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民主主義と多数決

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民主主義と多数決は切っても切れない関係性があるのは確か。
多数の意見だから民主主義、多数の意見だから善、という訳ではないのも確か。
正しさとは何かというのは今回切り分けるとして、としたいところだけれども正しさを求める以外に
多数決や民主主義を行う必要性があるかと言われれば、正しさのために行うべきではあるので
これも切っても切れない。
正しさとはその時点において最良の手段であること。
その時点で確認できることを、以後確認するとその時点ではみえなかったものや不確定なものがあるので
最良は更新されるべきであるが、非難されるべきものではない。
否定をすることで相手へのペナルティとしアドバンテージを取ろうとする動きで交渉事などあるが
批判批評など論じるにあたってはポジションは必要ないはず。

民主主義というのは少数の意見を取り込むものか、大多数が初数を取るものかというのは構造的に横着。
少数ごとには意見が相違するのは当然、なので折り合いの付くものを集合していく。
集合したものと、集合したもので大きく分割される場合は統廃合するために多数対多数の「多数決」を見ることになる。
それまでも一個人ずつであってもそれぞれの多を取り少を捨てることで折衷案を出していたはず。
個人ごとの多数決である。
その積層で複数人数の単体案についての総量戦をみて「多数決」とう場面でそれが他の意に沿っているかを判断するには遅すぎる。
民主主義の最後尾であり完成形の多数決による最終的な段階において、唐突に沸いた個を尊重するのかといわれると
その子はそれまでの積み重ねと交渉してきた人間と時間の数を重ねあわた量を覆す意見なのかということになる。
結果としてそこに至るたった一つの意見であるならば、積み重ねてきたものは大切なその1パーツを除いて進行してきた
愚かな案であるといわざるをえない。
その案を構成してきたすべてはその無駄な議論や手段を無意味に積み重ねていただけなので一旦解散解体すべきは妥当である。

民主主義が多数決というのは雑で総合的に言えば間違ってはいない。
その大きな構造体を理解するのには言葉が足りないのも確か。
しかし問題なのは、それをイコールとして語り始め民主主義の多数決についての問題提起をし
いかな段階からでも不平等に数をそろえて多数決で盛り返そうとしたり、多数決自体の構造を否定しようとすることだ。

正しい意見がその時点において正しさを発揮しているのかどうかを、多方面から確認し検討しみなが「今現在正しい」という
点呼をとった総量が多いものを、選択していくことが多数決で、それを民主主義とするためにはその意見の発案が
実際実用に即したもの、現場の人間や実際に影響を受ける本人からのものであることということだ。

管理者が現場を知らずに管理の効率やプロセスを知らない結果の変更について行わないということが民主主義ということであって
多数決、人数をあつめること、集めるカリスマ、買い集める資産家、集まっている団体が執り行うということではないこと。
多数があつまるプロセスが民主主義であるということ。

民主主義はそれぞれの主義が尊重されるために少数の段階から多数決で練り上げているということ。
唐突に個を尊重しだすことは民主主義自体にそぐわないということ。

多数決は方法でありほぼ結果をなすものであるので結果といっても差支えのない段階であり、それがなされた時点で否定する余地のない民主主義になっているべき。

 


ただし核となる意見から民主主義で構成された団体がバームクーヘンのように人員が構成され、その表面はマンデルブロー集合のようにそれぞれが完結した意見を持っている。
接合面、外郭をくまなく接していくとそれぞれの祖語や言葉足らず、理解不足や誤解が確認できるはず。
それをあげつらって統合された意見に齟齬があるといわれる場面がある。そしてその集合の責任者として上位にある人間に対して責任追及などの批判がおきる場合がある。
上位の責任者が団体を率いて個の意見を無視しているのではないかという論法である。

ここまでの構造条件を鑑みると、責任者として団体の上に立たされているものが独裁をしているわけではないことは明らかなのを、結果として上位に立たされた
責任者の独裁ではないかと問うことは無理筋ではあるし、ときにその無理筋で責任者が上位に割り込む、天下るということもありえはする。
どちらにせよそれらは監査機構がその意味を成していなければならないわけで、民主主義が瓦解しているわけでも独裁であるわけでもない。
つまり民主主義が揺らぐということは監査機構の信頼問題ともいえる。


すると、投票したしてない、集団に属した属していない、突飛な例や個の意見を遡って団体を否定する、などが民主主義についての思慮や行動ではない。
民主主義が民主主義たりえているかという経緯を観測しそのバランスをアレンジメントしているかどうかということが民主主義である。

選挙のタイミングだけ元気がよくなるのは反民主主義であるし、そこまでの経緯が正しいものであるかどうかを見るのは民主主義である。
自分の意見を近い団体に提出し組み込んでもらうのは民主主義であるが、団体意見にて乗り込んで組織を支配する多数決は民主主義ではない。


ミクロがマクロがといいだせばすべてはナンセンスだが、極小の部分と極大がつながっているものが民主主義であるべきで、それらの乖離が独裁であると言える。

つまるところ多数決と民主主義は関係ないし、多数についてや民主主義について語るのにはそれぞれをそれぞれの視点からその範囲で語るべきで
並べて書く時点でありがた迷惑な誤解の起因なのではないか。

みかんとビタミンC、アスコルビン酸はみかんと成すのか、みかんは化学物質的にどうなのか医師薬剤師の指導がいるのか、ビタミンCについて農家はどれほどの理解があるのか
そういう関係性ではないはずだ。