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文系としての理系的問題点の見つけ方

見つけ方というのは手段の一つでそれをどう使うか、どういう結果を導くか、その成果をどう使うかは個人ごとの自由です。
自由とはそれを存在という列挙に加えよということではなくて、存在を認識していない確認していないものであっても存在の可能性を考慮できない範囲のものでも、存在しているかもしれないししていても構わないであろうという観測者自身の行動範囲の定義のことを言いたいと思います。
どの文献からみて、どの歴史から、だれの見解でいえば、どういう定義で、こういう事実があるため、それは何々だ、という枠をつくり型にはめてそれがその光の当て方で何にみえるかという事を決めつけなくてもいいということが自由だと、私は思っています。
そういうふうに見えた風景がある、という事とそれは他人に配慮してわざわざ「個人の意見です。皆さんには違うように見える可能性もあるしもし見えてもその違いについて問題視しませんし、同一性か差分かを共有することで興味のある方向性が見える可能性に期待しそれを減らすことには期待をしません」ということを追記しませんがそういうことですと言いたいです。
前提条件というのは前提として固定ヘッダーに置いておくという手段もありますが、時間を経ることで認識しあうことができることでもあります。それについても誤差や誤解もありえますが、そんな無限の選択肢のなかから人が個人として選択できうるのは一つしかないので、一つしか選択肢をもっていない人間がすることと許容してもらいたいこと、それが求める自由の方向でもあります。
その自由が個人の許容であってそこから出るという事はなんらかの規制をうけることにはなるわけで、意見として自由という部屋で舞うほこりのようなものについて窓をあけたり風をおこしたりすることでどこかに影響を与えてしまうことを出してしまうことがあります。
発言をするということは、基本的にはその反対方向やそれを否定する事柄を踏まえてあえてその方向性でスタンスを決めて話すことになるので、口が富津あって同時に陰陽の意見を言えたら「意見としてしっかりしている」といわれるかもしれませんが、所詮人間には口がひとつしかないため片手落ちの一方的な個人の意見しかいう事ができません。

 

そんな半分しかない情報をお互いに長い箸で口元に運ばなければいけない状態で、お互いに口元に確実に運ぶには、口という位置に正確に安全でできるだけ端的に相手の摂食する動作にあわせたお箸の操作をしてあげる必要があります。
相手を理解してお箸とは何か、つまんだ食材はどんなものなのか、知っていればより効率的な食事が地獄でも楽しめるのではないでしょうか。三尺三寸箸という法話でメタ構造をお伝えできればよいのですが喩え話のデメリットはメタ構造以外が伝達の際に印象に残る可能性があることです。
お寺でお坊さんに法話を聞けばメタ構造だけケミカルレースのように型紙が解け落ちレース構造だけ残るように心にとどめることができるかと思いますが、これをマックで女子高生がするとマックで天国とか地獄といった宗教観念や相互理解やその促進効果についてビジネスを語っているのかという解け落ちるべきデータが根を張り発展する可能性も否めません。
TPOにかかわらずメタ構造、肉付けされた相関関係、その関係性の言及範囲を分離し、整理し、相手に返して返答とし、その会話の終着点をどこに期待するのかという動作はいわゆる「理系的」ではないでしょうか。

 

理系というと小難しくて無表情、感情がなく感情においての損失を大きく担保し物理的な収益を大きくする社会の裏側で役立つけれども人前にでてくると文系が助けてあげないといけない無機質なもの、というイメージがあるかもしれません。
でも文字的にそのまま単純に、自分の経験とかそういう描写の作品の記憶とか、実際にみてきた人種などをその基礎とせず、文字そのものでみてみると「ことわり」についてなにかすこしこだわりがある派だというだけです。
「なんかそんなかんじがするし、それいいとおもうけど、そういう言い方ってなんかやだなー」というのが文系だというのならば、その発言を再利用できるように内容分析することが「ことわり系」で、文系も基本的には「その、あれ」とか「だいたい、いいわるい」を記憶し理解はしているはずです。
なんかやだ、なんかいい、という量子演算的なアナログデータで演算しているわけです。その膨大なプロパティの接合形式が「勘がいい」といった演算結果で出るわけです。
それはそういう人だというさらに環境を取り巻く人たちの持つアナログデータによって疎通範囲を広げているわけで、ブログで「あれのこれが、ほんとマジでこれ」と言っても伝わらないわけです。その方向性をなくした質量だけをどこかにぶつけてやろうと利用されることでネットでは騒動が起きますし、文系のアナログデータを目的外利用されやすい状態で人通りのあるところにおいてしまって被害にあうことを「だから文系は」という流れにされているところもあるのではないでしょうか。

