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自由とはなにか

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自由と権利についてお話を時々されているのを見かけますが、まあ目に留まる程度でそういう探求の方法も古来からあるわけで。
人の生きている時間を彩る花としての疑問が咲き誇るのもその領分にあるから見どころなわけであって、一面に広がるとカオスを感じるわけです。
その単位にして風景とするならば絵にもなりましょうが、それは絵であって実際その土地をどうするのかというのは観光と写真にしかならないわけでそれを収益化するという人類文化があってこそ成り立つわけです。
咲き乱れる花も隣接する花たちとそんなに距離を縮めたいというよりは距離があったほうが生きやすいのではないでしょうか。
アートやジェンダーの話もそうであると思われますけれども、自由とはその言葉の意味するところは何なのかということをまず定義してから話さないと怪奇に理解されがちな童謡作家のように謎解釈のままお互いの個性がぶつかり合うだけになるのではないかと思います。
ぶつかるというコミュニケーションを目的に謎という関係性の生産物を逆説的に配置することで人とのつながりをもってほしいという巧みな戦略なのであればそれはそれで充分機能しているのだろうと思います。

自由とはなにか。それぞれが思う自由を形作ってポリシーとすればよいと思います。それが複数人で定義を必要とするときは、その集まりの中だけで定義をすればよいと思います。
局面ごとに定義が変わってきていましたが、結局自由とは外界に自分のしたいことを制限なく開放する事、それに等しかろう自分の意のままに行動できるという形容の可能性だと思われている方も多いのではないでしょうか。
自由とは好きなようにふるまってよい、という定義であればそれがぶつかり合ったときに問題が発生するわけで、これは哲学的に有意義な議論だ、などといわれるわけですが、果たしてそうでしょうか。
自由とはそんなに形がなく毎回かわってそれぞれの理解でよいものでしょうか。それこそが自由なのでしょうか。

結果として私が思う1意見ということにはなるわけですが、自由とはその字を読んでその内容に当てはまったものでよくないかとまず考えたいです。
時代の変遷などで意味がかわって文字と内容が一致しないこともあるかと思いますが、それを一度確かめてみることも無意味ではないと思います。
自由とは、自ら、とよりどころ、という文字になります。意味をつけるとすれば「自らであるということの拠り所」というとこではないかと、私は思います。
自分が自分らしく、そもそもに自分という定義、自分というものがあるということが自由。私がしたい事、わたしのできること、わたしが外界における関係性。などなど自分とすべての関わり合いを引き出すために必要なのはまず確固たる「自分」という形なのではないかということです。
自分らしくあれることを自由、自分が拠り所にあるということで、自らがなにかに連続している、組み入れられている、何かと同等とされている、何かとしてつかわれている、それは自分に拠り所がないのであれば不自由ということになるのではないでしょうか。

私が私であること、私の考えがあり嗜好があり、行動の指針がある。もちろん他の人にも人それぞれ自らというものを持っているというか人であるからにはそれは当人という単位を自己で把握していることがほとんどであるはずです。
いろんなものをみようと、思おうと、感じようと、それは自分のものなので、自由です。これをほかの人の他の人であるが故のことに干渉しようということは、自らの拠り所ではないはずです。
そう考えると干渉そのものがすでに自由というものではないといえます。
表現の自由は、外部から確認できる状態で自分が自分であるということを表すことになるということであって、嫌なら見なければよいわけです。批判的な意見をもったり、それを表すことも自由です。
ただそれを相手に伝えようというのは自由ではないはずです。他の人の拠り所に自分が侵入していこうということであればなおのこと、自らという単位を超えて他の人間の拠り所を侵食しようというのは自由ではないと考えられるはずです。

自分というものを好きに作り上げてよい、自分という基準や単位や思考回路がある、あってもよいということが自由、拠り所をつくりそこに自分を注入して人の形を成しているものだということが自由の意味ではないかと私は考えています。
他に人におまえはこうあるべき、こうあれ、これをしろ、ということで拠り所が破壊されたり攻め入られたりすることを自由の侵害とできるのではないでしょうか。

それぞれの存在がそれぞれの意思でそこにあることが自由です。しかしその存在がその隣接するほかの存在に影響を及ぼすように自己の範囲を拡張することは自由ではない、ということです。
自分という存在の延長なので問題ないという理由で、人気や資産や物理的な範囲を広げて他者の「自らであるということ」に干渉したり接触したりすることは、自分においては自分を拡張しているだけなので「自由」だということを主張できそうですが、影響を与えている他者が自分を主張することがあればそれは成り立たないはずです。
自分自身という人のかたちにおいて、手が自分の意志で動かない、手自身が肉体的には連携を保っているけれども、意思の疎通がない、それは「不自由」なのだと思います。

