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書くだけで読まないブログ。

想定予測と空想に

漫画みたいな世界になってきた、そんな気がします。

空想できる想定範囲内では、まだその中にあるといえるうちは「空想」と言っていられるそれだと思います。

構想だったり予測だったり、行動させる、する、といった指針のあるものにもいいかえれる、未達のことを結果に言うと「嘘」ではあるけども、未達予定をして「嘘」という目的にする第三者評価を受ける前ではあると思います。

 

お金がもらえる、お金の使い方、本当に困っている人、本当によくする方法、これからどうなるか、などいろいろ各視点からの意見も一様ではなく、ただ一方的ではないこの現状はとても良好なのでは、と思う反面良好が保てる現状は危機感が薄いのではとも思います。

薄くて問題があるとか濃くすべきというわけではないですが、若くもなく衰えていま活気についていける体力がない自分としては、申し訳ないけれどもありがたいと思います。

 

10万円が配られることになりましたが、これで家賃や電光熱費を満額はらって高騰した生活用品を買うということに経済の再生とかそういう意味において何の成果が得れるのかまったくわかりませんが、もらえるものはうれしいので、反対意見の私もたのしみにしてしまいます。

使い方を困っている人のために使えば、とか困っている人に渡せば、という意見も、実際実弾を得たところでそれを命中させることができないから貧困になっているわけで、実弾さえあればそれを命中させ倍加させ、さらに倍に、成功していける、そんな素材がただ10万円がないために今貧困にいる、というわけであるというならばと思いますがそうでないところにまだそれより安全圏にいる自分が10万円のつかいかたの舵取りをそのひとにたくしてなにが得られるのかというと「10万円を使用するという体験」を得られるだけで言葉の意味としての「救済」とは程遠いものではないでしょうか。

 

端から死んでいく、という言い方では正しくない、端は結局(生物学的には)最後まで生きているもので死ぬのは中央からだと思うのですが、意味的にそうであっても言葉的には確かに「端から」かと思います。実際死んでしまったとされる末端は全体としては死を迎えていますが細胞的にはまだ生きていたり、次の影響を与える状態としてその意味をまだ残していたりする意味において「死んでいない」ともいえる範囲を包括して生物学的にと言いたいのですが、意味合いとして本体の稼働に寄与しないとすれば死んでいるとなってしまいます。

端が死ぬ結果になるのは中央からの指示が不良不達になってしまってそこへの取次がまずほぼ死んだ状態から、末端の一つずつが生きていけない状態、つまり死を迎えるということになると思います。これを意味合い的に中央からの死んでいくと思うのですが、言葉で一つずつ焦点をあてて言葉にすると、そこだけ見えているうちにみえていない部分が見えていない間に一段階次に進んでいて、一段階進むと焦点をあてて言及をしているうちにまた違うところが進んで、全体的なずれが全体の意味をなくしてしまう気がします。

 

一つ前に記事にしていた話題が性別だの性差別だのといった、人が人を殺さない、ふつう人はしなない、おかねもある、文化的生活があって教育が満了して社会人になるという構造の上にさらにあったらいいながある状態での問題が、一瞬で話題にならなくなる状態にいまなっていることに驚きではありますが、緊急事態が宣言されている実情からして事態はとても危険であると思います。

一つ前段階と、現段階では、まだ人権や人が飼われているということを前提に金がほしい、政府が悪い、生活を安定させることが先決だと言っていられる状態だと思います。

現時点がすでに戦争状態であるということだと思いますし軍事的な行動が必要だと思いますが、その言葉の意味が人が人を殺すということにのみ縛られていて、戦後ずっとというか人類史上ずっと「人間と思しき形状のものと投石合戦をする」ことを戦争としていたし現在もそうなので「なぜか人が死ぬ危険にさらされる状態」のことを戦争とは認識していないのと、それを示す緊急事態を表現する言葉がないのが現在の戦争ではないかと思います。

敵自体が特にいないのですが、あえて言うならばコロナウイルスが敵でそれを殲滅すべく行動すべきなわけですが、すごいことに現状日本は「一丸となって」「団結」「みんなで」という言葉が忌み嫌われています。自分の行動が他者に制限されることを嫌っている、一人になったところを敵は狙ってくる、一人になったところで受けた被害を国が補償すべきと帰ってくる、帰還を推奨すべき、という一定境界線から、現在は「帰還者は汚染されている可能性があるから帰還させない」まで若干広がっているかとは思いますが、まだ団体行動、集団行動には個人として従う意思が薄いと思います。

