもあると思います。キッチンに限らずあるかと思いますが、なぜキッチンにこだわるかという理由も特にないですが思いつきやすいのでキッチンまわりの話になりますが。
いろいろな機能が一つにまとまったツールを料理でどれくらい使っているでしょうか。
私はそう多くはないと思います。
なぜならば、一つ壊れるといくつもの機能が同時に失われることになるからです。
また付属した機能が使用したい機能の利便性を阻害する場合もあるかと思うからです。
それぞれが独立してそれぞれの役目を果たしてくれることが、量的には多くなりますが利便性は機能をまとめた場合と反比例する形であがると思います。

 

ドラム型のコンセントは、そこにあるべきではなかったという事と、そこに使うべきは適切な長さの延長ケーブルだった、というだけの話です。
この状況をシェアしてもらって、情報を受け取り感じて自分がなにかのレスポンスをどこかに、他の誰かや未来の自分に投げるという行動をするときの要点は次のどれかになるかと思います。
①それが危険だと周知されているか
②その状況が身近にも発生しうるか
③適切な対処は何か
④なぜ危険なのか
なぜ危険なのかという理由は、それが問題だとされている時点でなにかあると考えるだけでも良いかと思うのですが、納得するということで作業担当する個人が率先して啓蒙しやすくなるというメリットがあるでしょう。
しかしそれ以上の必要性や価値があるわけではない、知らずにそうしていたとしても実際することで効果があるわけなので、特に優先的に必要な事柄ではないと思います。


これを、作業をしている人間について人間自体の能力や状況、評価を無関係な人間が情報として発信する必要性は全くないと思いますし、その行為自体とコンセントは全くの無関係だと思います。
単純に考えれば、コンセントの使い方があぶない、あぶないことをしている人間がいる、その人間が問題だ、として人間が人間を叩くという行為をする、すると叩くという行為だけで叩かれた人間はたたかれないように策をねるようになるだろう、という流れを想像して正当化できるのではないでしょうか。
それは全然正当でもないと思いますし効率的だとも思えないですし、原因と結果に関係があるのかといえばほぼないかと思います。発生する火災の代わりに燃えてあげる燃やしてあげるという行為が親切というならば、それはありかもしれないとは思いますがそんなことはないと考えるのが一般的ではないでしょうか。


コンセントと包丁の話は

①使い方に問題があったとして
②その使い方に問題がある設計である事には理由がある
③最適なものに変更する必要があり
④最適なものとしても使えるように再設計する必要性はない

という要件が含まれているという話でした。


使っている人間が悪い、使い方を間違えている人間が悪い、人間とは悪いものだ、悪くない人間が悪い人間を裁くのは良い事だ、とかそういう話ではありません。
またなんでも使える便利機能を全部盛り込んだら全部が不便になるかもしれないということも考えてみる必要があるという事でした。


私の家ではこんなことがあった、こうしているが問題はない、という事例は人間の数だけあると思います。それぞれが正解でも問題はないかと思います。
スマホだけを見て家から会社まで横断歩道を渡ったり電車に乗ったりしながらだけれども事故にあったことなどないし安全だといえる、という人もいるかもしれません。
目をつぶっていても道路を横断できるので横断歩道のある信号まで移動する必要なんてない、という人もいるかもしれません。
だからといってその人たちのナレッジがその人たち以外の役に立つでしょうか。


ドラム型の延長ケーブルは、あまり使う機会がない、使う機会がない人には無縁のもの。
無縁の人でも使える設計にする必要性はとても薄いもの。
なぜならば、もっと適した延長ケーブルがあるから必要性は薄い。
ドラム型の延長ケーブルが1メートルから5メートル程度までバリエーションのある延長ケーブル市場に割って入り駆逐する必要性があるのかどうか。
ドラム型に熱意のある人が普及を祈って啓蒙するのであればありかもしれないけれども、延長ケーブルというそれそのものの役割や用途からしてそういった人が現状いないであろうこと。


ならば危険であるという事と、かわりに最適なものを使うべき、というだけで良いのではないでしょうか。
また危険だったという情報や改善してよくなった情報などもあると、よりよいと思います。よりよくなるための情報は多くても良いのではないでしょうか。
現状その結果になってしまう前提があったため結果として、その状況が発生しているわけなので、なぜどうして○○しなかったのだという事はナンセンスです。
その発生の背景にすぐに考えが至らない人のほうが問題があるかもしれません。それがいいとおもっていたからそうしたまでのはずです。


包丁も結局完璧な安全機能と料理全般につかえる多機能を搭載していません。
料理道具はおおむね単体の役割しか搭載していません。
大さじは小さじを兼ねないし計量カップはそのまま食事につかいません。フライ返しはスープを混ぜませんし、めん棒で炒飯を混ぜたりもしません。
なのに不便で改善すべきだとだれも提案をしないのはなぜでしょうか。またそれを提案したとしたらどう感じるでしょうか。
使えるのに、使えるから、うちでは使ってる、という人も勿論いると思います。そういう運用で各段に便利な状況もあるかもしれません。


みんながよりより関係をもってより良い状況をつくって、よりよい運用でよりよい暮らしをつくっていくために必要なのは何かと考えたとき
必要なのは、道具の再設計や人間への指導や状況の破壊ではなくて、よりよい選択肢があるということ、その情報を共有するための環境の一部に参加することではないでしょうか。

参加するにあたって状況の把握として
①現状の問題点・危険性
②現在ある改善方法
③現在ないあたらしい改善方法
④現実的ではないため現状存在していないあたらしい改善方法の創造
これらはそれぞれ完全に別物だと思います。

