読まない。

書くだけで読まないブログ。

ネットの向う脛

b.hatena.ne.jp

デマに踊らされたのか嘘に騙されたのか知らないけれども、自分は見抜いていた発言を過去にしていたと勝ち誇って
どうしたの皆、いつものように切れがないじゃない?私はたまたま正解したけどみんなどうしたのという問いかけに意味はあるのか。


ツイッターでまとめられている話は基本オカルト雑誌レベルなので、スポーツ新聞がドラキュラ家族が海岸で朝日を浴びる事故を報道したり
科学雑誌密教秘術で世界が終わる日を予言していると解説してもゆるされる範囲では問題のない情報だと個人的には思う。


その上で、ネット情報送受信を使った楽しみかたの一つとして釣りという自分が開発元である情報を発信しどこまで伝播するかを試すものがある。
主に嘘情報であることが発信元を自分であると特定しやすいため、たいがいは嘘情報である。
嘘情報を顧客でもない相手に観測範囲が知れているのに発信しつづけるため池でソナーをたき続けているサイトもあるが趣味に口出しされる覚えもないだろうので特に言うことはないが
嘘をついてそのまま行方をくらますというのが一番たちが悪いのではないか。
また嘘情報がたまる理由としても、逆説的に行方をくらませやすいからなのではないか。


ネットでは嘘を嘘だと見抜ける力が必要などと長らく言われているが、その能力とは何なのか。勘なのか情報収集能力なのか。


そもそも嘘とはなにか。
事実無根であること、嘘は嘘、などということは承知の上である。事実が伴っていなければ嘘になるのか。
予定は嘘なのか、借り入れは嘘なのか。未達成なものは嘘か。目標は嘘か。
目指しているもの目的地、それに対する行動が伴っていれば今それを成すものがなくても前借として嘘ではなくなるのか。

嘘とは、回収時点にきてそれが未達成であった場合に結果を判断する基準としての一つ「未達成」のまたの名ではないのか。
窃盗行為を万引きと呼ぶような感覚ではないのか。

結果が出た時点でその情報に事実関係から乖離したものが含まれていたらそれは嘘という判定を下されるものかもしれない。
ミュージシャンになるというのは嘘かどうかわからないが、結局今年もどこにも引っかからずバンドやってますを続けるのは、去年の成果として嘘になるかもしれない。
でも行動しているからそれは予定になるので擁護すべきだ、となるのかどうかはそれぞれに事情があると思うが、どこかで判断する中間評価位置をつくるなら
未達成は必ず出てくるし、それを嘘だということも可能だろう。

 

デマとはその嘘をつくり方向性を期待し、そこに近づくことが目的でそもそも「嘘であることを発露して進行した情報影響を否定すること」であったり
「期待した方向性に進めるために必要であれば事実を担保できない情報を借り入れてでも発信する」といえる部分があるならば、その返済しないスタイルに不条理に不満を感じるだろう。


情報に毎回責任や裏付けを求めるわけではないし日常的に言う上段などはほぼ嘘と判別されるそれらになるであろうけれども、デマとののしられたり嘘だと批判されるのは
その軽い会話で終わらないように、影響範囲がソナーのように反照されるような内容にしているためであることが多いのではないだろうか。
それが良い話である、ためになる、問題である、解決すべきである、行動すべきであるとなったとき、それを誰に対して、何に対してと問われたときにその支払い元や
支払い先が「存在しませんでした」となれば単純に人ならば不快感を覚えるのではないだろうか。

 

ツイッターではその影響範囲が具体的に数値で見れることなどがソナー遊びを助長させているところだとも思えるし、つぶやきという無責任感が
アカウントという利用規約に則った契約を軽く犠牲にできる程度のものだという感覚を起こさせているかもしれない。
何にせよ、反響があることだけを目的とした情報発信が多く目につくのは確かで、人を救った数よりも迷惑をかけているであろう数のほうが多いのではないかと感じさせる。

 


だからといって情報を得た人間がどうすべきか、情報の精査について各員のレベルが高くあるべきだとかいった事柄ではないのではないか。
騙される人がいてもいいし、嘘だとわかって便乗してもいいし嘘のなのか問うてもいいし、確実な情報を上書きしたり添えてもいい。
一部のユーザーが失敗しただろう、口惜しいだろうという事柄についてポリコレなどの棒で殴る必要はない。
誤った過去は、存在できるということは、誤りの再発を注意できるということだ。
チェックポイントのないマラソンは完走か不参加しかない。どこまで進めるかということやどういう成長をしたかは在って問題ないだろう。


