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多様性とはなにか


多様性とはその文字のとおり多くの様子をみることができる状態のことだろうと私は思います。


一つの定義の中に、そもそも定義という時点の作成が前後の時間を包括してわけられたものとするなら時点のみに名前をつける必要がないほどに意味のないことだけれども、大きな範囲で共通する通過点には地名のように周知がされても問題ないし、そこに名称があることでより完結に因果関係について情報を作ったり伝達したりすることができるのではないでしょうか。
靴を左から履く、という一つの現象があったとしてそれは靴を履く動作をするにあたってはそれぞれ多くの方法がありそのうちの一つではあるけれども「運気をあげるおまじない」という意味においての動作であるならばその名前を定義されることで同じ動作について考察することができるでしょう。
右からはいてもいいし、左からはいてもいい、同時にでもよいし、はかないという選択肢もあるかもしれない、そしてそれは運気の事以外に運動的な癖とか施設の構造上、人数や順番に関するものでも同じ動作を経ることになったり結果に至る事になるかもしれない。
靴を履くというスコープではなく、運気についてと靴についての関係においてあらたに動作を定義することでそういった情報を伝達することができるようになります。
実際左にすることで左手の動作がとか、姿勢や体勢、体調や臓器の関係、場所への対応や時間的なものが関係あるかもしれません。その中でも多くの共通点として「左足から靴」という表現や名称が誕生したのかもしれません。
ただ動作についてそれを情報として伝えるときにその付加的な要素を形容することができるという共通の認識へ到達するために定義が必要、というかそもそも定義とは共有するためにあるものなので同じ感覚で同じ利益を得るために定義が必要なほかに、違う事を禁止し損失を補填させるために共通の認識つまり定義をする必要に至るのだと私は考えます。

 


定義がどうしてもかみ合わない人はその定義内や基礎的な情報が構築された状態から排除する必要がでてきます。年齢の制限であったり性別、人種、状態などによるかもしれません。それが差別だというならいったい反射別主義の人は人類はスープになってとけあえばいいのだと考えているのでしょうか。
あなたの収益が差別なくみんなに配分されるべきだし、だれかが結婚したら花嫁は私の花嫁でもあるべきだとか、私の考える嫁はという定義をほかの人もそれが嫁だと認識する共有があるべきなのかとか、それも多様性であるとか言い出したら際限がなくなってしまわないでしょうか。


多様性とは、多様なものがその1カテゴリにはいっていいというずさんであいまいな管理の中で無法か統治かを必要かもしれないけれども介入は多様をくずすかもみたいな微妙なところで存在を余儀なくされている、そんなものではないでしょうか。
たとえば人殺しはよくない、では死刑は人が死ぬがどうなんだとなれば定義が2面化しなくてはなりません。
誘拐、拉致監禁はよくない、では刑務所や警察はとなれば、それをしてもいいという組織が必要になるのではないでしょうか。
嘘、実在しないことを流布してはいけない、ではSFや空想はどうなんだといわれれば、それは「人間にはそれが判断できる」という何の定義も補償もない世間の通説に任せてよいのでしょうか。

ミクロとマクロでは定義がちがう、なんてことを言われてしまうかもしれませんが、それはミクロとマクロの二つがあれば定義もちがうでしょう。多様性はそのスケールで分化した2面においてそれぞれあるものだと思います。
では伝達して共有する場面を小さくしてより的確な定義でわけるか、定義の許容量を大きくしてあいまいな法文でその時々に司法みたいなものが判断するというものかという対処くらいしかできないような気がします。

 

最低限「靴を左から履くということ」について共通の認識がある、その認識とはその状況があり状態があってその判断や希望や価値といったものが近いもの、おおよそ1定義を示して同意と離脱の二値化すれば同意の定義範囲にあるものは不満がないという事が必要でしょう。
これが共有の範囲としてとても広いためにマクロにみえる、少なくない分派があり骨子は同じだがほかの共同体とことなるものが複数内在する、これがミクロとマクロでことなるというならばそれはその定義した多様性の範囲が大きすぎまたはその制度でしか統合しきれなかった表現ということでしょう。
たとえば「人間」というカテゴリ分けを行い共通の認識をもってその行動や過去や価値について情報を共有しようとしたときその差が大きくでてくることは想像に難くありません。それは人間を定義するミクロとマクロで異なってくるという単純なものではないはずです。
人間という同じ単語をつかって、人間とはという形容を同じく再利用しているのでまるで2つの異なる視点が全く別物なのに同じ視点の同じ価値観で「その動作がことなる」ように錯覚してしまっているとは思いませんか。