現在使用している問題があるだろうとされている事について、それが問題だとされている事について問題ではないという定義にしようとする事の意義はどこにあるのだろうかと少し考える時間があっても良いのではないでしょうか。
だれも問題のある行動を個人の裁量で済む範囲内で行っているならば、そこは不介入だと思います。介入されないためには公開して他者の出入りを自由にしたりしないことです。
もしかするとその状況が最適だという違法的な運用もあるかもしれません。実際そういう現場はあるかもしれません。安全装置につっかえ棒を差し込んで素早い動作で効率を上げているなんて所もあるかもしれません。
それらが良いとは言えませんが、関係のない所やちゃんと運用している所や安全を確保しているところに改善を要求するものでもないと思います。

包丁に安全装置や安全対策を盛り込むと、ご家庭に影響してくる負担を考えると、これは最適な方法にすべきという事で足りると伝わるかなと思った次第でした。
ドラム型の延長ケーブルに欠陥があるわけでも危険があるわけでも、巻き取り式のケーブルにあらたな対策が必要なわけでもなく、使用者について義務や反省を必要とするものでもないと思います。

それよりもよりよい方法があり最適な選択肢もある、と伝えることができたらそれでよいのではないでしょうか。
情報を伝えたいと感じた側の人も、レスポンスの具合で自身が納得した度合いを改善の評価とする意味がないので、伝える事までにて気持ちを納めるべきかと思います。

よりよい社会になっていくことに自分の成果を感じられないのは満足感が足りないかもしれませんが、世の中の不足している部分の責任を自分が背負わなくていい事とトレードオフだと思います。

他山の石

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統計の取り方は取り方や出し方で意味合いが変わることは多くあると思う。
意味合いと言うのも人が見た感じ受ける印象の事であったり、その数値を利用する方向性であったり様々ではあると思う。
何にせよ使い方次第というところはある。
ただ基準としてどうとでも切り取れるものを大きくしたり小さくしたりするのは、そこから判断させる方向性を狭めるという意味で自己責任になってくるだろう。
晴れているから種をまこう、雨が降っているから種をまこう、それぞれの判断が自由であるということの対価は自分が得る未来で支払われているのだ。

 


離婚の話については統計のデータの数値というものが合計なのか総計なのかよくわからないところがある。
なにしろ離婚は一回しかできないはず。結婚を複数すれば離婚も複数回できると思うけれども、一回の結婚につき一回の離婚だ。
これが割合的に大きくなるとはどういうことだろうか。
何年たつと別れるのか、どういう事が起きれば別れるのか、別れる夫婦について多い傾向があるというのか、何月何日は別れやすいのか。
ただ数値として多いというのは、数値が多いというだけだ。
ならば数値に対しtえどういう行動をとるかというだけだ。
別れるのが問題であれば、別れる原因があるならば、それを対処するまでだ。
もし仮に属人的に問題があるという結果に至るならば、教育が必要ということになるだろう。
国が教育の指導内容として「結婚とは何々であるべきだ。これは国が定めている。離婚などみとめられるものではない」と教育する結果になるだけだ。
表現の規制なんかもそうだろう。
どれもなにかがわかっていないのに対処だけしようとするならば大きく問題や歪みが発生することになると予想される。

 


離婚が悪い物だというのは印象としてまずあがる。
事情もしらずにとは大切な指摘だ。
離婚していいことがあるのか、という話になると、良いことはある。
相続する遺産が減ることを危惧して離婚し慰謝料として支払っておく、なんてこともある。

離婚について詳しいわけでも不要や家族での財産や税金、保険や補償について詳しくはないので詳細はわからない。
ガンになったら倍増するその意図がなにか通俗的に儀式のようにあるのならば、それに則っているのかもしれない。
医療の方法や方針について、離婚しておいたほうがより双方に利益のある選択ができるのかもしれない。
家庭があり子供がいた場合、子供に対する負担を経済面かそれ以外かで小さくするためにとれる手段かもしれない。

 

それらを選択する局面だガンだったとしたら、もう少し文化的背景を探る必要はあるだろう。
単にそうではなく別れているだけかもしれない。
「別れるような夫婦はガンになりやすい」という話しなのかもしれない。

 

選択の内容がわからないので何ともいえないが、それがわかったとしてもわかるまで調査した結果はそれをどうしたいかという方針によるだろう。


あなたが他のうち、何々なものだけが石を投げなさいというやつである。
自覚としてそうなので石を投げますという人もいるだろうし、石を投げられない人もいるだろう。
しかし石をなげるという行為自体は否定していないのだ。

 

自分にその投げる石が握られていたならば、自分はどう使うかという選択の話だろう。
他人が投げているそれをみて、投げてはいかんとするか、投げようとするか、それ以外にも使えるのではと考えるか。

馬鹿とゆったほうが馬鹿

 

馬鹿という発言をしたほうが馬鹿なのである。なぜならそれは馬鹿だから。
そう、われ思うゆえにわれありなのだ。
世の中には馬鹿がいる。そう、なぜなら馬鹿のことを「馬鹿」としか認識できない私がいるのだから。
そういう事である。
「うへへ、馬鹿に高く売りつけて大儲けだぜ。世の中馬鹿ばっかり」と失礼な発言をする経営者がいたとして、馬鹿に食わせてもらっているのである。
世の中から馬鹿がいなくなれば食べて行けなくなるのである。

 

馬鹿という言葉を永遠に使わなければ、馬鹿が存在しなくなってしまうのである。
ここに世紀の大発明「ゼロ」を入れると悪魔合体し凶悪な思考方法が発生してしまう。

 

「馬鹿なんてもともと存在しないんだよ」
こう発言することで、馬鹿を発生させてしまえるのである。
これはピンクの象問題であり、否定することで前提ができてしまう問題である。
ゼロが「ある」として、ゼロだからない、それがないという事でそれを存在させてしまうのである。
Nullと空文字の違いである。空である文字が発生するということは文字のない「文字がある」のである。

 