自分自身は発信、発生させるまでは自分のものである、というところまでが自由といえなくもない限界かと思います。それを人に向けたり、人を自分の「自由」のように動いてもらおう、使おうとすることは「自由」ではない、それは自由という言葉の意味に含まれないと考えます。
前提条件として、何々だから「自由にしていいだろ」という自と他の区別なないところに混ざり合ってよい状態というのは、二人三脚であったり体の一部が接合された状態などでない限り自由という言葉で表現できるものではないはずではないか、と思うのです。


自分は自分の思うようにあっていい、それが「自由」で、他に人にどういう影響があるか、ほかの人との行動範囲にどれだけ侵食できるか、ということは「自由」ではないのではないでしょうか。
前提条件や環境、歴史、状態を考慮すればそれは自由であり、それは自由でない、どこまでは自由だが、違う場合は自由ではない、などといった影のない自由を追い回す必要が、なくなるのではないでしょうか。

誰々が〇〇といっていた、〇〇しろと言われたから、〇〇していいと言っていたから、みんな〇〇してるから、という理由で行動することは自由でしょうか。自由だと思います。
自らがそうであってよいと自身で判断したのだから、それを行ったのはご自身でしょう。噂を流した本人の流し方によっては問題の責任を追及する必要はでてくると思いますが、行動した自分は自分であるということのために行動をしたわけで、乗り移られて行動させられた、というのでない限り自分が責任者としれあれば自由であり問題ないと思います。
だって〇〇が言ってたから、というのは自分自身のなりたちの経緯を説明している身の上紹介なだけで、だからあなたがそれを選択して行動したという自由を行使したということは、あなた自身に対してその行動のみかえりをもとめることになるというわけです。

そうとしか考えられなくなっていた、あとから考えればおかしいとわかるのだが、その当時はそれしか考えられなかったとなれば心神喪失などになるかとおもいますが、これが自由として個人の責任にあてはまらない場合もあります。
それは、自分自身の判断や思考の一部について干渉する人物が「自由」として自分の一部や延長として人を取り込み使用し、一人の人間の「自分としての行動」を他人からしてその行動する一部の「自分」へと干渉しているからです。
自由が自分の体を超えて他人の体についてまでも意思決定をすることを「自由」としているのは、侵害にあたりますし自由にさせられた人物には「自分」はないので、責任性は薄くなっていきます。

 

そういう意味においてツイッターで個人が個人の好きなようにふるまうのは自由だと思います。政治の話をしようが、絵を乗せようが自由です。それがその人であるという行為をする場所なので、それに準じているだけでしょう。
ただ問題なのは、アイドルがアイドルの芸名で、俳優が役の名前で、企業が個人名で、などで発言するのはまだぎりぎり自由かと思いますが、他の人間に干渉する内容であれば問題だと思います。
先般話題になった「抗議します」などありますが、これは個人で行うなら個人で表明するのは自由でしょう。アイドルの活動や劇、作品や商品の決裁権をもっている個人でも、おそらくそれが自分の資産として計上されているものであれば問題ないと思います。
ただ事務所や企業が貸し出している名前や役割、決裁権のない商品をあるように紹介したりすることは自分の範囲をこえていないでしょうか。その業務はそのまま自宅に持ち帰ってよいものでしょうか。
よいのであればおそらく問題はありません。疑問に思い発言することも私の自由としてありますが、配役の服装のままで飲みに出かけて演技の内容をそこで披露するのも問題ないかと思います。
そこで問題を起こしてその作品自体が公開中止になった場合も、出演していた人たちへの給与の支払いや配給、提供会社への投資回収の機会損失を当人が埋めるのでしょう。ならば問題ないかと思います。
それを他人が行う事なのに、自分のものとして利用するのは自由の範疇を超えていると、先の定義からすればあてははまるのではないでしょうか。

