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中学不登校について

 

 

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たしかに悪いとは思う。中学校に行った方がいいと思うし行かないことはデメリットだと思う。
しかしそれは今わたしが感想としてそう思うだけで実際にはいいもわるいもないしメリットもデメリットもない。
チャンスでもあるしロストでもある。そんなのはわからない。人間だもの。

 

ただ話題の彼について思うところが良い悪いではないところだとしても気になるところはある。
それは漫画の主人公がこの技をなぜそこで使わないのか、それは伏線なのかただ作者の以降なのか編集がそうさせたのか、というところに思いをはせるのと同じことではある。
中学校にそんなにいっていなかった、卒業ができる程度に通っていた友人は私にもいた。
中卒ののち、一年ほどフリーランスのライターのようなものをやってる人の所に居候し、結果一年ほど勉強して大学に進みひどくとおい地方の公務員として働くようになった。
どれも年齢的な好機を活用した形かなと思うしそれを逃さなかったことが生活を支える基盤となっていたのではないかと感じる。
それぞれの人生の設計をそれぞれが行うのは、自由だろう。

 

ただ学校にいかず動画に顔をだして、のちに資格や前提が承認や許諾に必要な立場になれるのかといえば現状難しいとは感じる。
今のうちからいろんな大人にあっていろんな学びを、というのはたしかに良いことだ。行動しているということは何にしてもよいことだ。いい結果悪い結果どちらにしても、選択肢が発生することはよいことだと個人的には思う。
しかしそれはその時点で、時間をつかうということが、どの時点に反映される「良い点」なのかは疑問に思う。
たしかに子供の頃に学んでおきたい体験しておきたいことはある。それがその時点であったから得られた情報を活かし行動につなげることができるということもあるだろう。
子供のうちから社交性を学ぶことについて、すでに大富豪の子供であり指揮をとるべき莫大な範囲が予定されているとでもないかぎり、それは必要ではないかと思う。
そんなもの、あるじゃないか!未来という莫大な財産が!みたいな言葉では構築できるけれども現実問題として所有権が存在していないものについて、影響を与えたということだけについては言えるとして、言葉をつくろうのはよくない。
そんなもの、ないのも同じだからである。保証は、保険は、いまいくらの金額でそれを支えているのか、そういう現実問題である。

 

疑問には思うがそれが話題性があり実際にいま職業として、おしんもよろしく子供のうちから激務をこなしているであろうことは感心する。
悪いことではないと思うし、それを選択したのだろうし、それをすることが何かしらにとって最も効率的だったのだろう、時期的にそれが最良だったのだろうと思う。
なのでそれをやめる必要もないし方向転換する必要もない。私にもなにが良いか、良いだろうとは思うが悪いとか、悪いというならばどれが良く、悪い結果を回避するために必要な策はなにかといわれたら、持ち合わせていない。
策がないので、なんとなく勘でそれが悪いことだとささやくの私のゴーストが、と言うのも自由だろうと思うが、それは自分が判定の全責任を負う事でもある。
私は他人の人生にダメ出ししてその人の最善の人生を指導してあげられるほどの実力も財力もない。人の命を弄ぶほどの権力もない。
だれかの選択肢は、みるたびにそれいいねとしかいえない立場ではある。

 

そのうえで、単純な話で基本的な話で、たぶんもう計画もされていて実行もされていて、手をうってある話かもしれないが、そういう生き方にひとつまみあればいいなと思う調味料的なことを感想として思うことがある。


まず、だれもしていない時間の使い方を今行っている。これは偏差的な価値があるだろう。それを発信することで稼ぎを得ているのだろう。
これが、二十歳すぎでいろんな業界の人たちに会って話を聞いてみた、なんてことをやってる人は多い。同じ手段で情報を発信している人も多い。
この差はなにか、年齢である。年齢において特異性があるので活用できているし、ほかに競合が発生するかといえば「中学校に行かない」という選択をしなくては現れない。
これが優位だということは、自分が特異であること、自分のしていることが「すべきでないことをするとどうなるか」の具体化であることは自覚していると思う。
生きたい学校をつくるために学校にはいかない、すると学校というものの構造を通う側から体験するのはいつに設定しているのか。
いったこともみたこともない現場に口出しをするのは、いま現在現時点で問題になっているなんかくばっとけばいいだろうという政治や政治家と同じ問題として批判をうけることは予測できるだろう。
つまり、今という時間と状況でなければ稼ぐことができないのは誰の目にもあきらか、いまたしかに楽しく消費してもらえているが、これが特別な位置でありつづけられるのは時間の問題でいつか枯渇する資源なのはわかっていると思う。
そして特定個人の彼なら、できるはずだという未来もあるだろう。しかし一般論として一般人なら、その商品価値がなくなったときどこにシフトすべきなのだろうか。

 


いま話題の彼も彼自身がすごい才能を秘めてそれを開花するのをまっていたり、片鱗をみたり、実際に実体効果として受けているわけではないはず。
人気漫画の格好をして、人気漫画のセリフをまねて、アニメや漫画の服装で、他の人も訴えている事を自分も「子供なのに」訴えているというスタンスが、才能や素質を感じさせるものではない。
演技がうまい朗読がうまい、トム・クルーズだって文字がよめないけどその見た目と動きでトップスターだといわれたら、トップスターの素質があるのかもしれない。
しかし、かもしれないは可能性でしかない。それは明日死ぬかもしれないと同じ程度の可能性でしかない。

 