表現の自由児童ポルノが問題だという話は、まあ問題なのだろう。
それはいけないことだろうし、いけない事だからといってじゃあ無にしようとするとこの世からポルノの分野に児童が被害にあう事なんてなくなる。
仮に暴行され性的な被害を受けたとしても「児童のポルノ」は存在しないでよいのである。ただの性的被害者でよい。
それでもたしかによいはず、ではあるけれども、夫婦別姓の問題にしても「その体勢について法的な整備が足りていない」状態では本当に無にしてしまうだけになる。
ロシアのように「子供も大人と同じように扱う」という地域性があれば子供タレントで可愛らしい女児も多くいる。彼女たちはしっかりと大人と同じ役割で舞台に立っているのだ。
「え、じゃあ子供がポルノに出演することもやぶさかでない?」という疑問を否定したならダブルスタンダードだと、今のはてブでは言われてしまうだろう。
それとこれとは全然ちがう。関係のない話だ。
じゃあ大人なら年収5000万円あるの?大人なのに年収5000万円ないの?
大人の人で年収5000万円っていう人もいるのにあなたは年収800万円だなんて、大人の定義を語るそれってダブルスタンダードですよね。

 

どの分野においてどの属性の人間がどれだけ分布しているかは、それぞれである。一部ではそういう所もあるということ以上を人が言及はできない。
ロシアといってもウクライナの地域で子役タレントがメディアによく見られるという事についてその立場の扱いがお国柄という事も一部ではある。
内戦でどういう立ち位置にあるか、ロシアと言い含める他の地域はどうか、世界では、常識では、そういう事それぞれに個別の事情と状態がある。
私は、ただ取り上げた。ただそれだけである。
そう言ったから責任をとれとか、言ったことが前のものと定義が異なるとか、それはそれぞれの個人のものだから仕方がない。
ただ、契約として受け取る場合、物々交換で安定して同じものと交換をする予定だったものが違っていたりするならば、異を唱えるべきだろう。
昨日の自分と今の自分が同じであると証明しなくては、あなたを信じる事なんてできないしアイスクリーム店にいったらカップやコーンやスプーンなどは「アイスではないので」売っているのはおかしいのだろうか。
そういう事ではないとわかっているであろうけれども、とりあえずなにかにぶつかることで自分の外郭に触れられ、自分の大きさや自分の存在を知ることで安心をしたい人もいるだろう。
痛めつけられたい趣味の人もそういう部類なのかもしれない。
その論をもって往来を目的地へ向かおうとしている論者に体当たりをして、痛みをうけて自分の生を確認することと、同じ痛みを相手も味わっているだろうという共感の予想から、自分も相手の価値と同じなのではないかという錯覚を味わおうとしてくるのは、はた迷惑な行為ではないだろうか。

 

二次元の児童ポルノを禁止するということを肯定するならば「二次元の児童がポルノとして存在しうる」となるのだ。
表現の自由がどうのという話で、放送禁止か取り下げられた展示かなにかを常識はずれだからやめろといわれた事も表現を規制しにきたから同じなのではないかと、ダブルスタンダード疑惑をかけられているようにも思う。
いやそれは同じだろう。
「絵で女児が描かれていたらポルノである」という事にしてしまったらどうなるのか。
状況説明や事実の情報を残す手段、表現や想像の範疇、可能性もふくめそれがあることが問題になるのだ。
この世からその対象について被害を示したりそれに言及する手段がなくなる。なにせそれをすると違法だからだ。
子供という存在を扱う情報については全般にそれらが規制されることになる。
教育や公共施設や家庭などで接するその時に名前を言ってはいけないなにかと触れるガイドラインに沿って子供と接しなくてはならなくなるだろう。
子供が脱衣所で服を脱ぐなどという行為を共同浴場で書かれていたらポルノも甚だしい。
もし、女性が苦痛を受ける事は禁止、だとすると女性が制服を着ることを強要されてきつい靴をはかされ「苦痛」を受けると、その姿は違法になるのだ。
それはさせている側が全滅するのは早いだろう。その後はどうか。好き好んでする女性が一人もいないのならば、平和だろう。
スカートもパンプスもこの世からなくなればよいのか。
サイズがタイトな服は消滅すればいいのだろうか。
服を着なければよいという話にでもなるのだろうか。

 

少女がそのような厳しい状態になっている絵の展示は表現の自由だと擁護され、表現の不自由を展示することはみっともないと批判され、こんどは表現の自由としてエロはあるべきだとされると、何スタンダードかわからない人もでてくるだろう。
まず、この世で言及できる範囲を広げるために文学や表現の自由があって、それを追及する芸術家もいる。
狭めれば発展はしないので、危機も発生しない。管理はたしかに楽だろう。
禁止事項の多い宗教の戒律なんかもそうであるし、日本の長く続く文化や産業もそうだ。しきたりや儀式的、様式的な無駄をつくり規格化することで発展を狭めている。
発展をしないということは、時間による老化劣化をしないということなのだ。できるだけ継続させることに大きく価値を振っているということでもある。
資本主義よろしく発展させ分化し増え大きくなると、伸びきった先端はもう完全に別物だったりすることがある。これを抑制する方法としての抑制はあるのだ。
それを規制する方針にするか、自由とする方針にするかはそれぞれであって、日本は現状それが自由に傾いてはいる。
別に規制に向かってもそれは自然ではあろうしそうなるならばそうなるだろう。
ただ反対意見の側もある。それだけの事だ。
反対意見側としては発展と成長のために自由は確保したいという主張なだけだ。
成長を止め発展を抑制し、長い時間保たせる派としてはその意見を出せばよいだけである。閉塞的な経済圏や政治的にそうなっていたり宗教がそういう制度を用いている国も勿論ある。
老舗の味をなぜチェーン展開しないのか、インスタント化しないのか、瓶に詰めて全国販売しないのか、と問われたら、そうはしないという主義があってもいい。
全国どころか全世界に同じ味を発信しようとするメーカーがあってもよい、どちらでもよいという自由のある国のひとつの考えなのである。

 


ここで、女性が虐待のような様相の絵の展示が芸術で自由を言われ
表現を規制されたものを展示しようとしたことが非難され
二次元の表現について規制をしようということが問題視されるのか

