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差別と区別

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差別と区別は違うのだよ。
そんなことはもう何度も繰り返されてきた定型句にすらなりえていると思われるのですがその言葉の意味なすところは何であるかは、知らない人のほうが多いのではないでしょうか。
知らないというか、その言葉が内包する意味とか私的したい情報、状況について明確で事例もあり、伝達に齟齬がすくないものかといえば、そうではないという状況ではないでしょうか。

 

では、今回はそれをはっきりさせたいと思います。
と、毎回どこかのブログなり有識者セミナーなり言論バトルなりでされてきたかと思いますが、ではそれが定義されてはっきりされた例があるでしょうか。

 

「なんとか宣言」で提唱された用語や価値観、「なんとか法」にある表現方法とその対象、「なんとか論法」で提唱されている表現方法など、差別について段階と分類がありどれに当てはまりどういう対処をされてるべきかなどはないのではないでしょうか。
それぞれの組織単位でふるまい方をの基準となる広義ですとか教育といったものはあると思います。原理的に差別とは何か、区別とはなんであるかということを組織単位で定義して対処をしているところはないのかもしれません。
もちろん部分的にであったりモラルや倫理の教育をされているところ、行動指針やガイドラインを制定しているところはあります。していいことと悪いことが明確に記されている規則もあると思います。
それだけで差別と区別くらいわかるだろ、と思われる方も多いと思います。もちろんその方々はその違いを知っており判断基準があり事例があると思います。これを学習していないまたは情報を収集していない、それをふまえても行動に反映されていないなどあるかもしれません。
差別をする人に対して「バカとして扱って相手をしないようにしよう、そしてまわりが迷惑しないように広く告知してあげよう、これは親切心からボランティアで行動していることだ」というのが差別でないなら何なのだという場合もあるかと思うのですが、それはその状況や環境、それに触れた関係者の方々のその時の判断基準によるかと思います。
ネットでその接触範囲をひろげると、その分反対意見に遭遇する確率が高まるのしかたのないことで、どちらが善でどちらが悪かということはないと思います。
善悪はあるのかもしれませんが、善悪定義レベルの広さにおいて言葉の罪の深さを精査するコストを考えると部屋に寝る場所がなくなるほど大きなベッドを置くくらい意味がないことかもしれません。もちろんベッドとしての機能を使えば寝られますが、そこで寝られないほど床や棚に置くべき荷物がベッドに置かざるをえなくなれば、選択としてその容量を一考したくなるかもしれません。

 

ここでは言葉に限って、差別と今現在定義されているものについて、昔はそれが一般的な表現だったので、現在も使い続けている、その世代を生きた人がいる、ということについて必要なのは
1) その人たちの再教育
2) その人たちの活動範囲の限定
3) 罰則による自制を求める社会定義の設定
4) 被差別者による実質損害の賠償請求交渉
のどれかになると思うのですが、ネット上でこの話題が出るのは「差別用語という呪いを吐いた人間をこちらで定義しているその呪いの量だけ呪ってあげよう」という呪いの当選発表会が少なくはなさそうです。

 

一般的な生活において表現する言語においてそれを調整する必要があるのは交流があるところになるでしょう。
生まれたばかりの赤ちゃんから2歳児を過ぎるころまでに発言されている内容は差別的で残酷で聞くに堪えない内容かもしれませんが、伝わっていない人間には泣いている鳴き声にしか聞こえなかったりします。
日本語に訳すと禁止すべき、教育すべき内容かもしれませんが赤ちゃんの発言についてそれを求めた人はいないような気がします。
昔は、という昔の環境がありますのでそこにあったものを現在も再利用するにあたっては、倉庫に眠っていたそれを引っ張り出して広げるのが現在であれば様々に問題が発生しそうなことは予想ができます。
今の行動予定において、目的の達成のために、できるだけ問題を少なくした言葉を選ぶのが最適ではないかと思う派からすれば、その人がそういう情報源から成り立っている人物であるかどうかを吟味して対話対象に選択する必要がでてくると思います。
すぐに人種と性別の差別についての表現を例にして情報の伝達を試みた発信をしてくる人に、根本的な教育を再度施すのももちろん良いかと思いますが、再教育時間について設けることができない場合はそれを超えて情報交換をする櫃必要があるかどうかといえば会話する程度の仲に対しては釣り合わないかもしれません。

 

区別をすることによって分けられたものが、その行く先が固定的に判断基準を一括で分配したとき、その区別ではその用途に接したとき区分方法がちがっているべきということに遭遇して、その分岐により得られるはずの本人の意図する価値が手に入らなかったとき、それは差別となるでしょう。
区別自体にも区別したことした結果も、区別は区別です。その区別を再定義する段階があったはずという点が差別ではないでしょうか。その差別とされる点の位置は環境や状態で変わると思います。時間の経過でかわってきているとも思います。
昔の基準で言えば10歳をこえてもまだ大人として認められず結婚もゆるされないなど人権を無視したものだといわれるかもしれませんが、今は無職で二十歳までいても超高級な家電である携帯電話をもって自由に電子マネーで買い物できたりする子供でいられます。
大人になっても子供あつかいするなど失礼きわまりない、たるんでる、なんていわれるかもしれません。その昔の時代と区別を今のこの状況に行うべきなにかがあれば。その当時の人がこの時代にくるとか、この時代がその時代に移動するとか、あれば。
今は今の区別で最終的な結果まで問題なく進行する区別はあります。子供とか大人とか、男女とか、役職とか。いまは問題ないものは問題ないという定義の上にあればよいはずです。過去にそういうものがあったからというのは過去に行くことも過去を持ってくることもできないのであれば不当な理由でありそれは差別を誘引していることになるのではないでしょうか。