将来の出演の契約をすでに取りまとめている、とすればどうか。そのリスクは回避できているだろう。それはやり手だ。
彼の活動や行動の計画性として経年的なプランはあるのだろうか。
彼自身の才能や境遇が、将来的に安定だとして、それはそれで喜ばしい。
他に類を見ない人間がいる、それだけでなにか期待をさせるものだ。全く関係ない庶民の私にも。


しかし彼がただコスプレをしてほかの大人が訴えている言葉をまねているだけだとしたら、それが時期的に売れているというだけのことであるなら、みんなは絶対まねしないようにとしか言えない。
世界をかえた有名人は多くいる。しかし「誰々の再来だ!」と言われた人は何人くらいいるだろうか。
他の人が成しえたことだから、誰かや自分ができるわけではない。
しかし事業は続けていくことができている。
この差はなにか。
属人的でなければ、その行動は共感も得ることができるということだ。
逆説的に、共感をするところは、属人的でないメソッドについてということだ。

 

子供が不登校でユーチューブで、ここまでは誰でもできる。そこで儲からなかったらやめてほしい。現時点ではそれは判断できる大人が大半だと信じている。
そして無理に借金して博打で破綻しながらも子供を稼ぎのネタにしている人はいるかもしれない。


それぞれは個別にそれぞれのあるべきを成しているはずだろう。それらについてこちらは支配権などもっていない。
ポリコレという理力を稼働させぶん殴る必要性がある社会的ななにかと個人が判断すべきところでもないだろう。


中学校にいかず、そもそも学校にもあまり行かず、知識をえる方法は多くあり、その時間で稼ぎを得ている、それはそれで当人がよければよい範疇でしょう。
それを見て、そういう事情や状況についてメタ的にみて、手段や方法について、感想を抱くことはあるわけです。

 

そしてその自分が考えたモデルケースが実際に有用だろうと考えたら、共有したくなり、それを進めたいとおもったら活動や行動をするわけです。
ガレージでパソコンをつくったり、家を貸してもらって選挙活動事務所にしたり、いろんな手段や方法があると思います。環境やタイミングといった運もあるでしょう。

 

学校に行かずに稼ぎのために時間を使う、そういう子供時代があってもいいと思います。アイドルや役者なんかもそれに近い生活をしたり、またロールモデルがあるならそれに沿った人生設計もできるかもしれません。
海外の子役俳優が大きく稼いだ後、破綻した人生を送るというニュースを数件ではありますがみたことがあるとそんな未来も想像してしまいます。
それが、そんな未来以外のよい結果としては、あいからず同じ路線での稼ぎができる成長をしたという事例くらいしかみないところに、あたらしい活路を想像したいわけです。
その想像をさせようという役割をしてくれただけでも、不登校の子供はなにかに貢献してくれたのかもしれません。

 

売れっ子でなければすでに意味がありませんが、子供時代に一生分を稼ぐという形はありかとおもいます。商品が底を尽きたらのこりは貯蓄でいきる。それもよいのではないでしょうか。
年金という制度が崩壊したり、貯金が保証されなかったり投資が安定しないなどありますが、一生分を稼ぐという位置をシフトするのはありかと思います。
人生設計的な意味で言えば結婚や出産などもそれにあたるかもしれませんが、とりあえずあまり話を広げすぎず、労働の主体を年齢層がわかい人にシフトし、一定以上は労働せず生活するという形も、素質もなくただの人であっても職業の選択としてありえても良いのではと思うのです。

これが現実的でないのは、未来のことはわからない、いくらためたところで未来においては数日、数時間、数秒や数年でその価値がいまの価値と予定や予想をできないところに移動をされてしまうということです。
より確実なものとすべく約束や取引、誓約などありますが、現実はそれを乗り越えてきます。ただ人が生きるということだけについては何の保証もなく続いていくことがより確実であろうと社会がそうしています。
この人間の目にうつる世界全体をほとんどが、人はしなないようにとつくっている現状、いろいろと考えうるほぼすべての予定や約束よりも確実に、人は明日も生きています。
社会的なものを越えた自然の摂理において人の生死は、そうあるべくとしてあります。いってみれば人の体が病気にせよ事故にせよ老衰にせよ自然と寿命をむかえない限りはしなないのです。
だれかのエサとして死なない、自然の摂理以外の連鎖の輪からはずれているのです。


生きている確実性をお金に変えられる稼ぎ以外は、何らかの生産に関わる必要がありそれはお金があるとうだけよりちょっとだけ安定性と安全性について高くあります。
若さを消費して若さが枯渇したのち、過去の生産で貯めた備蓄で生き延びる。60歳でそれがで来ていた時代もありました。
それを20に引き下げるようなビジョンをもってほしい、と観客は思ったり、それを考えることもあるかもしれません。

 

若さをうるだけの商売で、それがなくなったら破綻した状況、炭鉱の終わりや観光業の衰退など、みていれば予定というものの危うさの中、確実にその未来の予定についてだけ一点張りの予測で投資をしている現状について、安定性と安全性を確保する方法がもし見つけられたら、それはいい事だろうなと思います。

どちらにしても、今のモデルに引き戻す実力を私が持ち得ているわけでもなく、未来の方向転換をできる素質もないので、その切っ先となる可能性がある人の進むかもしれない行く通りもの未来は自分が感想を言葉にする程度には期待をもつ。
期待しているからこそ、心配でもある。
その心配を払拭するアイデアをつぶやく程度のことは、してしまうのが人間だろうと思う。

ただ人としてそのつぶやきをぶつけて、痛がる相手の反応を、自分はいたくないのでその痛がる姿との偏差を、偏差を発見したという事をひろめるための本能的動作、たのしみとしたりしないような、そんな時間を過ごしていければと思います。