 

端的に
①「存在の可能性を示す」という表現手段(手段:アート)と
②前提として①を用いて存在させた事象について問題なので批判された事と
③「存在の可能性の探り方」を規制しようとしている


これが

①きわどい表現の絵画や芸術の作品
②その問題を問われて意図を露わにしたものの意図を批判
③発展や成長のための可能性の禁止について

 

これは

会田誠や他エロなのかグロなのか哲学なのかわからないアーティスト
津田大介氏のようなジャーナリスト
③二次元アーティスト


について
①これが善か悪かは考えるべきだ
②悪とはなにか
③善か悪かを考える材料になる

 

この違いである
ダメだといわれたもの、その存在をすでに示されたものをあらためて「なぜなんだ」と引っ張り出すのは手段としてはセカンドレイプである。
ルックバックの殺人鬼と同じである。差し替えが要求されてしかるべきである。
ダメなもので改めて殴られてたら、どうなるかという思考実験である、というならかなり高尚なアート作品なのかもしれないが
「人は金槌なんかで頭部を強打されたくらいでは死なない」という思考実験を、いまアートとして発信する意味や価値はあるのだろうかという疑問になる。
それを「確実に人は金槌で死ぬ」という事をアートとして頭部にを殴打された死体アート展というのは、もはや金槌と人の関係性のアートではないだろう。
おそらく人の死の局面の姿を絵的に美術として展示することになっているのではないだろうか。
そこでぞんざいに扱われる人の命と死という現象については、批判があつまっても仕方がないだろうと想像される。

 

児童ポルノは明らかに犯罪ではあるし、その描かれている内容はほぼ全て全部悪であり違法であり問題であることは確実である。
これは言ってしまってもたしかにそうなので仕方がない事である。
地球に怪獣がやってくることも人類を補完しようとすることも、愛する人を守るために地球に隕石を落とすことも違法であり悪であり問題ではある。
ではなぜそんなものがあるのか。
人の思考はそこに至ってしまうのだ。
それがあり得るのではないかという経路を獲得してしまうのだ。
それが特別で自分にしかなく共有できず、しかしそこに確かにあると実感してしまった人はどうなるだろうか。
そこに手を届かせようとしてしまうのではないか?

しかしその思考実験を、だれかが具体化し共有できる情報として放流し、それを見て「なんだみんなで共有されてしまっているではないか」と疑問が一般だったというところに落とし込めたらどうだろうか。
自分の難解で困難な実現への道をたどり、稀有な実体験を追及するまでもなく、安価に体験できるとしたらどうだろうか。
それが世の悪とされていることならば、むしろ解消され否定することになっているのではないだろうか。

 

しかし②のその否定された内容をあえて再び持ってくるのは、悪だと解っていて持ってくることなので問題なのは想像に難くないのではないだろうか。
パロディやポルノで対象が蔑まれて被害にあっている描写があるとする、そうなるという局面も現実としてあり得るとするならばそれを盛り込む意図のある手段だろう。
それが前提としてあり、かつその方法が問題だとされた事について「これは自由なのに特定少数の反対意見から抑制された」として自由の不履行を不自由と訴えるのは、ふつうにその不快感を訴えた少数を直接殴りに行っているだけという形になる。
表現の自由として見なければいい、という前提もなりたたなくなってしまっている。
見て不快だからやめてくれという人間がいることを前提として、あなたは見なくていいみたい人に見せて回る、という事を情報として与えるという行為でもあるのだ。
辞めてくれと言った人間に知られない方法で続けるならば、それはありかもしれない。親告罪として訴えられる著作権が、見えてないところまで及ばないことと同じであっても良いのではないだろうか。

 

表現を規制するということは、想像を留めて成熟を抑制し、現状を維持させ選択を狭めるということにはなる。
それが良いこともたしかにある。
知らないことはできない、知らせない事で問題を少なくすることもできる。
それならば確実に「知らない事の発生」を免れることはできないので、その対処方法が必須になる。
宗教ではよく悪魔の所業として100%最初から内容を検討することなく全面的に排除という方法が取られたりもする。
これは知ることで知ったそれを否定すると否定によって存在させてしまうので、変化や許容が発生してしまうのを抑制しなくてはならないからだ。
発生件数は実質ゼロにはなる。発生しても認識されていないのだから。
そういう可能性があるのではないか、もしそうなら対処すべきではないのか、実質ゼロではなくて実際にゼロを目指すべきではないかとなると、まだ発生していない何かを予想する必要がでてくる。
それらは人の欲から産まれてくるものだ。
たとえ健康に悪いとしても、食べたり吸ったり飲んだりするものはある。なぜそれらを禁止しないのか。バランスのよい食事を強制しないのか。
あえて病気になることや怪我をすることを許容しているのか。
それを欲する事を抑制すると人としての不自由が発生するからだろう。
欲望の解放は、あるべきなのだ。
ただそれは、他人を巻き込まないようにすべきであるのだ。


ダメだ、無い、というのは簡単だ。
否定はとても簡単なのだ。
必要なものに否定形を付ければよいだけなのだから。
そしてそうすることで現実に存在させてしまう。
その存在をもって都合のよい不平等を発生させもできる。
それをさらに否定することで平等だと訴える事すらできる。
言葉で否定を使うということはそういうことだ。
言論という事に置いて否定をくわえる事はそれだけの意地の悪い事なのだ。

 

相対性理論なんてない、宇宙の理論は違う、貧富なんてない、才能は嘘、努力というのはそんなものではない。
社会は間違っている、制度は不完全、人間はダメだ。
全部、まるで完全に理解したように言える。なにせ否定をできるのだから。
実際は言葉を繋げただけだ。何の意味もない。
ダメなら拒むだけ、という自分のスタンスも確率され行動をし終わった後だという達成感もある。
実質なにも達成していないのだ。達成しないとうことを選択したからそれを達成した、というゼロを得ているのだ。