 

文系と理系が相反するもの、ではなくてアナログデータ状態を文系、再利用可能に分離することを理系として、問題点をみつける方法を考えてみたいと思います。
文系でいう「あれ」が理系でいう「ファイル.zip」だとして文系でいる「パってする」が理系でいう「解凍する」だとして、それは同じことですが鏡写しという構造ではないはずです。
結果を見出す式を列挙するということと「なんかそうしたら結果ってでるかもじゃん?」というのも同じものです。
デジタルになっているか、量子演算されているかの違いでいうと文系はかっこいいデータ圧縮方法かもしれません。ただ実際に個人の中に備蓄するのに量子データは便利ですがそれを他の人の脳や思考に移送するにはおでことおでこを強烈にぶつけるしか方法がありません。
そんなことをすれば人格も入れ替わってしまいますし、頭蓋骨の強度も人体的にもたないので傷害を負う可能性が非常に高くなります。
そのため、再利用可能にしたメタ構造で最低限の単位の分子構造を形成し相手に接種させることが効率的だと思います。
相手個人について、のどごしがいい、味がすき、興味がある、経験的にしっている、という付加情報をそのメタ構造に付与して相手に取り込みやすい情報として提供することもできるかもしれません。

 

では問題点を「ことわり系」としてその物事のことわりをなす部分を、肉をそいでとりだして、余すところなく再利用できるようにする方法を、いくつかあると思いますが一例として考えてみたいと思います。

・単純に入っているものを全部バラす
ためしにいまはやりの女性問題とか表現問題とかを試験体としてみてみると
男性
女性
それ以外の性別
身体の特定部位の表現
表現方法
それらを混合した結果に触れた人間の反応
反応による影響をうける第三者

それら包括する社会
その社会における秩序
行動の営利性
行動の公益性
その結果を得る対象
得られた結果により変化の起きる範囲と深度

くらいはすぐに思いつきます。
ここだけですでに

 

「アニメキャラのポスターはだめだ」
対象のモノ化
性的消費
表現方法
商品の目的性の不一致
商品の目的外利用の頻度
活動の関係性について
掲示環境の相関性

 

を問題に上げることはできると思います。


例としての問題点の最初ふたつについてはこんな考察はどうでしょう。
モノ化、消費はもうなんかむかついたからそういう被害を「私自身がうけているので私に対して配慮しなさい。私はそういう身体構造を一致するものの一人なので、それらの代表としていわせてもらう」というスタンスがあるかもしれません。
代表になるまえにはまず投票か推薦をされる必要があると思います、で終わらせたほうがいい話でとくに根拠とか理論もないでしょう。しいていうならその発言者個人のそれまでの人生をメタ化して分解しその要素ごとにどうしてそういう気分になったのかを熱心に観察するしか研究方法はないかもしれません。
先のコラボ騒動のように減感作療法がごとく浸透作戦も対処手段のひとつとなりえそうです。
そうなるともう原因としては個人の過ごした環境と時間でしょうということになります。時間を戻すことはできませんのでその対象個人の記憶している情報を上書きするしかないので洗脳するか、知っているものに変換する減感作療法、またはその人にたどり着かせない方法があると考えます。
すると、その二つの原因は「そういう人にふれられてしまった・処置を必要とする状況を発生させてしまった」ということが原因ではないでしょうか。
問題点は「そういう人に触れられる場所に掲示してしまったこと」があてはまりそうです。本屋に並べている分には問題なかったものだった、というところでしょうか。
だからそこに至った経緯は、とか掲示するということは、とかだれが許可したかだれが掲示したか、というのはここを起点に細分化すべきでこのマクロだんご状態をこの時点でアナログデータを雰囲気で断罪しても意味がないというか気分がすっきりするという効果しか発揮せず終わるので問題点として分離してひとまずおきます。
どこのだれのどんな気分が、すっきりとはどういう状態なのかということも含め、メタ化してその手法を用いればそれが解決したり、またほかの目的に利用したりすることができるように「ことわりと成す」ための材料としてここはここまでです。