きゃりーさんがすぐに撤回した経緯で個人と事務所の関係性について個人の範疇だったからという話であればこれほど正確で適した撤退方法はないかと思います。

好きなことを自由に発信していい、はそれは自由だと思います。発信という機能も提供者が担保するのだから、その範疇ならば問題ないかと思います。

ただだれが発信しているのか、掲載して著作権をすべて移譲しているなら管理会社だけの問題なのでそこに問い合わせればよいだけなので問題ないですが、その内容を自分のものだと主張し、自分の管轄でない組織や団体、事象を指名に併記したり引用したりすることで第三者になんらかの影響を与えようと考えるのであれば、問題だと思います。

また、人に関わる方法としての手段の選択を「自由」というのは選択肢自体は自由ですが、それが相手に接触する範囲でそれを目的にふりまわしていることが露見されるものは「自由」の範疇ギリギリではあると思います。

触れたら、触れてこられた自分の対応行動として、その当人と事象があるのだから、直接相手の自由の範疇に介入していいはずということになります。

それを想定してかかわりを持とうとするような距離で発言したり活動したりすることは、個人の個人であるがゆえに沿うならば、ご「自由」にと、そう思います。

 

自由について議論をして再考して、哲学でさまざまなケースパターンをつくることが、その機会をつくる商品として消耗されるだけのものとしては「自由」というのはそんなに安っぽい事柄ではないはずだと思います。
アイデンティティがいかに大事かと発見できてそれが一般にも周知されている世の中になれば、自由というものはもっと明確に文字通りの理解をされ、場面によって使いわけられることがあったとしても、その定義がありきで話せるような、基準がだれにも必要だと思います。
そのための名詞だと思います。


爆破させたりさわったりつついたり、こわしたり迷惑をかけたりすることも、それを感じる人によっても違うので広範には「自由」なのである、なんてことがまかりとおる世には進んでほしくないです。
自分の所有する敷地内で爆破し、了承を得たうえで他者と接触し、行動の結果は関係者各位了承済みである、という広い「自由」という「自我」の存在があるならば、それは法人格としてあるだろうし、あってもよいかと思います。
自分のツイートを何万枚も紙に印刷して玄関前に置いておくのは「発言の自由」だと思います。それを他人が整備したネット環境で、他人が集約した会員に、他人が付与した拡散方法で拡散しておいて「自由」なので「みたくないなら見なくていい」などというのはぎりぎり自由ではないはずではないでしょうか。
利用規約に会員はその心身および行動を何々にささげるものとする、とあるのだとしたら、宗教的な意味合いでそれぞれが自由と感じる境界線は、団体の輪郭そのものになるかもしれません。
また、利用規約にすべての著作権は管理会社に帰属します、とあれば各個人は「その展開されたサービス内において”自由”なので自分の身体がごとく隅々まで関与しても、問題ではない可能性が大きくある」になるかもしれません。
もちろんその自由の範囲はしていい前提になると想像できるので、あらかじめ文章化して約款、規約に書いてあるとは思いますが。
つまりへんな画像を掲載したり誹謗中傷をしても、その提供会社の責任であると、言ってよいと思います。もちろん利用規約にそうした場合の損害は個人に問いますとあれば、同意して利用した場合それを問われることにはなると思います。

人がなぜ人のあるべきという概念にしばられ苦悩しているのか、といった「自由」に介入してくる環境についてなにかしら考えることは多くの人にも少なからずの時間としてあると思うのですが、それはその環境に接続された時間によって形成された環境にあって万物がそこにあるべき処遇をうけていることについてなわけで、人が、生きるということが、自由と不自由について、などとは全く関係のないことではないかと思います。

自分が自由でないと感じて接続、操作、強制、を感じるなら自由を求めたり、自由とは何かを考えることが必要でしょう。

自分が都市やなにかによって生活をさせてもらっている、それらに影響をされるのはなぜか、と考えてもゆりかごの揺れに対して体がゆれる以上に理由はないでしょう。

揺れたくなけばゆりかごを卒業するしか、ゆりかごにある自分を憂うならば、まあその思いを歌にでものせればよいかと思いますが。

人間というものの動作説明を確認して、それをその釜に投げ入れれば、ああなんとどうしてこんなことになるのでしょう、というのはちょっと過度な演出が過ぎる人の生きるということ自体の弄び方かと思います。


自由とは自分であるとしてよい範囲、とりあえずなんでも濫用され適度に解釈され選定基準をなしに内容を通過させるときに使われるように見える単語について、まとめておきたいと思いました。

 

自由という自分自身のまわりには環境があり状況があります。

 