 

そのゼロを否定や抑制や禁止で達成させたり、具現化させることは、自由を重んじるものとしては対抗していくべきではないか。
自由が心地よいと感じているものからは、そういう意見である。

親ガチャなどない

 

ガチャという抽選方式を様々な運命になぞらえてガチャと称して不平等を訴える表現が流行っていますが、親ガチャ子ガチャ何々ガチャなどありません。
そもそもにガチャというのは取引をする両者が固定的にあり、取引内容が不確定で当該関係者以外の決定権を採用することがガチャと呼ばれるものでしょう。
親があり子があり、そこでガチャがあるならば取引両者の間に用意された選択肢のなかから無作為抽出にしたというだけという様子の事でしょう。
ソシャゲの、プレイヤー本人に直接影響する選択肢を選択肢がある状態から無作為抽出するという射幸心を煽る販売方法のガチャというのが浸透した結果、現在の表現方法になっているところもあるかと思います。
選択肢がいくつかあるというのはガチャではなくてただの予想で、その選択を目に見える形にするということがガチャという儀式なだけであって実質選択ができたかもしれないという過去を形成するだけのものといえるでしょう。

 

そこであらためて、人の生まれで運命に大きく差がある状態の不均衡、不条理や不満などについて考えてみると、たしかに比較ができると不満も不平等も感じますが、それは比較ができるというか、比較することができるものだと錯覚できることが人間の特徴でもあり幸福を作り出すことができ、また不幸になるものでもあるのかもしれません。
いい産まれがうらやましい、悪い産まれで不幸だ、という感想を持つのはもちろん他の方の人生を知る機会があるという情報化社会の高度な進化によるものでもあるでしょう。
知らなければそこで精一杯に頑張ってそこからつぎの生まれが成功である、羨まれるものであるとなる可能性もあります。
自分がそこにいなければ意味がない、自分以外のものが自分の選択肢の先にある、という本来入らない情報が入ってくるところもそれかもしれません。
人は知りすぎているのかもしれません。
出来ない事を知りすぎているのかもしれません。
それは夢があることで可能性で空想による楽しみかもしれませんが、同時に毒かもしれません。

 

自分が自分でない状態になる、自分に自分にはないものが備わる、その儀式についていろいろな表現があり転生ものというのが流行したところもあるかと思います。
要するに宝くじがあたったらなにがしたいシリーズのようなものだと思います。
自分ならそれをよりよく、大胆に、奇想天外に、使用する側も利用される側も両者良好な関係で可能性を現実へと選択していけるだろうという空想でしょう。

 

現実にもそれは可能で、過去の事例を多く知ることでその先を予測し準備し、選択し対応するということができます。
これはただ学習をするというだけで出来るもので、義務教育という形で日本ではだれしも選択できる「選択肢物語」のそれです。
インフラとしてもう転生もののベースは出来ているということになるのではないでしょうか。

 

人生みなそれぞれ個人むけのそれぞれにカスタマイズされた完全に別個なものなので、同じスタートラインなら、同じ行程を経れば、これをこなせばという事からの結果は一致しません。
一致しないことが先にわかっているので、それを事例に期待をさせるわけにもいきません。
しかし、学習をより多くしより多く使えばそれらができる可能性は非常に大きくなります。なりますが保証することはできません。あくまで当人個人のものです。
その選択肢の広さと外部の影響の小ささこそが自由というものそのものだと思いますが、その自由の広さに「一体自分にはなにができるのか」と空虚になることもあるかと思います。
むしろ強い力やそれゆえの任務、義務、それこそ運命のような強制力に選択肢を奪われ、自分が意思決定せずとも降りかかる義務を機械的にこなせば報酬が得られることを望んでいるのかもしれません。

あまりに多く広い自由に戸惑うあまり拘束され強制され固定的に任務を押し付けられることのほうがよりよいという感覚があるのだとすれば、自由というものそのものが溢れてその自由そのものが規則や拘束となり自由を形作るための不自由になっているような構造に見えます。

 

誰かになれたら、というのは、実質なれるわけがないことはその運命を呪う強度でわかるでしょう。できないからこそ恨めしく思うわけですから。
しかし、自分の気分として何者かになりきるということはできます。これはコスプレやなりきり、外見と内面の違いの許容が非常に大きくなっている現在、といってもおそらく日本だけ特有にそれが広く許容されているところだと思います。
禁忌とされる装いなどが特にないという風土はほかになかなかないのではないでしょうか。してはいけないポーズや格好、多民族多文化の入り混じるところではさらに禁忌は多くあるでしょう。
治安にしろ嗜好にしろ自由の幅があまりに広く、ついに運命にまで自由をもとめようとしているところなのかもしれません。

 

ガチャの構図でいうならば、我々がガチャの景品であって回される側でしょう。神さまなるものか運命をあやつるものか何かしらにガチャとしてセットされ、その運命をもてあそぶ何かに抽選で引かれるわけです。
詰め込まれた隣がうらやましいとか、飛び出た人がうらやましいとか、周りを見渡して優劣を思考したりできる視野と自由があるわけです。
自由も教育もない所ではみな平等にふりそそいでいるその運命について知ることもできず、比較することもできていないのではないでしょうか。

 

何々できていたらよかった、何々だったらよかった、何々になりたい、というあり得ない選択肢で入手が不可能だとわかりきっている選択肢についてその先を考えることはまったくもって完全に無駄だといえるでしょう。
ない物があったらどうなるか、というのは完全に無駄です。
しかし娯楽や趣味など、不健康な食べ物や嗜好品や堕落した行動や無責任な解放感などが楽しく精神を健全に保つのに役立つこともあります。
毒も量次第で薬にもなるでしょう。

 