人間がそこにいることが全ての定義の基礎になっている、ということが人間の社会で共通の定義であるとだけしてしまうとどんな人間だって人の形をしていれば人間の権利と自由と尊厳を手に入れることができてしまいます。
人の形でなかったとしても人権を得てしまう可能性もあるかもしれません。人間という定義が目で見てわかるその形だけであるとしないのならばどんなものでも人間といえてしまうでしょう。
人間というものを認定する機関ができてしまえばそれが認定したものはなんでも人間となってしまうし、善行が実は悪と定義されたり、悪といわれ続けていたものが実は善たりえたという話も存在しなくなり認定機関によるものが正義という多様もなにもないものが「人間という広義を多様化したもの」になりえる可能性もあるのではないでしょうか。

 

 


多様性を説くということは自分の表現範囲や管理範囲がありそれは独自の価値観で運営しているが、それを包括する上位の団体や組織、ほかの様式があることを知りみとめそれらと折り合いをつけて個別に存在していくことの相互関係のことを「多様性」と呼ぶのではないでしょうか。
単一のなにかという範囲の中になんでもいいから詰め込むこと、詰め込める間口のひろさ、フィルターレスなことが「多様性」と呼ばれることではない、そういうことではないでしょうか。
多様性もミクロとマクロで異なっていて、というならば人類と宇宙連邦では違うかもしれないし土星と火星でも違うかもしれないしあなたとわたしも、隣の国とも違うかもしれません。
これが多様性であって、あなたの多様性にこちらの一様をひとつ追加させてもらえませんかねそれが多様性でしょというものではない、というかそういう行動はいわゆる侵略といわれているものではないでしょうか。

 


共存は侵入せずとも別個に存在していても共存といえると思います。たとえば夫婦が結婚すれば同じ姓になることはいろいろいわれていますが、一人の人間に溶けて混ざり合うことではないはずです。
1パートナーと1パートナーが別個にそれぞれ存在して、1個の住所なり1定義の中に二人が存在するということ、これがこのスケールでの多様性であり共有なのだと思います。
夫婦がたった二人だと多様性が少なすぎませんか?未婚の人もしらない国の難民も、みんな家を共有してなかよく全員が夫婦として生活すること、これこそが多様性、だなんて発想は「多様性」からは想像ができるものだとは私は思えません。
それぞれの夫婦という単位スケールでみたとき、夫婦の形がいろいろあるという多様性の単位、その住宅地や近隣、市、より大きな範囲でどの単位をみたときという差でそれこそ多様性が見受けられると思います。

 

どういう人がいて、その人たちは「多様性というコミュニティに参加していない一派」と識別するというのは多様性の範囲をそこで閉じて排斥していることになるのではないでしょうか。
多様性ではなく異質の混入による汚染、というその結果を独自に裁定した状態の表現に切り替えることができるような混在状態にならないようにするため多様性の定義に地の果てをつくりそれより外は「多様性に取り込まれるよう努力すべき問題要素」とすることは何のスケールでいうところの「多様性」になるのでしょうか。
それこそ排斥された先でつくられるコミュニティでの多様性も同系列の定義としてみれる広さの範囲で人なり世界なりを評価する際に「人の多様性」のような表現方法で認識し伝達し共有することなのではないでしょうか。


多様性を「共存できる範囲、共生できる対象とそうあるに必要な定義とそれを守る前提」ひいては「外れたものに対してのコミュニティの動作のしかた」を共有し定義の上にあることを遵守することを第一とすることこそが多様性を守るのではないでしょうか。
主義をできるだけ小さく狭くすることでその定義のわかりやすさを高め共有し協力できる範囲を広くするため多様性のあるべき範囲を定め、集中的に活動することが多様性の姿かと思います。
義務教育の無償化というならばその主義において多様な取り組みや活動、方針や思案があっていいそれが多様性だと思います。それには内閣改造や税金問題、地域活性化、高齢化問題、住宅と騒音について、それらも含めるべきだというのが多様性ではないと思います。
むしろ集中すべき問題点を拡散させ散漫にしその核たる主張の素材になるものを「多様性」として取り込むべきだ無いことは何かに違反している違反しているものは責任を問い争う姿勢も辞さないというのは「多様性」として含むべきものではなくすでに「侵略」だと思います。

 

守るべき範囲から出ること、すこしでも攻撃的な態度をとるということはすでに侵略ですらありえること、これらは多様性を侵略や侵食に変え平滑化を意図した破壊的なものだと感じます。
多様性を認めたいならばどこの範囲で、何によるものかを明確に、その範囲への入出にはコミュニティから代表が定義を適用しコミュニティの単位としての定義を模索することが必要です。