マイルストーンとしての自分の成功談と他人の失敗理由の考察は、ないよりもあって役立つものだろう。
それについての情報価値はあるとしても、その情報を構成したものがその評価によって不利益を被ったりすることはあるべきではないだろう。
執拗にその価値を高めることで、偏った評価を物理的に取り戻そうと精神的に負荷を生じさせることもありえる。


計測の範囲や対象によって、理解の方法や弁明の仕方で嘘が逆転することもありえるかもしれない。
嘘だ未達成だとはやし立てる事が自分にそのまま等価で返ってくることもあるだろう。
そもそもにそんな情報戦に一般市民がかかわるべきではないだろうけれども、噂話など関わりやすくそれが重要な結果につながることも期待されたり
その重要な結果というのがネガティブに働くとどのような危険性を含んでいるか理解しづらいところでもある。


確認のためにすぐに行動をするのもよいかと思うがデマによって無駄な労働を追加される側にとってみてはたまったものではない。
確認できるところからの確実な情報、など文字でならなんとでも書けるし結果やはりどこかのコストにはなる。
そのコストを支払わなくてもいいという、そのコスト分の価値というのが平穏であったり平和であったり周知であったり理解であろう。
これらを揺らがせる情報というのはそのコストであり不利益であることと言われなければその損失と、ソナーごっこによってもたらされる不利益は理解されにくい。


おそらく賛同したり反対したり声をあげた分には、それぞれの意見意思や理解を表明したに過ぎないので取るに足らないともいえるし、声を上げるために
一旦は思考した価値はあるのではないだろうか。それは批判に値しないと思う。
そこから独自の価値を追加したり、自分で行動をするのではなく他人に行動を強要したり要請したのであれば、それは損失になるかもしれない。
過度に強い言葉で煽ったりした相手個人がいたならば、そのリスクは存在するかもしれない。


嘘であれデマであれ、どういう反応をしたかは個性でとどめて理解に努めることが一番ではないだろうか。
その上で行動が必要かどうかなどは、一人で判断するのではなく、そこで個々のつながりが必要になるのではないだろうか。

アカウントの水増しなどできるネット上の多数、ではなく、アカウントをすぐに作ったり消したりする情報ではないようにと自分に対する継続的な評価を
受け入れる覚悟というものが、ネット上での力というものになるのではないだろうか。


反省したりしなかったりは、個性の問題でよいのではないだろうか。
問題なのは、なかったことにする、消す、ではないのだろうか。
思うところが各員にあるということだけで、次に生かせることがあるはずだ。

 

b.hatena.ne.jp

そういうことでもないと思います。

勝った負けたやったやられた、そういう話ではないと思うからです。

やったから謝るやられたから訴える、そういうことでもないはずです。

そういう事象があった、次に活かすべきは何かを私はえた、それを残す。

それが集合することが知であり組織のあるべきを正しさに近づけるものではないかと感じます。

「そらみたことか」や「だから言ったのに」の無意味さはそのまま自身の無力さの正当評価となるでしょう。

失敗した人騙された人失った人負けた人に優しくする意味は、次に成功を納めてもらうため、自分にはできない取り組みで自分の到達できない成功へとどく可能性を支援するため、もちろん自分でもどこかの成功にはつながりたく努力はするのはいわずもがな、将棋で最年少連勝を記録したりフィギュアスケートで優勝したり日本代表に選出されたり努力をすればあなただっていけるはずしないのは怠慢、とはいわないでしょう。

できるひとができるだけをやる、それを支援する。そうすればもちろん自分にもその支援をされるべきという構造が理解されれば自分の失敗も軽減され成功も補助される可能性は大きくなる。

自分が最強ナンバーワン、二位以下はクズでゴミで負犬の敗北者、と慢心するのもよいけれども、自分が一位であるということはそれを支える二位以下が自分の評価の基準となっているわけで、それを否定するということは自分の立っている場所を瓦解させにかかっているということに気がついたならば、どこの位置にいたとしても自分の下にあるものについていたわりをもって感謝をもって接することはとても価値があるのではないかと思います。