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ではデリケートな問題ですが、命とは何でしょうか。
いきていること、まあそのとおりだと思います。生きていればどうなるでしょうか。いろいろあると思いますがまず「時間が経過する」ではないでしょうか。
それを記憶することができたり、記録したり、変化したり積み重なったりすることを、自立して行動できる単位を命というのではないでしょうか。
ならば植物は微生物はとなると思いますが、いずれも命といえると思います。
それが大事だとか、価値とか、重みは、となぜか物理の鎖につなごうとすぐされると思いますが、そういう意味でいえば命は現象ではないでしょうか。
現象に価値をつけることもできますが、販売方法は場所ということになると思います。虹が見える滝があったとすれば、その滝の、そのタイミングという現象がありますが、それを売ることはできません。
入場料を取り場所を価値づける、写真を撮影し状態を記録した情報を販売する、などできるかと思いますが、そこにかかる虹に価値はつけようがなくないでしょうか。
命が現象であるなら、それを見る機会や同席できること、変化していくことで周囲にあたえる影響など、どこかに価値はつけることができますが、命自体にはつけることができないのではないでしょうか。
では「~よりも大事」とか「~のほうが大事」などと表現ができるでしょうか。
ざっくりいうとその時々での最善、だとしか言えないと思いますが、命そのものや命を含んだ状況が、それの行動を判断したり助言したり、ときに強制したりすることもあると思います。
言葉の意味として、そのものの比較ではなく状況や環境についての価値と選択について「命」という単語をつかったのだ、と、いえなくもないのでそういう意味だったとしても、それを選択したり準備したりすることはできます。
命とは謎の空間に存在する絶対的なろうそくで、人はそれにだれも触れてはならないとされている、わけではないはずです。

命より大事な、命よりも大事なものは、といった事柄も、そのときどきで発生するとかそれぞれにあるといえなくもないと思いますが、基本的には「命より大事なものは存在することがある。それは命である。」とだけは言えると思います。


たとえば、母子ともに危険な出産があったとします。命が選択という天秤にかけられる物質に変換されてるともいえなくはない状態かもしれません。どちらを救いますか?
できればどちらもが良いでしょう。それは前提や状況があって変わるものでもないはずです。そこに条件や状態をつけてくる質問をする人がいたとしたら、その意図を測りかねます。
なんの意味があってそんなトレーニングを必要とするのでしょうか。いじわるということを経験値として高められる可能性の機会として好意的にとらえたとして。
しかし実際に選択の場面は発生する可能性があります。そんな時に役立つ、とかそういう疑問でもないのが先の質問です。慌てふためかず冷静に判断できるきっかけをもたらすためのトレーニングとしての二者択一のクイズでしたというならば有意義だった可能性もなくはないです。
その選択は、命の選択ではないでしょう。命という機会を継続させたり広げたりするために自分がどれだけの可能性に対して行動できるかという選択肢ではないでしょうか。
分娩に1手術、母子それぞれに救命措置をとれる環境を1ずつ、合計3の手術、医療行為の準備を行いそれぞれが連携しつつ独自に全力で対処を行えばよいだけの話です。
ただそれを個人で準備できるかどうか、という選択肢がでてきます。これが途中経路を省略されてつながってしまっていますが「命の選択」ということになります。
できないもの、無理なもの、できたらいいとはおもうこと、それらまでに自我の上乗せをもとめ「自由」という個人の範囲におさめ、責任を追及するのは酷です。個人に発揮できる能力の限界はそれぞれにあるはずです。
だから選ばざるを得ない、という人がどちらかの可能性の継続のために一つを選択したり、あきらめたりすることはありえるはずです。
そこで出てくる責任とは、なくした可能性について悔やむことだけではないでしょうか。情況は自然発生するわけで個人の範疇を超えています。資産と準備の対比も均一ではありません。
これに介入して大きく助成をしようという国民皆保険は「命」についてとても大きな選択肢の幅を持たせているのではないでしょうか。
国民健康保険が出産につかえないという、この例をだしてさらに意味のわからない事がありますが、選択肢として継続させたい時間の選択がまだ人として権利の発生していない個人の、母親という別の人物に大きく損害を与えて生まれてくるということにあるのかもしれません。
赤ちゃんをみな母親に対する傷害罪で訴えなければならないことになったりするかとか、それが発生するまでの経緯について健康をだれがどのように担保しているのかについて医療や治療として関与するのかと、文字でみれば不思議なところはあります。
抜け穴がないように熟考することは、法の番人という仮の人格か役職、部署などがなければそれを隔てることができないため難しいことになってしまうのではないかと思います。
医療と出産が別であるとすれば根本からの免許、施設、制度、などが別として成り立つ必要がでてきてしまうと現実的な問題に直面することは想像に難くないはずです。
だからといって一緒にすると治療と人権と事件、などの側面からいえば「そうだといえなくもない」事象を人為的に発生させることができてしまうことも、ありえなくはないのも想像できます。