ほとんど全ての事柄はそれぞれ独自の背景や事情をもっているはずです。それらはひとくくりに出来る訳がありません。
肌の色が違う、言葉が違う、住んでいる場所が違う、それを越えて繋がるもの、共有できるもの、共有し共感することで一人では得難い経験や物資を手に入れることができる、これをより損失を少なく価値を高く品質よくという活動を生きることの理由のようにとまでは言いませんが必要だとして毎日こなしていけるということができるという範囲が個人の定義できる範囲だと思います。
二人以上の人間関係において社会的に共有条件が明確なものについての関係性のあるひとくくりの状態を第三者的に「多様性」と呼んでいるだけなのではないかと私は考えています。

 


ではその多様性をもって主張をしたり共有をしたり、存在を示したり日常的に使ったりすることについてとはどんなことなのでしょうか。
私は自分の感じた定義や身の回りで多く共有していること、自分ルールのある範囲内での事と、それをしているだれかが全く異なる生活をしていることを含んだ状態を多様性としています。
これを人によっては「それは多層性と呼んでいる」とか「多方面性と定義しているが?」とか「多面的というべきだ」という別のコミュニティがあると思います。これらと肩を並べている状態が「多様性」だと思います。
多様性があるということで終わるこれについて「私も多様性の一部なのだからあなたたちの仲間に私という多様性も認めてほしい(別コミュニティ内部への自己コミュニティ確率を要望)」という行動は多様性とはほぼ無関係だといえるのではないでしょうか。
他の多様性へ自分の「多様性」という一つの確立した様式を取り込ませようとしたり従わせようとしたりすること、自己の認識と同じ認識を人にもってもらう、他の人が自分をみたときの価値観を自分がみたときと同じに画一化しようとしたりすることは多様性でも自由でもないと思います。
他の人の自由な判断を自分の画一化され固定化されたものに侵食させ自分の存在を他人の中に支店として他人の判断ではなく自分の判断を他人の中に定義するのは、他の人の多様性を否定し自由を奪っていることになるのではないでしょうか。

 


真実を伝え共有し研究する、そういう様式やコミュニティがあってもいいと思います。それらはたくさんの方法を取り込み多面的で多岐にわたってよいと思います。それらをあわせて一つの様式かと思います。
ほかに嘘ばっかり言うとか罵倒ばっかりする、仕事をしない、破壊的な行動をする、そういうものもあるしそういう集団もあるかもしれません。
それらは多様性と自由の名において攻撃し排除すべきだとするのはすでに多様性も認めていないし自由を奪えるものだとしてしまっていませんか。

 

多様性とは並列して存在する自分の立場に近いところにあるものを合わせ評価し自分も再評価するときに得られる様相の一つであって、多様性の名においてとか多様性を求めるものでも多様性について形成を考えたりするものではないと思います。
これが少しでも攻撃的にでればそれは侵略ではないでしょうか。様々に存在するなにか一つが、なにか一つに影響をしようとすることはベクトル的にすでに攻撃と定義し表現して共有して差し支えない元素的なものだと考えます。
攻撃という単語が良いか悪いか感じがいいかわるいかというのはそれも人それぞれで、それらの共感があつまればまたそれを多様性としてひとつ様式を存在させてもよいと思います。
私としてはその上でよい攻撃とわるい攻撃があると多様性の範囲で大きくまとめられる分類が作れるのではないかと考えています。まだ多様性の範囲におさまることだと思うのです。
地域や人種、性別、年齢などでどうしても一致しない基準や基礎、定義や結果、範囲については多様性と呼べるスコープに入らないし入れるべきではない事柄もあるでしょう。
それらを入れることが多様性であると盲目に考えを持っている人はいないかと思いますが、言葉で同じ単語をつかったり同じ表現が見方によっては大きく異なる場合、それはカテゴライズや範囲、コミュニティや価値基準がちがうもの、違う範囲のものは同じ名前でも違うことである、その異なりについて名前をつけたり認識しそれを相互に共有することこそが多様性だと私は思います。

 

多様性とは自分たちの定義を明確にすること、近い種類や同じ範囲で多様性に含まれる競合やまだその情報に到達していない人にむけて理解をしてもらったり共存や共有で「多様性」を相互に感じる異なる存在として確立し存続運営していくこと、主張を続け共有し共感を得たり与えたりしていくこと、そういう行動のことだと思います。

多様性にあるためには確固たる定義と主張でできるだけ少ない要項から固定的な判断を下す必要最小限のコミュニティを存続させることが必要だと思います。
自分の人生は一つきり一度きりで多様性もなにもありません。一回だけのぶっつけ本番、ほぼ後悔しかない毎日の積み重ねです。多様性なんてありません。
ただみな同じ人間として人生をおくっているという範囲でいえば多様性は人数分あります。しかしたった一人の一度の人生にほかの全員を慮る必要があるのが多様性、ではないはずです。
たった一人が好きなことを考えて、すきな方向に向かいたい、これは自由に選択ができるべきで、その方向について賛同する人が存在してもいいはずです。