要請という形で団結した行動をしてもらいたい意向ですということで行楽などの個々の行動を制限してほしいということが、個人の行動に結びついていないところでそれは確認できると思います。感染させたくなければ感染させる可能性のある行動を差し控えたほうがよいでしょうという団体行動の指針に沿わないことが個人の自由であり自由を尊重し尊厳をもった権利なので履行するということがまだ危機的状況への対処より上であるという認識状態であると思われます。

これを変えろといわないところが自由の権利なわけだと思いますが、自由を保持するためには団体行動で団結した行動をとるべきだろうと、文字でおこせば連想できるかと思いますが、ひとりくらい観光地にいったところでという気持ちのほうに感覚として権利や自由が含まれている気持ちになる程度にしか危機感が到達していないのも確かだと思います。だれも戦争のような緊急事態に現在直面しているといわないので伝わらないのだろうと思います。

軍事的という団体で個を犠牲にする行動のおおよそを示す言葉の代わりになるものがあればよいですが、それで十分通じるので軍事的でもいいかと思いますが、その行動の必要性が先に言葉で説かれる必要があるわけでもない、実際軍事的に行動を敵によってさせられてから初めてそれが軍事的であるといっても遅くないと思います。実際遅いのですが遅くなってもそれではじめて気が付くから、同意をもって言うのは良しという風潮が現在の我々の認識力だと思います。

末端に現金を配布してしなないようにしろ、まず貧困から救え、という意見が自由と権利のもとに十分全国民に知れ渡ることが可能な状態で情報を発信される現状が確認できるうちはその「遅くない」とされていると確認できるのではないでしょうか。

緊急事態、戦争状態、危機的状況において、団体として軍事的行動、個体として医療的処置を行う方法として専門家でもない私の想像から普通に考えてみると、損傷した末端や壊死しかけている末端、まだ生きている末端をまずどうすべきかということを自分のこれまで得た実体験や映画、漫画で得た空想の知識、予測をもとに思考してみると、まずその末端を心臓につながるように維持して栄養を与え、健康状態にあるときの生命維持とおなじ経路をもって生かすべき、と考え「ない」のではないかと思いますが、まず目視して現金がないところに現金を送るべきと思考されることに疑問を抱くと思います。そうするとつまり現在は緊急事態でも戦争的な状態でも、危機的状況でもないとされているのではと感じるのです。

極論ではありますが、直近で活性化、機能化できない部位が発生した場合、漫画や映画で描かれるのは切断する処理です。まあいちばんひどい処理ではありますが、指が死んだら、腕を生かすために指を落とす、腕が死んだら、体躯を生かすために腕を落とすというようなものです。もちろんダメージを負った部位や人を庇いながら事態を乗り越える表現のものも多くあるわけでそれをなぜ採用しないのかというと、それは「庇う側が二人分以上の性能があり実質2要素を充分に生かし切れる」能力からだと思うので現状その2要素分以上の余力があると想定しての空想、予想は今回しないという私個人の思考によるものです。現在の日本は国民が倍になっても1年は資金を提供しつづけることができる国だとしているならばその「庇う側が2倍のちから」案について思考を続けたいと思いますが、植民地も原油もない日本が原子力も輸出できずのこるは「kawaii」くらいしかのこってないところをみると、生存のための可能性模索には戦って勝つしかないのではと思うのです。

実際の問題として貧困にある人に10万円わたして、100万円にしてもらう、という救済方法が一番よいとは思います。しかし実際そうならないのでと思うのですが「可能性を見捨てれば結果はゼロだが、可能性があればゼロではない」理論でいうとそうかもしれませんが、実際そうならないと思います。

それより、会社を経営していて10万円あれば100万円にできる、実際すでにもっている資材を利用して実質可動域としては10万円以上にはなっているが、結果として額面が100万円の成果を得ることができる、という人を探すほうが確率は高いのではないでしょうか。銀行としては100万円がえられればなんでもよいのではないでしょうか。投資としては確率がすこしでも高いほうが良いのではないでしょうか。