 

表現方法というと、気に入った気に入らない、そういう例が実際あった実際感じたという空中戦でドッグファイトになります。長らく戦闘機を描いた漫画やアニメや映画の品質が上がらなかった理由には相対的な描画ができなかったことにあるのではないでしょうか。
空中のどういうところを飛んでいてなにがすごいのか、空には空しかないので表情と効果音でしか表現できないことが多いのではないでしょうか。似たような少ない要素で演劇をするパフォーマンスなどありますが、そういった技術が必要になりそうです。
近年それらも多く表現できるようになってきた理由には航空力学の一般認知と言語的な表現の発達があったのではないでしょうか。昔は感情のうごきをアナログデータとして知覚したものを擬音として「がーん」などといったものですが最近では形容表現ができるようです。
ドッグファイトのリアリティも奴が来た、ブーンという以外にも多くの相対性を示す語彙がふえて顔のアップだけでも空中戦ができるのではないでしょうか。これは必殺技の名前を唱えて出すという表現や車田正美先生の直立不動のキャラだけですべてのストーリーが成しえるという格闘漫画の表現などが時代を後押ししたのかもしれません。
これを問題視するとなると、表現のなにが問題かということについて考える必要があるでしょう。
これはわりと第一弾のときあたりや他の話題でも見かけたと思うのですが、これはよくそういう解説をされる方にみられると感じることなのですが、まずは歴史を紐解くべき、というのとすでに言語化された表現でうめていくべし、というものがある気がします。
前例がなく言語化されていないので今もんだいなんでしょという「ライトつけてみて」問題に近いことを考えてしまうのですが、それを注意される側が準備してあげる必要はないと思います。
おまえがむかつくから告訴してやる、とおっしゃる方に対してなにがおむかつきになられるのかを具体的にしなくてはなりませんね、とヒアリングシートで解析して差し上げる必要はないと思います。訴状にまとめて出してくれたら、そこから考えましょう。
こちらが準備できることは前例、事例、凡例、具体例、などでしょうか。表現手法の数について美術史を紐解いたり、映画諸説読み漁ったり、表現の豊かな小説から一説をお借りしたり、あると思います。
これは読んで語るにその識者がどんな流派のどんな作品の、どんな時期でどんなタイミングでだされたという知識が試されることになると思います。
事例が発生してから似たような事例を当てはめるだけでは細部に齟齬がでて、その齟齬をみのがさずつなぎ合わせてとんでもない結末に導かれる可能性もあるわけで、それらについてより無駄のないようにコンテキストをまとめておくことができるかということが全てではないでそゆか。
たしかに、ここに問題点はありそうです。しかし素人が画像検索ででてきたものとそういう局面だけを表現した事例についてのみ比較して意見をするのはすこし難しそうです。
これは素人ならば避けて通りたいし避けるための方法としてはそのインデックスを多くもっている専門家に都合の良い事例を見繕ってもらって配合してもらい、目的達成の一助とするのがよさそうです。
薬剤師さんのようにため込んた知識を必要な対象について必要なものを配合し、目的の達成のために要所で素人がやけどしない範囲で使用する、あくまで目的達成の主力は本人の免疫力とやる気が必要、ということになるかもしれません。
問題としてここが、確実に、これの問題だというのならば、さわらないほうがいいでしょう。すぐに美術館の館長さんとかに協力を仰ぐべきかもしれません。
「今回の表現と、前回の表現は、明らかに」と言われるのならば、狩野派印象派の、イタリア造形美術と古代ローマの建築様式と、みたいな事例が時代背景と人々の動きもあわせて語れるくらいはないと「お気持ち」で一蹴されてしまっても仕方がないと思いませんか。
思わないのでしたら、私の大好きなグリコのSKYアイスは社会全体が協力して復活させるべきほどのおいしさを持っていると私は感じているのですが、それを尊重してもらえますか。私が私のために署名活動をするのは勝手でしょうが、共感して署名活動を率先してもらえますか。してくれないあなたを批判していいですか。
公益性と将来性、投資価値を十分に説明してからそういうのはしろ、好きとか嫌いで語ってるんじゃねえよ、と思われませんか。専門家に依頼しないのであれば、さけて通りたい、個人がストレスで抑えておいたほうがほかにかかる負荷をおさえる結果になる点だと私個人は思います。

