■
今週のお題「平成を振り返る」
平成とは、まさに激動の時代であった。
○○に始まり○○、○○や○○など、○○にいたるまで様々な出来事で埋め尽くされていたように思う。
過去、こんな時代があっただろうか。ひとくくりに平成という時代だけでこのような多くの表情を見せる時節も珍しい。
という切り口で書いたら何にでも使えるかなというところで。
デザインとはこういう手順の事だろうなと思う。
UIなどについての記事にブックマークをしてまた気が付いたときに読んでみようかと思うけれども、そのあたりの説明はむつかしいことだと思う。
感覚の問題なので教えるのがむつかしい、という事なのだろうなと思うけれども「教えげあげる」「わからない人にわかるように教育、教えてはぐくんであげる」という目線で言えばとてつもなくむつかしいものだろう。
それは師匠が自分を殺せるレベルでないと免許の皆伝とは言えないレベルというか、師匠自身が弟子の成長に評価をできないダメ上司なので殺したらポストが開くので俺の屍を超えていけという単純にして明快なメソッドに落とし込まれるのだろう。
それを解消するデザインとしては、自分の目線でみた感想を広く言語化して発表するということを教育とするところではないか。
ただ先達というだけの自分が感想を紹介する感想発表会でしかないが、それを教育の場として見解をシェアすることでそれを接種した多数が独自に発展することを育成と呼び発表により伝えることを教えとし、その教えを得たとして進んだ方向が育成として教育をなせば教育という目的に関しては明確なのではないか。
だがそうなると教育者という監督者からみたりその教育成果を利用したいという経営にある人間からみればその練度やデザイナーという単語でくくられたそれの必要水準、価値基準が見出しにくいので「みんな違ってみんな満点」とはいかないのが社会的における職務としての役割、能力ではある。
ならばその評価を成すものとして実績があるわけだけれども実戦経験がないと実績がない。そしてカリキュラム消化という基準でなければ存在しない基礎と、基礎の練度が応用できなければ実践に伴わないということも除外されがちになる。
なのでデザインについて必要なのは柔軟で革新的なアイデアを出す高性能な人材の育成や輩出ではなく、たしかにそれも重要ではあるけれどもその価値を十分に評価する評価者が必要なはずだ。
それを形骸的になしているのが海外のオークションハウスでありそこで認められた価値は現金に換算されるものである。
このオークションハウスの小規模化であったり拡散でデザイン要所に設置できるようになれば教育成果の評価はしやすくなる。
しかしこれが存在しないがためにそういう組織、美術団体や芸術組織などが年功序列で学校を卒業したという時間消化で席を置いたという実績が製品化に介在するようになっているというのが日本の現状ではないだろうか。
オリンピックの開催について物議をかもしたデザイン問題、覆面アーティストとかいう中身の換えが効く金の卵製造機のオークション投入など、平成においては考えさせられる問題、完成された近代組織の変革を感じさせるものであった。
というふうに平成の時代を振り返るニュアンスもまぜないといかんなと思いつつ現時点での感想を語るに平成をつければだいたいなんでもいけてしまうのではないかとデザイン的にいうと熟考したあげく結局簡素な手順で製品ができたようなコロンブスの卵というかジョーカーがやったえんぴつが机に立ちます的発想の転換かもしれない。
ただインターネットの発展から浸透を経て平成は変化が気付けないほどに変化はしたのだろうと改めて思う。
スーパーファミコンが昭和だと思っていた自分からすれば、その大きさが見えていなかったことを再認識する。