 

ここで当該の問題が発生する状況として、人間は時間とか場所を超えてくるんですよね。生きた時代というのが環境があり状況がある。それ自体は持ってこれないけれども、というか持ってこれないのに、それに対応した人間は時間の経過によって変化した環境に流されたどり着くことになる。
自分の住んでいる界隈では独特な言い回しで特定のものを読んでいたが、ほかの文化圏からみてそれはひどく差別的で侮蔑を含んでいたとします。当人はその名称の影響範囲をもちもの一つくらいのものとしていましたが、それを聞きつけた問題視する人が拡散し多くの人に問い、環境に対してそれをどう扱うのかと問うたとします。
そのナチュラルな差別発言はそのあさましい価値観と卑劣な態度から生まれたことでしょうか。そしてその言葉で被害をうけつづけていた被害者がそこにいたのでしょうか。
そうだとしてもその当人を1例だとして見逃すわけにはいかない。正義は履行されるべき、ちゃんとそれが差別であると教育してやめさせるべき、でしょうか。
その価値観をもつ人間が接触して差別の発見を共有しそれを改善していくことが必要であり望まれたものでしょうか。
ほおっておけばその人がその地域からでることがなければ徐々にうしなわれ差別用途と定義界隈では定義されている言葉もなくなっていき、それで不利益を生じていたものももとよりないのではないでしょうか。
多くの人間がそこにもつ定義をひっさげて違うエリアに入り込んで、正義と悪を解いて差別とはなにか平等をめざそう、というのはよりよいことかもしれません。
しかしそれはだれにとってよりよいのでしょうか。
貧しくて苦労のおおい文化がそこにあったとして、そこに近代文明を持ち込んで果たして幸福になったのかどうか、それはわかりません。
ただ変化があったとしか言えませんし、昔の苦労に耐えられた人々は強く、それに比較すると弱くはなったかもしれませんが、弱くとも生きられるという環境は環境自体が強度を増したといえるかもしれません。
自分たちの使っていた道具は都市の機能や設備にかわり、都市が人の手足を延長するようになり、それを束縛だとしたり感じたりすることもあるかもしれません。

 

それを社会的に問題として対処するならば、差別だとしらずに時間を経過してきた対象に、その発言を許す環境か、その発言について問題を意識させそれを回避した発言方法を教育するか、しなければならないでしょう。
差別発言をするやつだということでそれを問題として指摘するストレスをなんの関係もないところから与えるのは、因縁をつけてストレスを与えることで行動を変化させようとすることと同じです。
それが我々の文化圏の害なのであなたはしらないかもしれないがそれをやめろというのは、だれに断りを入れて商売してるんだここは我々のシマだぞ知らんかったとはいえ払ってもらわないとなと同じです。

 

無知からくる差別とか、無知でも差別はある、とはいえないと思います。差別とは高度に発達した知能でのみ生まれると思います。
なぜなら、なんかきらいだからだめーというのにはその後の利害や変化、これまでの状況や実績など関係なくその場の気分で言っているだけであれば、それは「差別にあたること」だったとしても差別はしているわけではないでしょう。
結果にいたる可能性と経路を知り、その分岐点を知り、それをどう分けると結果がかわり、その利益が対象者本人に最小になり第三者がその対象者の貢献にかかわりないのに最大の利益が得られるようにするこが差別でしょう。
過去を知り、未来を予測でき、その分岐点を考え付くことができるのは無知ではできないはずです。
そんな発言をして傷つくなんておもわなかった、という無知が傷つけたという事実をしりそれを回避して傷つける可能性のある相手とも共存を図りたいと知を得ることは差別的な事象があったとしても許容されるべきではないでしょうか。
それを、その予測までできて行動を制限せず傷つけたという事実を作らせたり、その過去の点を時間によって変化し成長する可能性を破棄して「一回そういうことをしたから二度とチャンスは与えない」というならばそれは確定していない未来を不当に判断して与える不利益の「差別」そのものではないでしょうか。
現実的に繰り返すことが観察されている事例について再発を疑うのは差別ではないですし、それを自覚自制できないのであれば必要なのは治療になるでしょう。

 

ナチュラルに差別用語をつかう人、世代、無知による差別的な発言、はその発達した知能世界にひっぱりだして袋叩きにするのは、浦島太郎の亀的にいじめという「差別」そのものに近いと思います。
もしそれを見つけたならばすべき行為は、そこから出ないように、出るならば知識を正装させてあげるべき、ではないでしょうか。
差別は無知からきたりしない、無知なものに知らないからといってフルオプションつけて社会制度を契約させない、それをすること自体が差別だと、私は思います。