読まない。

書くだけで読まないブログ。

批判と誹謗中傷

そんなにこまめに文章を書いたりはしないのですが、ほかの人に説明をするため、話題を共有するため、議論をするためなどにいったんまとめたりします。
それがこのブログなわけですが、そういう面倒な話が短いスパンで時事ネタとしてあがることは良いことではない気がします。

大衆のまとまった動作が人ひとりをどこかの方向に押し出すことはときおり問題にはなりますし、大なり小なりどこの環境でも問題にはなっています。
根本的に人間は、大衆は、道徳は、などというのがそれらに効果がないことはもうすでに今回また大きな事件が発生してしまったことでわかると思います。
というかずっとわかっているはずです。そのような状況が消滅していない時点で。

 

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お気持ちはわかりますが、お話されているだいたいのそれがネットで大衆が人ひとりに関わる重圧のタイミングと対象と方向性が「まずいんじゃないか」と思われ始めた頃のそれではないでしょうか。
まず批判と誹謗中傷を分ける必要はあります。その分け方が「事例」とは語る人それぞれの知識と感覚にゆだねられるわけです。話し手を経由していくたびに変化して最終的に望まぬそれそのものを伝播させることにはなりませんか?
もういまなら個人ごと、著名人ごとに派をなし具体的に論を形成してもよいのではないでしょうか。


ここですこし、議論というもの自体についてお話させていただくと、議論というのは論を構築するための儀なわけです。稟議みたく場をもうける、タイミングを設けるということです。
論というのは方法のことです。たとえばネットリンチ対策論、という文字情報による基礎的な定義と対処方法を記したものを構築するために儀を設けることが議論です。
ネットリンチ対策法というものができるのが、方法の「法」からいえば字面的にはあっていますが、法というのは環境において従うべき反したものは定義された対処をされるという集団行動指針です。
論は法になりえる骨子を備えるかもしれませんが、あくまで多数あるはずの多角的な選択肢の一つであって、複数あるべきで、それらをかけ合わせたり場面によっていくつかの中から選択すべき候補となれるよう抽出し形成された情報です。

ネットの交流システムは議論にむいてるだとか、むいてないだとか、これはよい議論だ、という言葉を時折みかけますが、だれかの名前がついた論だとか、具体的にこういう指針にすべきという論が成り立った試しがあるでしょうか。
ネット上に揺蕩う有名な名言はいくつかありますが、それらが実効的と感じられるような論としてまとまったものがあるでしょうか。
私は、コミュニケーションツール上で「議論」などされたことがないと思います。みな有象無象の意見交換だと思います。ネットはそのような現実をみとめネット上でのそれを成す定義を文化として生み出すか、手紙の延長で使い続けるか、いつでも分岐点はまっていると思います。


そこで、議論されて、論を作られたらいいなと思うのですが、批判と誹謗中傷の違いは何でしょうか。
私が思うに、それは職や能についての意見と、個人の個人に対する個人の個人的な意見の違いではないでしょうか。
職や能についてなので表現もその分野や状況状態そして期待する方向性について単語や表現はまとまってくるかと思いますが、個人の思いであれば自身の表現や感覚がすべてなので言葉の選択も変わってくると思います。
具体的には例で挙げられるそれら、になるのではないでしょうか。

期待として、大衆が大勢で押しかけ一人一回ずつ撫でていくだけでもグラインダのような摩耗が発生するというのはわかります。
なので大衆をコントロールしようというのは、その前提条件そのものと同じ事ではないでしょうか。
大衆の誘導された先が、別のなにかで大量接触してくるというだけ。そしてそれは誘導対象に確保してある対象団体のみ、なので他の管轄下の団体は影響をうけず実際の問題は減らないかもしれないし、むしろ団体同士で敵対行動をとるかもしれないとすると問題はただ倍増しているだけになるかもしれません。
大衆には影響を与えない、大衆に影響させないということが大前提としてあるべきではないでしょうか。
SNSで大衆がそれぞれ意見をしたりすることを前提とする、ということをしないことが必要なのではないでしょうか。
この「しないこと」の必要性というのが「具体的にしないでほしい」と宣言することではないことも大切だと思います。ピンクの象です。
「みなさんに石をくばります。ここに追放したい人の名前を書いて下さい。これをオストラコンといいます。」と番組企画を説明したとします。
「これは陶片ですが、決して人になげたりしないように」と明言してしまうと「投げれるんだ」という人とあえて聞いたうえで知っていて投げる人間が出てくることになるわけです。
先に、投げてほしくない意向を準備するならば「象はすべて、皮膚の色は灰色なのです」と誘導をしておくべきです。
「陶片の利用は投票のために、この壺にいれるということだけにお使いください」という言葉に付帯する「それをしない無知は恥ずかしい」という状況を追加できればなおよいのではないでしょうか。


