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馬鹿とゆったほうが馬鹿

 

馬鹿という発言をしたほうが馬鹿なのである。なぜならそれは馬鹿だから。
そう、われ思うゆえにわれありなのだ。
世の中には馬鹿がいる。そう、なぜなら馬鹿のことを「馬鹿」としか認識できない私がいるのだから。
そういう事である。
「うへへ、馬鹿に高く売りつけて大儲けだぜ。世の中馬鹿ばっかり」と失礼な発言をする経営者がいたとして、馬鹿に食わせてもらっているのである。
世の中から馬鹿がいなくなれば食べて行けなくなるのである。

 

馬鹿という言葉を永遠に使わなければ、馬鹿が存在しなくなってしまうのである。
ここに世紀の大発明「ゼロ」を入れると悪魔合体し凶悪な思考方法が発生してしまう。

 

「馬鹿なんてもともと存在しないんだよ」
こう発言することで、馬鹿を発生させてしまえるのである。
これはピンクの象問題であり、否定することで前提ができてしまう問題である。
ゼロが「ある」として、ゼロだからない、それがないという事でそれを存在させてしまうのである。
Nullと空文字の違いである。空である文字が発生するということは文字のない「文字がある」のである。

 

表現の自由児童ポルノが問題だという話は、まあ問題なのだろう。
それはいけないことだろうし、いけない事だからといってじゃあ無にしようとするとこの世からポルノの分野に児童が被害にあう事なんてなくなる。
仮に暴行され性的な被害を受けたとしても「児童のポルノ」は存在しないでよいのである。ただの性的被害者でよい。
それでもたしかによいはず、ではあるけれども、夫婦別姓の問題にしても「その体勢について法的な整備が足りていない」状態では本当に無にしてしまうだけになる。
ロシアのように「子供も大人と同じように扱う」という地域性があれば子供タレントで可愛らしい女児も多くいる。彼女たちはしっかりと大人と同じ役割で舞台に立っているのだ。
「え、じゃあ子供がポルノに出演することもやぶさかでない?」という疑問を否定したならダブルスタンダードだと、今のはてブでは言われてしまうだろう。
それとこれとは全然ちがう。関係のない話だ。
じゃあ大人なら年収5000万円あるの?大人なのに年収5000万円ないの?
大人の人で年収5000万円っていう人もいるのにあなたは年収800万円だなんて、大人の定義を語るそれってダブルスタンダードですよね。

 

どの分野においてどの属性の人間がどれだけ分布しているかは、それぞれである。一部ではそういう所もあるということ以上を人が言及はできない。
ロシアといってもウクライナの地域で子役タレントがメディアによく見られるという事についてその立場の扱いがお国柄という事も一部ではある。
内戦でどういう立ち位置にあるか、ロシアと言い含める他の地域はどうか、世界では、常識では、そういう事それぞれに個別の事情と状態がある。
私は、ただ取り上げた。ただそれだけである。
そう言ったから責任をとれとか、言ったことが前のものと定義が異なるとか、それはそれぞれの個人のものだから仕方がない。
ただ、契約として受け取る場合、物々交換で安定して同じものと交換をする予定だったものが違っていたりするならば、異を唱えるべきだろう。
昨日の自分と今の自分が同じであると証明しなくては、あなたを信じる事なんてできないしアイスクリーム店にいったらカップやコーンやスプーンなどは「アイスではないので」売っているのはおかしいのだろうか。
そういう事ではないとわかっているであろうけれども、とりあえずなにかにぶつかることで自分の外郭に触れられ、自分の大きさや自分の存在を知ることで安心をしたい人もいるだろう。
痛めつけられたい趣味の人もそういう部類なのかもしれない。
その論をもって往来を目的地へ向かおうとしている論者に体当たりをして、痛みをうけて自分の生を確認することと、同じ痛みを相手も味わっているだろうという共感の予想から、自分も相手の価値と同じなのではないかという錯覚を味わおうとしてくるのは、はた迷惑な行為ではないだろうか。

 