 

多様性については説明するに言葉をつくして喩えをいくつ並べても足りない気がします。
多様性をくずさないことのためにという方向で最低限まもるべき必要なこと、を考えて言葉にすれば限られた言葉にできるように思います。
濾過や蒸留のように、選びたい対象を抜き出し不要なものを排除していく試行錯誤で必要なものだけの集まり具合を密にしていくことが、多様性を作り出す基本となるのではないでしょうか。
自分に多様性がないことを多様性の中で発揮すること、それが多様性の範囲であってミクロやマクロで差がでるという表現のそれではなく、それぞれの中にそれぞれの段階で存在する状態の一つに「多様性」があるだけ、通過点のような集合地点のような、中継地点のようなものが多様性の言葉の意味するそれではないでしょうか。


一つの純粋な構成物のそれに「多様性」があるわけもありません。だって純粋で単一の存在にいろんな面はなくそれそのものです。もし一つのそれに多面的な要素を見つけられるとしたらそれは評価者のほうがその単一で唯一の存在の状態をいくつも見いだせるということ、その関係性があるというだけではないでしょうか。


多様性という言葉をつかってたった一つしかない自分の多様もなにもないひとつの様式を、他人のエリアに多様性という席をもうけさせそこに特派員のように迎え入れよというのは「多様性」と呼ぶことは私にはできません。
人ひとり個人において幾層もの思慮と膨大な知識と判断、そして結果について相互に反映する様式をいくつももちあわせ個人で「多様性」を持つことが良いこと、とは可能性の段階でも思えません。
それはただ単に芯がなくて浮気性で人の意見に流される場面ごとに都合のよい対応と約束をするだけの、様式のかたまっていない流動的な、多様性や様式、規格や定義を決める場面には必要のない類ではないかと思います。


自分からみて他人は単一の思想で団体を形成しその団体は多様性をもっていない活動をしている、ように見えるものと遭遇することもあるかと思います。
それはその組織が多様性をもたずそこに存在していることが問題なのではなく、それを問題視しようとしているときにどの範囲でそれが一つの様式であるとみているかではないでしょうか。

他の人や組織や団体が、悪く見えたり自分のアイデアがそれらに対して効力をもたない、同じ定義としてあつかわれない、それはそういう多様性でしょう。
自分がそんな中で存在し多様性の一つとして機能するということは、他を蹴落として自分がその多様性の中で唯一の多様性、すでに言葉にした時点で齟齬がありますが自分が多様性だと定義するたったひとつの定義をすることではないはずです。
自分の考える多様性のなかの一つの価値基準、規格や定義、たったひとつの主張により多くの人と分かち合いたい、分かち合う事で意味や理解が広まり価値がたかまる、相互に生産性がたかまると広く伝えたくなる、それが多様性であることが望ましいと私は考えます。


なんでもかんでも世界基準で全人類共通の価値観に無理やり統合してそこから飲み込めない個人をピックアップして「多様性が足りていない」などと指摘するのはまさに青天霹靂デスフロムアバブ、天空から死が降ってくる理みたいなものでしょう。
多様性が空から降ってきて人を死に至らしめる価値観に、それそのものが定義されてしまうとなる気がします。私の考える多様性は「関係性のありさま」です。これは「いかに守るか」であって「攻撃によって守られるもの」ではないと思います。


人はみんなそれぞれに価値観があって多様性を定義して、価値基準に沿って行動を決めて成果を評価して次への判断材料にしていくものだと信じています。一人ではできないことも複数人でならできると信じています。
そのために行き当たった隣の人とも命を預けたり重要な決定を任せたりできるものだとは思いません。自分の選択した自分のための人生のための助力として、自分の様式の賛同者に手助けをもらいたいのではないでしょうか。

 

人種、性別、その他いろいろなことで多様性があっていいと思います。その中でもコミュニティに属する要項は多く満たしていますが独自に設定した定義により参加できないとなることもあるかと思います。
これがより多くの部分で第三者に理解しやすい表明であるならばよいですが、時にそれが差別とよばれることもあるでしょう。

自分のもつ主張と防壁を表現して、賛同してくれる仲間でそれをメンテナンスし活動を広げ、他に侵食されて崩壊しないように、また自分が侵食して崩壊させないように、存在を適したスコープで判断しながら在り方をありたい方向へ進めのこしていくのが「多様性」の表現する様のそれであればいいなと私は思います。