状況はそれぞれに多く各個人に一つずつあります。それが良いかどうかの比較は自分自身を基軸としたものです。
世界で一番の資産を保持したとしても、離婚をする夫婦がいるかもしれません。離婚していないうちはそれよりも幸福だといえるかもしれません。
世界で無敵を誇る能力を持つ人がいたとしても、争うことも強くあるために厳しい状況を潜り抜けなくてもよい人もいるかもしれません。
人が一人でないということは、それぞれがそれぞれを担うために分化しているのでしょう。
また人が一人でないということは、それぞれがそれぞれの状況において最適を求める事ができるということでしょう。
そして寿命があるということは、次がもっと望ましくあるようにと更新していけるということでしょう。


もし人が一人であったならば全てができるかもしれません。それこそ神のように。すると一人しかいない部屋に水槽があったら、ペットを飼っていたら、変化する何かをおいていたら。
手がたりるでしょうか。もてあましたものの損失に耐えられるでしょうか。可能性を感じつつもそれに取り組めず手を奪われることにストレスを感じたりしないでしょうか。
誰かがいてくれたら、と思ったりしないでしょうか。
自分の能力を半分にしたとしても、二人になったら手の数が倍になり、体や目が違う事を二つできたらありがたい、となるのではないでしょうか。


それぞれが他のことをしなくてもよいので、今自分がすべきことについてより多くの時間を使うことができ、その内容を高めていくことができるのではないでしょうか。
他の事のバランスとか、前後にとりもたないといけないことや、相対的にしていいことかどうかを考えることなく充分に専門の作業に専念できることはより大きく効率的だといえるでしょう。
もちろん他に専門を行っている人と領域を分かつ、衝突することもあるかと思います。喧嘩になったり協力をしたり協議の結果ゆずりあったりするかもしれません。
その交渉をする部分と、継続して専門的な活動をするものも、別れてそれぞれが別の人間ならば、一人でするより時間がかかるかもしれない、自分一人だったのなら自分を諫めるだけですむかもしれないけれども、人を分かつことで出来ること自体は増えさらにそれらを効率的にこなせるでしょう。


そして寿命がなれけば無限に老廃物や負の遺産を抱え込むことになります。
トラウマやごみや垢や不要なものもより大きく大量に抱え込みそれらを処理し、また抱え込むことに。
しかし成長を止めると、寿命の必要がなくなります。老廃物もなくこなすこともなくただあれば良いので変化をせずずっとあり続けること、それゆえに増える必要がありません。
生命にして成長も変化もないとはそれはもう生命と言えるかどうか、生命である必要があるのかどうかもわかりません。
しかしこれも現実には存在していて、同じ文化を広めず細く継承することでその形を保っている商業や文化もあります。
これを分化して常に成長させていけば、それぞれ末端に同じ遺伝子をもったものがこの世にのこり増えて成長するかもしれませんが、元のなにかは寿命をむかえ姿を変えるか消滅するでしょう。
分化し成長していくにはライフサイクルを自らの手で選択しなくてはなりません。しなかったとしても自然と綻びは迎えてしまうので、それに対応しなくてはなりません。
それをしたくなければ、成長せず広がりを抑える、という手もあります。


ガチャの景品として生まれてしまった我々には、それぞれにそれらの選択肢があります。
選択肢がないという状況においても選択し分化を行い成長しよりよい先へと進むべきとして生命があります。
もちろんそれがかなわなければ絶滅という形でその分枝はゴールを迎えることになります。

 

もはや自分の現在についてのコントロールを放棄し他人の存在を自分のものとするならばという疑似的な選択肢を楽しむのは自虐的というか自害に近い楽しみなのかもしれません。
転生するにはまずその主人公が死を迎えてから、という展開が王道となっているそれは、そんな状況を暗に含んでいるのかもしれません。
うまれてなにをすることもなくとも人として生きることを守られてしまうと、むしろ死に近づくような事を体験したいと望むのかもしれません。
ゴールを迎えてしまった分枝の夢なのかもしれません。

 


それも含めて生きるべき価値や命とは、といったものはそれぞれ個人が脳で考えるよりも前から生命として準備され対応し選択され分化し、そこに生まれているものだと思います。
そこがあなたの先祖たちが縒り編んだ生命のゴールなら、夢をみながらおわるのも自然なのでしょう。
危険で厳しい環境で不満やつらさを感じながらも、命を紡ぎ次にさらによくなるべしとするのも生命の自然かもしれません。
絶望しかないので、それ以上進むことができなかった、そんな悲惨な運命も生命のチャレンジだと端的に言葉では足りませんが、選んだのはそこまで積み上げられた成長し学習し選択してきた命の行く末なのかもしれません。

 


日本という環境が非常に広い自由で豊かさがあり安全で分化に禁忌がなく、まさに絵にかいたような天国なのに成長があり分化があるため寿命がある。
そのためにもはや他の選択肢に生まれたいという産まれそのものを否定しえて拒否しえ、不可能であることが確実な他人の人生というものを欲しがるというのはもう生物としては末端のゴールの極地にいるのかもしれません。
人の定義したほかの人との交渉条件である資本をいくつため込んでもそれは交換不可能ですし、そんなものを大量にためこんだところでこなせるのは人ひとり分の人生以外にはなにもありません。
なにもなかったとしても、ほかの人生をうらやみ生まれたことを否定してやる気もなく、成長も変化もなく時間をすごすことができる人というのは、実質的に永遠の命を生きているに等しいのかもしれません。

 

斯様に進化した日本にいることは、その天国にいることにまさに等しいと感じる事が多くありがたく、幸福にして、私もその幸福を見渡せる豊かな環境に不幸を感じてしまうその一つにガチャがあるかなと思います。

そのガチャという言葉、キンキンに冷えた熱湯のような、やわらかいダイアモンドのような、空飛ぶクジラのような、言葉では作れてしまう国語としても科学的にも現実にも存在せずおかしな異常なありえない空想を、現実にあてがい機能させることは、高く売りつける嗜好品としては成功しているのだろうとは思いますが、あまりに醜く残酷なことかと思います。