二次元の児童ポルノを禁止するということを肯定するならば「二次元の児童がポルノとして存在しうる」となるのだ。
表現の自由がどうのという話で、放送禁止か取り下げられた展示かなにかを常識はずれだからやめろといわれた事も表現を規制しにきたから同じなのではないかと、ダブルスタンダード疑惑をかけられているようにも思う。
いやそれは同じだろう。
「絵で女児が描かれていたらポルノである」という事にしてしまったらどうなるのか。
状況説明や事実の情報を残す手段、表現や想像の範疇、可能性もふくめそれがあることが問題になるのだ。
この世からその対象について被害を示したりそれに言及する手段がなくなる。なにせそれをすると違法だからだ。
子供という存在を扱う情報については全般にそれらが規制されることになる。
教育や公共施設や家庭などで接するその時に名前を言ってはいけないなにかと触れるガイドラインに沿って子供と接しなくてはならなくなるだろう。
子供が脱衣所で服を脱ぐなどという行為を共同浴場で書かれていたらポルノも甚だしい。
もし、女性が苦痛を受ける事は禁止、だとすると女性が制服を着ることを強要されてきつい靴をはかされ「苦痛」を受けると、その姿は違法になるのだ。
それはさせている側が全滅するのは早いだろう。その後はどうか。好き好んでする女性が一人もいないのならば、平和だろう。
スカートもパンプスもこの世からなくなればよいのか。
サイズがタイトな服は消滅すればいいのだろうか。
服を着なければよいという話にでもなるのだろうか。

 

少女がそのような厳しい状態になっている絵の展示は表現の自由だと擁護され、表現の不自由を展示することはみっともないと批判され、こんどは表現の自由としてエロはあるべきだとされると、何スタンダードかわからない人もでてくるだろう。
まず、この世で言及できる範囲を広げるために文学や表現の自由があって、それを追及する芸術家もいる。
狭めれば発展はしないので、危機も発生しない。管理はたしかに楽だろう。
禁止事項の多い宗教の戒律なんかもそうであるし、日本の長く続く文化や産業もそうだ。しきたりや儀式的、様式的な無駄をつくり規格化することで発展を狭めている。
発展をしないということは、時間による老化劣化をしないということなのだ。できるだけ継続させることに大きく価値を振っているということでもある。
資本主義よろしく発展させ分化し増え大きくなると、伸びきった先端はもう完全に別物だったりすることがある。これを抑制する方法としての抑制はあるのだ。
それを規制する方針にするか、自由とする方針にするかはそれぞれであって、日本は現状それが自由に傾いてはいる。
別に規制に向かってもそれは自然ではあろうしそうなるならばそうなるだろう。
ただ反対意見の側もある。それだけの事だ。
反対意見側としては発展と成長のために自由は確保したいという主張なだけだ。
成長を止め発展を抑制し、長い時間保たせる派としてはその意見を出せばよいだけである。閉塞的な経済圏や政治的にそうなっていたり宗教がそういう制度を用いている国も勿論ある。
老舗の味をなぜチェーン展開しないのか、インスタント化しないのか、瓶に詰めて全国販売しないのか、と問われたら、そうはしないという主義があってもいい。
全国どころか全世界に同じ味を発信しようとするメーカーがあってもよい、どちらでもよいという自由のある国のひとつの考えなのである。

 


ここで、女性が虐待のような様相の絵の展示が芸術で自由を言われ
表現を規制されたものを展示しようとしたことが非難され
二次元の表現について規制をしようということが問題視されるのか

 

端的に
①「存在の可能性を示す」という表現手段(手段:アート)と
②前提として①を用いて存在させた事象について問題なので批判された事と
③「存在の可能性の探り方」を規制しようとしている


これが

①きわどい表現の絵画や芸術の作品
②その問題を問われて意図を露わにしたものの意図を批判
③発展や成長のための可能性の禁止について

 

これは

会田誠や他エロなのかグロなのか哲学なのかわからないアーティスト
津田大介氏のようなジャーナリスト
③二次元アーティスト


について
①これが善か悪かは考えるべきだ
②悪とはなにか
③善か悪かを考える材料になる

 

この違いである
ダメだといわれたもの、その存在をすでに示されたものをあらためて「なぜなんだ」と引っ張り出すのは手段としてはセカンドレイプである。
ルックバックの殺人鬼と同じである。差し替えが要求されてしかるべきである。
ダメなもので改めて殴られてたら、どうなるかという思考実験である、というならかなり高尚なアート作品なのかもしれないが
「人は金槌なんかで頭部を強打されたくらいでは死なない」という思考実験を、いまアートとして発信する意味や価値はあるのだろうかという疑問になる。
それを「確実に人は金槌で死ぬ」という事をアートとして頭部にを殴打された死体アート展というのは、もはや金槌と人の関係性のアートではないだろう。
おそらく人の死の局面の姿を絵的に美術として展示することになっているのではないだろうか。
そこでぞんざいに扱われる人の命と死という現象については、批判があつまっても仕方がないだろうと想像される。

 

児童ポルノは明らかに犯罪ではあるし、その描かれている内容はほぼ全て全部悪であり違法であり問題であることは確実である。
これは言ってしまってもたしかにそうなので仕方がない事である。
地球に怪獣がやってくることも人類を補完しようとすることも、愛する人を守るために地球に隕石を落とすことも違法であり悪であり問題ではある。
ではなぜそんなものがあるのか。
人の思考はそこに至ってしまうのだ。
それがあり得るのではないかという経路を獲得してしまうのだ。
それが特別で自分にしかなく共有できず、しかしそこに確かにあると実感してしまった人はどうなるだろうか。
そこに手を届かせようとしてしまうのではないか?