そこまですれば、大衆もバカではないのだから聞いてくれるでしょう、などと安心されるでしょうか。しないのではないでしょうか。
かならずそれにあてはまらない個が存在し、時にそれが流れを扇動し予想した「予想したくない状況」へ向かうことがない、とは言えないのではないでしょうか。
ならば、自分の確保した大衆数の数と等しく対応が必要になるはずです。観客と同じだけの人数の警備員を用意する必要がでてきます。そんなことは現実的ではないですよね。
なので、声のおおきな影響力の大きな支持者の多い人は自分の確保している人数へ問いかけることで「自分の団体は」抑制ができるかもしれません。
しかし各方面多方面、多人数におなじ立場の人間がいるのでその数だけ支持者が存在しているわけです。戦国時代の合戦みたいな状況になってしまいます。
ならば逆転的に、一人が多人数に問いかけ誘導、扇動、影響をさせるのと同じ構図で、逆に大衆や団体が個人に押し掛けるのを抑止したり防御をしたりすることのほうが現実的ではないでしょうか。
役を演じていることに気が付かない人間や、混同して役を現実に個から批判するいわゆる誹謗中傷に変化してしまっている批判をする人や、わかっていて誹謗中傷する人などでてくると思います。
それら個々に段階をわけそれぞれに適した対応が必要でしょうか。またその発生を断つためにはどれほどの教育が必要でしょうか。現状の教育制度では足りていないことは現時点で分かっているで革新的かつ大規模な教育を必要とするはずです。

実際芸能界がやくざと絡んでいたというのはそういう無茶を耐えきる組織が同じように人間を消費する業種で成り立たせるのが合理的だったということかもしれません。
訓練された強靭な組織が、時に状態を危険なものにした群衆と接触するところから個人を守るという行動を、業務にしたりすることが必要になるのではないでしょうか。
それが芸能事務所であるべきかとは思いますが、実際スケジュールと料金交渉の組織が事務所なのではないでしょうか。ケアはどうされているのでしょうか。
有名人も事務所も、もはや個の単位で大量に存在してしまっているため、それぞれが準備することは不可能なのではないでしょうか。
ネットの発達により、個で事務所をもたず仕事をしている人は増えつつあると思います。安全性は、それぞれのされているお仕事の上で、確保されているのでしょうか。
協会や団体、共済共益団体など、昔存在していたものの意義は、個が倒れないため個の弱さを補うため、個が団体に晒されないために組織されたものです。
その実行効果を感じることが薄いし、個人で活動したところで遭遇率は非常に低いので、団体を解体しよう個人ではじめようという現実があるかと思いますが、結果いくつか事件になることが発生はすると思います。
結果、その分散によって想定された許容範囲の被害が、今回の事件であるといえなくもないのではないでしょうか。