AだからB、という事とその反対と

AだからB、という言い方は、する。
そういう方針を持っているのだからそうしていると言及することはある。
話している相手の数が多い時ほど、それに対して「BをAとするのは問題ではないか」と意見をいただく。

 

確かに言葉の上ではそうだ。言葉でいうなら言葉で完結させなければならない、かもしれない。
しかしそれは言葉、でという事について「のみ」なのか「だから」なのか「こそ」なのかは、私にはわからに。
わかっている人がそうしているのか、そうしているからわかっているのか、わかっているからそうなるのかは、私にはわからない。

 

いつもこう発言しては回避というか逃げにはなっているかと思うけれども「言葉ではなんとでもいえる」のを、私の哲理としてもっているということを念頭において会話を試みてほしい。
私と初対面の人が初めて言葉を聞いた時、私の発する言葉はなんて足りなくて稚拙で偏見に満ちているのだろうかと感じる事と思う。
それは私という方向性がこの目の向いている方向以外を向いておらず、その方向を排除して、一方的に話をしているのだから自然とそうなることはご理解いただきたい。

 

私はAさんを救いたい、ともし発言をしたらBさんは救わないのか、Cさんを救うといわないと一貫性にかけるのではないか、というか人数の問題ではないのではないか、そもそも救うとは独善的ではないか、といった意見はでてくると思う。
それは私という個性を除き生物として発言が可能なものが日本語を話したときの反応であってほしくて、私という個人においてはそれに能わないと理解がしてほしい。
私が私という個人であり一人の人間であり、手足も資金も限られた数しかもっていない事を理解したうえで、私という素材をどうつかうべきか考慮していただいた結果のうえで、お話をいただきたい。
私が私であるということを認めてほしい、私という欠損部分の多い人間と会話をするということをお許しいただきたい。

 

b.hatena.ne.jp

この記事についても、この唯一個人の方のとられた行動において、このかたが属しているであろう属性について、その感想をつけてのべた。
すると、おそらくその属性を全員そうだとみるのは差別だろう、そうでない人だって属性に含まれているはずだ、その配慮がたりない、とすぐに意見は出ると思う。
こちらもすぐに、そのご意見に「ではその属性に含まれていてそうでない、そして私が属性に対してある最初の発言で対象とした方にむけた発言で不利益を被った方について、差別であったと詫びたいので出してほしい」と言いたい。

屏風の虎である。その虎はベンガルトラでもフランクシナトラでもない、そこにいる屏風の虎である。種類も性質もなにもわからないが、眼前にいるのだ。それのことである。
どこかの虎でその虎はちがう属性でちがう行動をし違う結果を残す、その言葉で傷つく虎かもしれない、そんな虎がこの世のどこかにいるかもしれない、だから虎には失礼かもしれない。
しかしそれが眼前の虎なのか、どこかにいるはずで出会うことができるかもしれない虎について配慮した結果を眼前の虎にも施すべきなのか。

その世界の果ての虎にであったときに、その虎について思い描いた積年のそれをぶつけたらいいのではないか。
出会う準備を積み重ねることには問題はないと思う。いつかと期待することにも。
ただそれは眼前の虎にもすべきなのか、それは別として、世界の果ての虎にもまた別の結果を用意して問題があるのだろうか。

 

「ナイフを持っている人をみたら、通り魔と思え」と、私は発言することがあるかもしれない。
すると、「通り魔がナイフを持っているとは限らないし、ナイフをもっている人ならみんな通り魔だというと、そうじゃないナイフ所持者を差別しているのではないか」といわれるだろう。
ぶっちゃけ通り魔ではないかと用心するのは常でいて見知らぬ人全員でもかまわんのではないかと個人的には思いはするけれども、おそらくそれはごく私的な見解なので発言はしないと思う。
ただ仕事や緊急事態ややむを得ず、必要なときに、ナイフをもっている人もどこかにはいて、その人を指さし「通り魔だ!」というのはあまりに失礼ではないか、といわれたら、そうである可能性ももちろんある。
その複合的な事象を細分化して、ひとつずつちぐはぐなつなぎ方をするのは、よく考えてみてほしい。ほんとうにたちがわるいのではないか。
たとえば、キッチンんでナイフを握っている人、という局面で「通り魔だ!」と発言する根拠がない場合の狂気は充分に双方理解できていると思う。
その初めから完全にくるっている状況さえ取り込んで、という事自体が「完全に狂っている」のではないか。
では通り魔が出没するのはタンスの裏か押し入れか天井裏か、吊り橋の上かビルの中かと言われたら「あかりの少ないうらどおり」であろうと想像するのは平均的なのではないかと思う。
もちろん可能性はゼロではないし言葉ではどれも当てはまるだろう。
その言葉で構築可能な一番可能性の低い大当たりを目指してあてに来るのは、本当にタチがわるいのではないか。
当たりは、こちらにある。意図した発言の内容があるのだ。
それを、相手の正解にすり合わせ、相手の正解を優先してこちらの用意した正解を破棄するのは、会話といえるのだろうか。
その侵食行為は、コミュニケーションなのだろうか。

 

たしかに、Aさんは○○レベルのBとしては普通なのでは、と発言すると、Bの普通は〇〇レベルと決めつけるのは差別ではないかと、いわれる。
そうではないのだ。私はAさんの話をしているのだ。どこかのだれかのそういう属性の特別な誰かを、いまいきなり召喚してはいないのだ。
Aさんの話をしているのだ。
「あー君」とか「僕ちょっといいかな」とか、「あんた、それ」と相手をさして呼称することもあるだろうとは思う。
そのたび「そういう呼び方は差別、にあたると感じる人もそれを別に方法に呼びなおせという人もいる」とは思うけれども、それを含んでなお、それ以外の方を対象として話している旨を理解してほしいとは思う。