貧困を救うには豊かななにかがそれを培養してあふれてきた豊かさを無条件に上流から流れてくるのを享受したほうが楽なのではないでしょうか。

上流から金の卵が流れてくるのをひろって金にかえるのでは金額が低いし苦労が多いのでにわとりのほうがほしい、貧困にある思考としてはそうですがそのにわとりの飼育方法、育成環境、そして存続についてのコストと知識が個という単位や範囲では川まであふれだす効率を得られないのではないでしょうか。個人でなんとかやりくりしていくだけの分は賄える、のだとしたらそれは個で閉塞した生活循環を描けるというだけで外部から遮断されることを期待するものだけで、社会としてそういう分断された個を満喫するための閉鎖的な利益循環を推奨したくはないですし、個人としてはそれが満足かもしれませんが家族という単位になるとそれはいきぐるしいものではないでしょうか。

できれば100年や1000年という単位で生活する人がそれぞれの選択肢において満足する基盤を準備したいと考えると、そういった閉鎖的な循環をしたい個人も許容しつつ、そうでない選択肢を個人で、個人が団体や家族といった範囲での生活連携をもちたいという意思も尊重できるようにしたいでしょう。

 

指の先を死なせないために心臓は全臓器を使ってそれを保護すべきだ、というのがおかしいと思うならば、貧困を救うために必要なのは内閣が動くことだ、ではないと思います。指の先を保護するために必要な判断や行動はその指の付け根で、指の付け根の判断は手の付け根で、腕、二の腕、肩、胸、そしていったん心臓から、心臓は内臓も足も首も頭もつながっているので、そこで協議、となるべきではないでしょうか。指の先から壊死していくので、ですが分断はよろしくない、なのかもしくは心臓が止まっては困る、脳を殺したくない、内臓に疾患がでるから、という意見もあるわけでそれをどこでだれが判断するかです。手のひらがあれば、いつかまた指は付け直せるかもしれない、というのが生活保護などでしょう。分断されてはいますが社会には再生復帰が可能な状態であると思います。指がやばいので手のひらを分離隔離しましょうという生活環境単位でわけると、差別される地域などが発生する状況ではないでしょうか。そういう状態があった歴史もあると思いますが、そのときの最善としてはそれが機能していたかもしれません。もちろん今それを再現する必要性とか可能性の話ではないですし、実際ロックダウンといわれている隔離措置が選択肢にあるとすればそれを一部行使することになるでしょう。

こまっている人に10万円をつかおう、というのは、末端のひとに銃弾を10個わたそう、という感覚ではないでしょうか。実際は半分の5で、自分も5、でもいいかもしれません。4つは生活、経済活動につかえ、あとの1は、わかるな、みたいな状態になっていないでしょうか。

こまっている人を助けるには、その状態を打破するためにそれを効率的に効果的につかえる人が最善の選択肢へ10回のトライをすべきではないでしょうか。

地球において汚染しかしない邪悪な人間を敵とみなした大自然がそれを退治するためにワクチンヒーロー「ウイルスマン」を発生させて彼はあらゆる状況に対応し打ち勝ち確実に人間を倒していっているわけです。

これに対し人類は抵抗する戦争をしているわけです。前線には多くの人と生活があり現在は試験管の中で戦争をしている戦争地帯ではなくもう市街地にまで及んでいるわけです。戦争地帯にある市街地での戦い方として、市民一人一人に「敵がきたらこれを」と10という単位の実弾を通貨という機構とともに渡すわけです。実質10万円という現金そのものです。それで?それでそこに武器を渡すということは、「前線を維持しろ」ということでしょうか?その資材で。これはおかしくないですか?

見捨てろ、という判断もあるかもしれませんし、できれば「避難」という選択肢もあるのではないですか?なぜ彼らに実弾なのでしょうか。

避難とは実弾を渡すことも含む、でしょうか。ベーシックインカムというのも、実弾の類でしょう。避難すると避難生活は余儀なくされますが、生活場所と生活用品の実質供給には満足がいかないかもしれないですが、10発装填の銃で自由を満喫しろと言われるのが、人道的というならどちらがそうかわかりませんが、権利としてどちらが優先されるべきといわれればわかりませんが、個人が何を望むかといわれれは知りませんが、社会として把握すべき状況と判断すべき内容としては、避難をさせたり前線を後退させることで中央機能を維持し機能維持のための市民生活をできるだけ守ることではないでしょうか。