しかしその思考実験を、だれかが具体化し共有できる情報として放流し、それを見て「なんだみんなで共有されてしまっているではないか」と疑問が一般だったというところに落とし込めたらどうだろうか。
自分の難解で困難な実現への道をたどり、稀有な実体験を追及するまでもなく、安価に体験できるとしたらどうだろうか。
それが世の悪とされていることならば、むしろ解消され否定することになっているのではないだろうか。

 

しかし②のその否定された内容をあえて再び持ってくるのは、悪だと解っていて持ってくることなので問題なのは想像に難くないのではないだろうか。
パロディやポルノで対象が蔑まれて被害にあっている描写があるとする、そうなるという局面も現実としてあり得るとするならばそれを盛り込む意図のある手段だろう。
それが前提としてあり、かつその方法が問題だとされた事について「これは自由なのに特定少数の反対意見から抑制された」として自由の不履行を不自由と訴えるのは、ふつうにその不快感を訴えた少数を直接殴りに行っているだけという形になる。
表現の自由として見なければいい、という前提もなりたたなくなってしまっている。
見て不快だからやめてくれという人間がいることを前提として、あなたは見なくていいみたい人に見せて回る、という事を情報として与えるという行為でもあるのだ。
辞めてくれと言った人間に知られない方法で続けるならば、それはありかもしれない。親告罪として訴えられる著作権が、見えてないところまで及ばないことと同じであっても良いのではないだろうか。

 

表現を規制するということは、想像を留めて成熟を抑制し、現状を維持させ選択を狭めるということにはなる。
それが良いこともたしかにある。
知らないことはできない、知らせない事で問題を少なくすることもできる。
それならば確実に「知らない事の発生」を免れることはできないので、その対処方法が必須になる。
宗教ではよく悪魔の所業として100%最初から内容を検討することなく全面的に排除という方法が取られたりもする。
これは知ることで知ったそれを否定すると否定によって存在させてしまうので、変化や許容が発生してしまうのを抑制しなくてはならないからだ。
発生件数は実質ゼロにはなる。発生しても認識されていないのだから。
そういう可能性があるのではないか、もしそうなら対処すべきではないのか、実質ゼロではなくて実際にゼロを目指すべきではないかとなると、まだ発生していない何かを予想する必要がでてくる。
それらは人の欲から産まれてくるものだ。
たとえ健康に悪いとしても、食べたり吸ったり飲んだりするものはある。なぜそれらを禁止しないのか。バランスのよい食事を強制しないのか。
あえて病気になることや怪我をすることを許容しているのか。
それを欲する事を抑制すると人としての不自由が発生するからだろう。
欲望の解放は、あるべきなのだ。
ただそれは、他人を巻き込まないようにすべきであるのだ。


ダメだ、無い、というのは簡単だ。
否定はとても簡単なのだ。
必要なものに否定形を付ければよいだけなのだから。
そしてそうすることで現実に存在させてしまう。
その存在をもって都合のよい不平等を発生させもできる。
それをさらに否定することで平等だと訴える事すらできる。
言葉で否定を使うということはそういうことだ。
言論という事に置いて否定をくわえる事はそれだけの意地の悪い事なのだ。

 

相対性理論なんてない、宇宙の理論は違う、貧富なんてない、才能は嘘、努力というのはそんなものではない。
社会は間違っている、制度は不完全、人間はダメだ。
全部、まるで完全に理解したように言える。なにせ否定をできるのだから。
実際は言葉を繋げただけだ。何の意味もない。
ダメなら拒むだけ、という自分のスタンスも確率され行動をし終わった後だという達成感もある。
実質なにも達成していないのだ。達成しないとうことを選択したからそれを達成した、というゼロを得ているのだ。

 

そのゼロを否定や抑制や禁止で達成させたり、具現化させることは、自由を重んじるものとしては対抗していくべきではないか。
自由が心地よいと感じているものからは、そういう意見である。