 

のこりの商品としての意義や価値について、これは商品を扱うところの問題なので好きなお菓子が売り切れてイライラしていることを「その社会的意義について真面目に考えているのか」「私が手に入らないのは売り方がわるい」「転売するようなやつに売るな」とご意見さしあげたい気持ちもわからないでもないです。
今ではマスクの売れ行きとその効果について転売とウイルス対策にならないという事などについてそういったストレスを感じ心を病ませている方もいらっしゃると思います。商品の製造について特化してそういう売り方とか売り先といったコントロールから手を放したい方がメーカーをやっているわけで、自社営業でコンシューマーに繋がっているならその営業部門に問い合わせるとよいかもしれません。
代理店や卸売を使っているところはもうその商品価値の市場動向をメーカーがもっていないので、市場に流通した状態の商品について考えることができるのは消費者間についてのみの事柄に限られるのではないでしょうか。
ならば消費状況について問題視するなら代理店、直接購入先などについてになり、商品そのものについてであればメーカーにという対応ですね。
ポスターの絵というなら作者に、ポスターというものについては企画者に、そのポスターを使うということについては著作権を保持する法人かポスターを利用して促進をしようと計画している企業に、貼りだしていることについては土地の管理者か作業員に、などそれぞれことなりそうです。
問題点という一塊にまとめる時点でもうすでにバラバラのつぶだち炒飯状態のものをまとめる必要と使い方について考えると、これはもう消費者単位ではないでしょうか。
この局面において、そして表現方法について、問題をまとめてみたよという話になると、それぞれの観測点からの風景実況ということになるのではないでしょうか。

 


ざっくり骨だけのメタ化をすると
いちばん: 女性について
にばん: ひょうげんについて
さんばん: コラボについて
どれが、どんな問題かということではないでしょうか。

 


世界のさまざまに今おきている問題のそれぞれに、この骨状態だと何にでも使えます。桶屋がもうかったり蝶々を羽ばたかせるのも容易です。なんなら三国志と女性、北極点到達と女性、表現の自由、表現の不自由、コラボとイベント、そんな話はいくらでも批判も事例も創作もできるのではないでしょうか。
そういう材料から、今回使いたいケースに特化させる構造をたて、それを強化する肉付けをします。
1: 女性の、今回は精神でも境遇でも時代でも能力でもなく、部位について問題点を議論します。
2: 女性の特定の部位についてどういう形容をもって情報とするかについてを問題点として議論します。
3: 女性を利用して表現するという手段を用いる場面や団体、状況について議論します。
という方向性において情報を収集し材料をかきあつめ、戦力としてなんでも溶かして銃弾にする、最悪の状況が到来した場合手ごろな石をひろってなげることも想定し戦力を用意するという情報収集がまず必要になりそうです。
問題視という戦闘を視野にいれた議論行動を起こすのになんとなくしっててそれとなく感じていたことを思った通り言葉にして、どうするつもりだったのでしょうかといわれないために。
「なんとなく国境をこえたら銃撃された、この国に自由はないのか!」と思ったり言ったりするのは自由です。
そういう自由という固定枠を規定し認定しろそれが自由というものだと主張し相手に飲ませるためには戦闘行為が必要で、それに勝利すればその釣り合わないレートでの状況交換、自由という名の蹂躙が手に入るかもしれません。
相互理解の末、お互いにかかわらないでいい範囲を創造しましょう、まだ見ぬ地までといいませんが、この両者の間に隙間をつくってこの意味のない空きスペースをDMZとして、お互いの音が、温度が、相手に伝わるのを遮断したり緩和したりするものにつかいましょう、という交渉がしたい、そういう議論のためには準備が必要だと私は思います。

