ゲーム脳なのかもしれないけれども
ゲーム脳的な感じなのかもしれないけれども。
局面的な小さい事柄だけを大切にしていたら、それを取り巻く大きな環境がそれを巻き込んで大きくいつも通りなんのかわりもなく動いていたというような事になってたりしないだろうか。
その愛という事で解決するのは2者間の関係性の中の話だと思う。
そういう関係性を二人でそうだとするのには共有化するための基準が必要になるそれを愛と言うのだろう。
結婚とか家族ってそういう問題ではないですよね。
二人が一緒にいるために、という事は局所的にそれを含むといえはするけどそのために必要なことではない、ですよね。
「そのために必要なことではない」と今いいましたね、そうですそのために必要なことではないのです、二人でいることには結婚は関係ありません家族も関係ありません、関係性を構築するのに結婚は関係ないんです、だからだれでも結婚できて家族ができても問題ないでしょう?
なんてつづけて最終的に結果に至るのは危うくないですか?
問題があるとして、それを解決するために、目標を設定するとして、その目標設定のために仮想の道程をつくるのはよしとしてもそれは仮想であるということは前提であるべきだと思います。
そしてそれは細部をあとから問題あれば考えるとしている時点のもの、細部には問題があるとわかっているとするべきかと思います。
その問題があることを問題解決の策として提示するということは、そこに含まれているあたらしい問題を提起することとほぼ同意ではないでしょうか。
まず一つ目は、家族になることは自由なので家族関係についての監督を国家が行うということ。
家族は家族として生まれて生きて時間を共にして感情があるからほとんどの場合問題行動や危険性が少なく比較的安全に利益重視ではない関係性があるだろうと思い込みで骨子をそこにすえた家族制度が現状で、それよりも運命や出会いや愛でそんな関係性はなくてもリスペクトしあえる人となら家族になれるだろう、という所。
そうであることが自然の摂理でできていたものと、それを人がつくれるものとだとしたら人はその自然の摂理ににた強欲を作ることもできるのではないでしょうか。
愛があって家族になるんだという事を人の目にみえる形で証明さえすればだれでも家族になれるということは、奴隷のような家族を仕入れることもできるのではないでしょうか。
それも人の人生を作り上げるという自然の摂理を不要として簡易に。
その関係性の監督を国家が行う、としたらそれは日常の細部にまで監視の目がいきとどき国が査定し管理するということでしょうか。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べたから窃盗罪とか、冗談まじりにたたいたら暴行罪とか、家族だから見過ごされていた犯罪行為をあきらかにすることができてハッピーでしょうか。
それが不満なので家族を抜けますとか、甘やかしてくれるので、大富豪が子供10人募集してたので参加してみたとか、子供手当還元するので家族増強中というおうちに参加してもよいのか、そんなことが発生しないでしょうか。
そしてそれも自由だとして、それがただしく契約が履行されているかどうかの監督は家長の申告制という今のものはもちろんダメなのでしょうから、家族監督庁とかから家族審査員が家族評価に来るのでしょう。
少しも長所がでてこない気がします。
パートナーという制度を廃止すれば、それらは解決すると思います。全員が赤の他人なので全員が平等になるでしょう。
そうなると人口は、生産は、財産は、という話になるわけで。
結局人間は恋愛して生殖行為をして感情に流されて家族だけを特別扱いして、守って増えていくわけです。
そんなことはもう古い、そんな時代じゃない、といいたい気持ちもわかりますが、そうでなくては生きていけないのが現在の人類です。
替わりもなにもありません。新しくなったのは気持ちの中だけです。
気持ちが大事、肉体とかそんなの生々しい、ゲスで汚らわしい、差別的だ、と言いたくもなるでしょうけれども、高潔で清らかな文化や生命などまだないのです。
電子の海にすらまだありません。
それらが無機質に増殖していくものもありません。
しいて言うなら生命ではないものを垂れ流している人間こそが、なまなましくて汚らわしくて動物的な生命の輪を削り取って破壊する生物の存在しない状態をつくれる廃液や公害をまきちらして消毒していって綺麗になっていっているともいえなくはないでしょう。
結婚がよいとか戸籍制度がよいとかいまの家族制度がいいとは思いますがこれが完璧で問題を含んでいないかといえば問題はあると思いますし完璧ではないと思います。
まず人が増えるということと、家族という単位であるメリットデメリット、法の領域、その上での人の自由と、優先順位を尊厳と呼んで遵守する共通概念、それらを鑑みて考察すべきことなのではないでしょうか。
人が自由に関係性を自然のつくりあげたそれににせてあるとすることを容易にもってくる危うさ、これには慎重になってほしいなと私個人は考えます。
人工子宮の話題もでていましたが、それで解決できると見込んだとしても、それを人が作り上げるということは、全て人の監督責任のもと人が人のわかる範囲で行う事にさしかわるという事を気にかけてほしいです。
いままで神様や自然がといっていた謎おおき要素からほんの一部の偶然でできた現在の世界について、人間が知り得ていることなどほんの僅かです。
解っている範囲でわかることをわかるだけでやっている、雰囲気で地球を支配している人間に神が人間に行っているとする監督責任を人間が引き継いでなんとかなりそうかと考えてみたら、なんとかなりそうでしょうか。
人が産まれてくるプロセスも論理もわからず、あるものをねりあわせてなんかできてるだけの人を人間が解る範囲は同じなのでおなじだろうとしたりすることは、果たして安全かどうかというレベルに達する基準をできたからOKよりも上にはもっていきたいと思いませんか。
食べ物も自分でコピーして作れるわけでもなくほかの生態系からとってくるしかまだできていない現状で、不足があっても供給できない現状で、エネルギーを取り合いしているこの現状で、人間のありようは人間の気持ちの中にあるものだから人間の手でなんとかできるだろうと考えてしまうのは、いささか単純ではないでしょうか。
その人間の心がどうやって生成され形成され情動しているのかも原理もなにもわかっていないのに「人間はそうだから、だって私は人間だから」という理由で考えるのはあまりに他人を人間だと考えていなさすぎではないでしょうか。
他の人がどうして人間なのか定義することも解明することもままならないのに、自分が自分で体感として実証しているのでOK、というのはあまりに浅はかな気がします。
なにもだからといってこれは撤回してなかったことにして消し去る議題や問題などではないと思います。
もっとたくさん考えてもっとたくさん案を出して、良いと思われたものをいくつか試行してそこからさらに見直しと再度いくつも何度も試していくべき事だと思います。
そのうえで、単純に置き換えるだけのパートナーにどんな問題がありそうかと、すこし考えただけで大量に問題のある未来を想像できる論について、それを人に聞こえる所に形にする前に、もう少し検討すべき内容があるだろうにと思う事を共有しようとするのはなぜか、そう考えると、そうすることでまずそこには問題があるんだこれは浅いもっと深くにある事柄に、読んだ人自身が探り当てみつけてくると、いちいち言葉を選んで厳密に方向を示すより自身の向かうべきとしている方向に近くまた力強い影響力になるのではないか、そう考えているのだとしたら巧みではありますし、それでよい試案がうまれるといいなと思いますが、その歪みそうな勢いがありそうな情報の集積のコントロールが全く見えない恐怖感はあります。
きをつけて考えていただきたい、考えを声にするまえに、いろんな人といろんな角度で話し合うべき事柄だと思います。