10万円の武器供給ができるなら、それは市民個人より経済で戦闘を指揮できる指揮系統に配布したほうがよいかもしれません。経済活動をする長がそれを適切に分配し実際に行動をする従業員が、その非経済活動員である家族を守るため使用するのが結果より多くを生かすことになるのではないでしょうか。

10万円を配布できるのなら、一世帯あたり約10万円分になる支出の大きなところから「それを徴収しないように」として、その利益で経営しているところにその何割かを補償する、できるならその上のところで何割か、とすると、末端の単位で軽減が1000円分だったとしても、それを10世帯から徴収していたところでいえば10000円、さらにその、と影響を小さくし効果を大きくできるような気がします。

 

ただ、現状団体行動や軍事的、戦争的といった思考自体、思想でも表現でもなくそれに近い考えをいだくこと自体が忌み嫌われている現状、ヒーローや娯楽も批判の対象になる現状、運と判断と知識を駆使して1を10にできる人に10わたして100にしてもらったうちの3か4をわけてもらうという構造の効率性に賞賛を送れない現状、いくら非効率的でマイナスになるかもしれないけれども個人で10をどうにかする可能性を優先すべきとされている今では、実際戦争状態と把握して軍事的な行動をとるべきと判断される境界まで自然のヒーロー「ウイルス」が侵攻してくるでしょうし、私たちはそれを敵として認識して攻撃には効率と効果のための編成と役割分担が必要で、全体がひとつの構造体として機能する必要性を感じるまでは、熟れて甘いこの果実にいてもよいのではと、行動するにあたってすでに体力のない老人の一人として自分は思うわけです。

これが、私が若く行動すべき層で直面していたら、そして個人で最後まで戦うべきだと考えている人間であったなら、いまの目線からみると非常につらいだろうなと考えると、そういう現状にある人も実際いるわけでと思うと申し訳ないです。

 

ブラックジャックという手塚治虫の漫画の中で、スリが指を落とされてしまいますが保存が適切で戻ったというストーリーがあります。もちろん漫画なので空想ですが、これが空想で選択肢として「痛々しいから血が出るからまず切断面をつなげた状態で治療をまとう」としていたらあとで復元が難しくなっていたかも、切断された状態を維持しつつ両面が適切な状態であれば復元が可能という構造を構造的にだけとらえて「あとで戻すが現状それを期待する判断として適切なもの」を選択するのに「現状維持、状態維持だけではないかもしれない」という可能性の模索と、その可能性についての実例の調査、行動の研究は、あっても無駄にはならないと思います。

そういうストーリーはほかにも現在の作品にもある表現ではないかと思います。映画でもままみかけるものだと思います。

たしかにお荷物キャラを、その分まで負担できる主人公にものすごい力量とその引き立てかたでヒーローであることのヒーロー像たるを表現することもあると思います。

ヒーローがそういう選択肢をするのだから、「選択肢は」として「ヒーロー(力量が常識的ではない)」が行うことを前提としていることを見失っていたら意味がないですが、範囲的な影響力としてヒーローたりえるのであれば、それも選択肢にあっていいかもしれません。困窮している人をみて、自分が現状現段階で、目視できる範囲を負担できるのであれば、たとえば体に比べ重量が、移動を困難にさせるほどのものであるとみられる方が階段を使おうとしている場合、荷物をもつ、よりよい経路を紹介する、駅員を呼ぶなど負担を軽減するのに関与できることもあると思いますしそれをする選択肢に問題はないと思います。しかしそれが困窮している原因について継続的な支援や協力を考えるとか対応するということは、ヒーローとしてその状態を良好に転じさせることができる範囲を超えているのではないか、維持できないのではないか、を確認してできない範囲は選択すべきではないし、ヒーローが被害者になったりしないためにもその判断は必要なものだと思います。

 

まだ余力があって、現状市街戦にあっても民兵が兵力としてある、患者が病院にはいれる現状に思考できる範囲は、戦争だの戦闘だのと言葉選びがどうのと言っていられる状態のうちに、目に見えない敵との人間の生存のための手段選びの方法によりよい言葉と形式、理論づくりがどこかでだれかに発明してもらえたらいいなと思います。