本当に再発を防止したいと考えれば、大衆の意識が天界の住人ほどに浄化されたものへ教育されるべき、とかいうものではないはずだと思います。
みんな高校卒業までを義務教育として、隊列を組んだり集団行動をしたり、規則をはずれたものを厳罰に処して均一の道徳、一列に並んだ判断基準を植え付けるべきとなれば、大衆は間違った行動に大量に扇動されることはないでしょう。
その結果完成した集団行動で、全員が正しい命令系統で、悪事をおこなったらそれはしりませんが、それを先の大戦の日本と重ねて批判される声もすくなくなく見かけると思います。
自分が扇動できる団体を保持している、そういった組織に意見できる、という感覚からすれば、みんなおちついてと声をかけることが最も効果的かと思うかもしれませんが、それ自体が問題であり意味のないことだと思います。
特定個人に追随する団体や組織を率いた状態は一人の後ろに大量に人がいるわけです。先頭の人間はフォロワーを引き連れて目指す方向にのみ進むしかないのです。自分がしなくない、複数選択したい岐路においても、一人しかいないので隊を分けることはできません。
意見がぶれたり、立ち止まってフォロワーに語り掛けたりすると、あっというまに囲まれてしまうわけです。またほかの人が率いている隊は、同じものではありません。意見も意思も、願望などもまったく異なる組織です。
団体を率いている自覚があるならば、自分のフォロワーにはしてほしくないことを避ける方向への意思を明示するだけで事足りましょう。人がそれぞれの立場でそれぞれにできる範囲というのは、そういうものだと思います。


ここで、批判と誹謗中傷について繰り返しますが、業務や役職、技能について評価を多角的、多方面的に募ることはその活動に好適であることも多いと思います。
個人の生活におけるなんらかについて、個人が思うことを意見するのはふつうに個人への干渉なわけで、好適であってすら遠ざけられるものだとされていました。芸能人の日常などというものは用意されたものであったはずです。
実際に個人的な情報や生活に接触することは少なかった時期があったろうと思うのですが、現在では演者自身がSNSなどで個人情報や個人的嗜好、思考や生活を発信していることがあります。
これを役柄、個人、生活における立場、どの段階にどのスタンスでどのように情報を発信、共鳴させていいのか判断のつく人間はどれほどいるのでしょうか。
配役のキャラクター名、芸名などで情報を発信するときにはそういう組織や状況、環境で構築された営利目的で活動している擬人格が情報発信しているものだと思うはずです。その状態で個人の情報を発信してしまっている人を指導している事務所はどれほどあるのでしょうか。
また個人の名前で、業務的な情報を発信している演者もいると思います。それは時間外労働なのが横領なのか、問題はないのか確認はされているのでしょうか。
その結果、役割の批判が個人に向かうようになり、職務上の批判や意見であるはずなのに個人に届いてしまっているためただの誹謗中傷になる可能性もあるのではないでしょうか。

 

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状況はこのような話だったようです。みんなに投票用の小石を渡したら、一部の人間が複数人それを投石として使用したということです。
みんな投票、選挙制度しらないの?なげちゃだめだよ、社会科勉強しないと、という話ではないと思います。投げるやつがいる前提で、なげられた石をうける仕組みが必要なのではないかと思います。
なげられないものを使って投票をするとか、それでは「観客がよろこばない」とか思うのかもしれませんが、そんな神様がいたとしたらどうですか。
人間はスーパーパワーをもらってわくわくしないわけがない。ランダムにあたえてみよう、とかになると映画「ブライトバーン」みたいなことになるわけです。与える必要はなにかあったのでしょうか。
人間がおかしな行動をとる、おかしなものに注目するために、より異常なものを考え作成し放映する、それがテレビの役割でも番組作りに必要なものでもないはずだと思います。
自分たちが面白そうだと考えた社会現象が結果そういうものだと、かつてテレビ業界が暗黙のうちに知っていた最低限の条件をいまさら気が付いたように言われても、時代のなんとかだという言い訳が通用すると思ってほしくはないです。

 

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全然逆方向ですが、すばらしい才能があったとします。ずっと活動されていたとします。
それがなぜいままで無名だったのかということです。
いくら真実がそこにあったとしても、プロデュースが大衆の足の踏み場のあるところまで届かないと、名も知らないわけです。
逆にプロデュースをされてしまえば、そんじょそこらの女子高生でもアイドルになれるわけです。
これはどの個が冴えていて、どの集団が機能をしているのかではないのは現状をみるだけでも確認できると思います。

具体的に、いま足りないのは、個人を守り支えるというものが、核家族化や営利活動の個人分化で、お金で買ったり宗教に入ったり、一人で耐えるしかないという問題だと思います。
前に命の価値という話をしましたが、傷つきやすい命をまもるためには、そのために命を使う人間がそこにいる必要があるのではないでしょうか。