都度世界の片隅にいるだれかに思いをはせて涙している人はいると思う。
まだ見ぬどこかのだれかかもしれない何かをイメージして、その人にあったときの準備を積み重ね続けている最中の人もいると思う。
実質、どこかのだれかの事を言うことでその人を傷つけてしまうかもしれない。
Aさんを具体的にさして会話をしたとしても、メタ的に同じことが言えるかもしれない、同じ方法で効果が出ることを想像できてしまうという人を傷つけることがあるかもしれない。

 

それを含めて、私が会話をする相手というのは壁だったり空だったり大地だったりしてそこにむけて大きな声で発声練習が如く会話を仕掛けているつもりなのではない。
敢えて言うなら空間に放ち文字として壁に跳ね返り自分で確認できる自分にむかって話をしているようなものなのだ。
ご理解いただきたいのは、私が世界のどこかの可能性を搾取したり削り取ったりしているように見えるかもしれないが、私は私の世界から発言は飛び出していると認識できないのだ。
その姿を見てしまって不快な人はいるかと思う、ぜひ断絶して見え無くしてもらって、平穏を保ってほしい。
私は世界のどこかにいるかもしれない有害なそれの一人なのだ。
私がどこかにいるかもしれないとおもって、出会う前からよくよく防御を堅めていてほしい。
もしか世界のはてのどこかで、言葉一つで不快にさせあなたに不利益をあたえるかもしれない誰かが存在していて、出会わないとも限らない、という想定をもっていてほしい。
私がすべての人に差別なく正しい表現で平等に発言するためには。

ミュージシャンとはそんなものなのか

 


ミュージシャンなんて、おおかれすくなかれみんなそんなもんだ

 

そんなものなのだろうとは思う。というかみんなそんなものだろう。
どの集まりもみんなそんなものだろう。
清廉潔白にしかいきていない上級階級のみんなんは多かれ少なかれみんなそんなものだろう。
内戦の続く紛争地帯で生活している人は、多かれ少なかれみんなそんなものだろう。
みんなどこにいたって、そこにいる人たちは多かれ少なかれそこにいるとしないといけない事はしているだろう。

 

これはスコープの問題だろう。
音楽関係者はみんな極端なA地点から極端なZ地点まで、ふくんでこうだと言うのは地球が青いと言っているのと同じスコープだということだろう。
そう、俺にはそうみえてる、そんなもんだというのはそうだとしたらそうなのだろう。
見えてる人の目の大きさの話は、お話を聞く限りはそうかでっかいなと思うし、そういうものなのだろう。

 

しかし、銀河高速道路をつくるので地球は消滅させます、と言われたらどうだろう。
むしろそんなことを知らせず消滅させてくれたら、抗議なぞせずに済んだ、絶望などせずにすんだろうというかもしれない。
なぜお知らせをしてくれるのだろうか。
回避も拒否もできないのに、情報を提供してくれるなど自然のそれと同じではないか。
自然というものが人からみてどんな存在か、人間に有用な人間以下の存在、なんて思ってる人がいたとしたらその程度の人なのだろうし自然が手に負えないまさに神としてあるそのものだと感じている人がいたとすれば、そうなのだろう。
そういう神がかったものからの影響、有用ではあるが自分より下のもの、から回避不能な情報を得たとしたら、どちらからにしても絶望しないだろうか。
講じるべき手段がないことに望みを託すことができる人がいるならば、その力は人間力とでもいうべきだろうか、それがとても強いのではないだろうかと想像する。
そういう人もいるかもしれない。

 

ただ、なぜその情報をなんの意味もなく必要性もなく、知ることができるから知らせたという以外のなにものでもないのなら、反応するから反応させてみた、という幼稚さからの残虐性に近いものを感じる。
自然を例えて神として、神は赤ん坊のようなものだと表現する人がでてくる程度には、そういった思考の経路的な実験はこれまでにも多く文化的な作品にみれられる。

 

その地球が青いレベルの視野でみられると、たしかに区別も差別もなくみな平等だし、むしろ人間が生物として存在していることすら肉眼では確認できないだろう。
人間とは概念である、と言ってもはばからない解像度である。

 

そうなると、いじめも不品行も、人間レベルの話、概念的な話じゃんという評価にもなるのではないか。
たしかにその程度だな、として所詮は人間、しかたがないと許せもするかもしれない。


では人間とはなにをしているのか。
愛を育み文化で人を救い感動させ豊かさを育てては分配している。
そんなものは概念だろう。みたこともないし、というか地球が茶色や白や緑といった色がまざっているとはいわず青いというレベルでそんな営みがみえるわけもない。
人間なんて所詮おろかで動物から進化していないのだろう。動物は狩るらしいので狩られることも当然考えてはいるだろう、そんな判断になってしまわないか。
悪い事を大きく希釈することでぼかすと、良い事もぼけてしまうのではないか。

 

戦術としていったん視野を奪っておいて、異なる角度からの情報で詳細度の高い情報を違う方向に出現させ、方向を転換したところに追い風をむかわせ誘導するのか離脱させるのか。
そんな作戦をもっているのだとしたら、これは一手としていい符を打たれたと思う。

 

しかしこの上で、特定の音楽関係者がしょせんそうだった、解像度からの実例ピックアップで、人類の代表としてへんな人を神の御前に評価をいただきにいかせてしまったとしたら、それは視野をうばった状態で視線を誘導させるという作戦においてあまり得策とはいえないのではないか。
ピアノの先生も音大の大学生も、あんなかんじで、こうしていて、そういう事なんだろう、という尺度でみても問題はないという話なのだろうか。

 

N響のみなさんは、開会式で演奏されている人は、リコーダーを吹いているあの子は、どうなのだろうか。

 

それにつけて、音楽しか取り柄がないのだから、音楽性で評価すべき、というのならば、音楽性の評価基準は何式、何論、何派でいくのだろうか。何点が基準値なのだろうか。

 

目つぶしを食らわせたのはいい案かもしれない。
そこから畳みかける技は何なのだろうか。

 

期待はしていないが、期待してやまない。