 


そうなると問題点というものの一つは、女性の外見的な情報についてということに絞れるのではないでしょうか。
その歴史と事例、それを取り巻く状況の情報収取をすること、そしてほかの要素も集まり次第、現状にあった表現方法の具体例を試行し目的とする結果を設定することのために、問題視したいということです。
問題だーというのはおまえその格好とりけせよと強く言えるかどうかの強さのことではなくて、解決した結果えられるものがほしいその出発点のことではないでしょうか。
相手を殴るための理由のことを問題だというのならクロスワードパズルを丸めて金剛杖の強度にまで押し固めればいいだけだと思います。それは握力だけがあれば十分できそうです。
大きな声や大きな体格から繰り出す殴打で意見に対抗すれば問題は解決に一気にたどり着きます。外見的特徴がダメだという理由が現状に即しそういう例があり予測される結果があるため、ではない場合はそれと同じという感想です。なぐって解決、それはダメだといって解決は同じに感じるのです。
そのため、この問題について議論するのであれば、容姿の変遷や文化歴史、現状の分析と傾向を知ってる必要があり、逆算では望みの結果についてのみの歴史と用例に傾倒する可能性があるためいまから集めるのではなくすでにその知を得ている人に協力を必要としたいところです。


表現の手法についても、商品についても、いまひとつの結果として自分が不快なものを、どうしてそうなのかいかに歴史と事例を紐づけてもそれはただの自己紹介にしかなりません。自分の歩んできた歴史はこうだという鏡像をより鮮明に浮き出させるために照明としてその商品や表現、対象を選んだにすぎないとだけに見えてしまいます。

 


ここで例としてあげた問題は、表現された商品を消費する側も、しない側も、かなり近い生活圏で相互に干渉しない生活様式を確立するために必要な措置を求めていて、そのための問題を定義しようとしているところを用いました。
よくお互いの存在そのものが悪とかいう知らないことは知らないままで知る労力も惜しいし専門家に依頼するコストも払いたくないので直接暴力で破壊しようというようなことです。
なんとなくという握力でもって、ポリコレという道に落ちている金属製の棒で、相手を直接殴れば、その商品や機会をつぶせるだろうということです。


問題を相互から取り除いて、接触をしないようにすることで、死人が出ずにすみます。それぞれの住処という理論を隔たりをもってすみわけ、その領土を突破しようとするものについては、理論と歴史でできた鋼鉄製の銃弾を教育や環境といった機械的な台座から射出して越境者をゆるしませんよというゾーニングの協定が、議論という構造にあるべきだとよいなと思うのです。

 

そういう意味で「論点整理」とか「問題点の再認識」などのタイトルで観測点からの逆算理想でできた「事実」の情報群は、その多くが自己紹介となろう小説にみえてしまいます。
それがいいとか悪いとかではないです。面白いとか面白くないとか、価値があるとかないとかでもないです。自己表現のひとつなのですから、私も同様にここで自己表現をしているにすぎません。

 


ただひとつ、

「問題がある、解決すべき、これはこの方向にするのはいたってほしくない結果がそこにあるから」

ということについて。

読者をあおったりその特定の観測情報を第三者情報として据え置き視野をせばめ、読者が直接的に利益を得られる方向にだけ向かせようと誘導するようなことを議論といったり論点性をしたりするのは、問題があると思います。
煽って方向性を出すのは、問題がある、その行動の先には、いつか白黒つける必要が出てくる予想が、私にはあります、ということです。