ほかに自分の命を犠牲にして他の人の命を救う、という文字列的にいえばデリケートな問題もあります。
サラリーマンのお父さんは子供と奥さんのために命を削っているといえば、それは命を犠牲にして命をつないでいるともいえなくもないはずです。
命をかけて人を守るとか生活を守るといえば、命が時間であることとあわせて想像は付きやすいと思いますが、研究や物理的なアイテムのために命を犠牲にする人もいないことはないと思います。
それらの場合、だれの命、というわけではなくみんなの命、未来の時点のどこかの場所にある命、時間に対してあってほしい、あったらいいなということに自分の命を犠牲にしている、自分の命より未来にある命に価値を感じて、命を消費して命を獲得できる可能性を模索しているわけです。
繋がった命、その準備された時間がうまく使えなかったり浪費したり、損なわれたり、機能しなかったり、そんなこともあると思います。なにせ未来は見えないものですから。

そういう継続していく未来の方向性へ、自分と自分の視野にある人のこれからの経過、経過していく環境における可能性について、自分の時間を使うということは命の駆け引きをしているといえると思います。
いまの時間という命を消費して、なんらかの時間という命をつながるように交換しているわけです。
なにものにもかえがたい絶対的な比較不能な価値の「命」をだれしもがその胸の内に秘めているのだ。これは絶対不可侵だ、という定義が成り立たないのは、レスキュー隊は自分の命の危険を顧みながら救助活動すべし、となるからです。
自分が救えないと判断した場合、助けを乞う声にどう対処するかという規範の設定も必要になってきます。絶命させてあげるべき、とか苦しまないように、とか。
危険な仕事は軒並みなくなるでしょう。橋をかける仕事が家族の支えになるような立地関係ではなかったとしても、作業員はそれをすることで得られる金銭で家族を支えるという結果に至るわけで、危険な現場での工事に携わることでかけている命は橋の架設ではなく家族の生活なはずです。
他人がとおる橋に命なんかかける必要はない。土地の所有者がすればいい、ということになれば工事を代行しておこなう業者は軒並み不要になります。
家を建てられる人間も限られてきますでしょうし、命なんてかけなくていい仕事だけで共同体を運営していくことになります。

時間をお金に換算できる仕組みをもって近代的な経済活動が行え発展し、命自体を低い可能性に賭けて発展させる必要がなくなっている近代において、命の価値をあらためて問うというのは、ただいたずらにいじわるな問題なのではないかと思います。
各個人の生命活動について、という意味での命であればトリアージをどうすべきか、というのを全人類規模で哲学する必要があるとおもうので、それこそ壮大なテーマかもしれませんが、おそらくお話にある命の焦点はそこではないと考えて、の感想です。

命を個体の生命活動、その賭け引きを停止するかしないかの局面のみ、にしぼって話題にしたり議論にしたりするということは、ロシアンルーレット会場を毎回用意して、さあ命とは何なのか問おう、という集会そのものかと思います。

芸術、アート、自由、命、について、脊髄反射でうやむやな話をいつまでもだらだらするのはもう終わりにして、必要である判断基準や合意原則、プロトコルや定義を、議論を前に進めるためには準備をする必要があるのではないかと、いいかげんずっと思っています。
それが前にすすまないのは、それによる経済活動がわりがいいので、いつまでのその正体を謎のなんとかとして追い求めるツアーを募って料金を収集するということがあるのだろうとは理解はしています。
また法律などでの定義についても、いよいよ個人の個ごとに基準を選定できるように法整備がされる未来があったとしても、現状そんな対応はできないので規律自体にゆらぎやあそび、ざっくり分けた範囲があるのもやむをえないとも理解しつつ、マイナンバーなどで「ざっくり全員対象、申請次第」などはなくして行ってほしいなと思います。

コンサルだとか哲学サロンみたいなのが必要とする条件なんか埋めてしまっても、まだまだ人間の知性はどこからでもあつまりや基準や知識を求めるものだとおもうので、そろそろこのあたりには答えを出してもいいのではないでしょうか。