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親ガチャなどない

 

ガチャという抽選方式を様々な運命になぞらえてガチャと称して不平等を訴える表現が流行っていますが、親ガチャ子ガチャ何々ガチャなどありません。
そもそもにガチャというのは取引をする両者が固定的にあり、取引内容が不確定で当該関係者以外の決定権を採用することがガチャと呼ばれるものでしょう。
親があり子があり、そこでガチャがあるならば取引両者の間に用意された選択肢のなかから無作為抽出にしたというだけという様子の事でしょう。
ソシャゲの、プレイヤー本人に直接影響する選択肢を選択肢がある状態から無作為抽出するという射幸心を煽る販売方法のガチャというのが浸透した結果、現在の表現方法になっているところもあるかと思います。
選択肢がいくつかあるというのはガチャではなくてただの予想で、その選択を目に見える形にするということがガチャという儀式なだけであって実質選択ができたかもしれないという過去を形成するだけのものといえるでしょう。

 

そこであらためて、人の生まれで運命に大きく差がある状態の不均衡、不条理や不満などについて考えてみると、たしかに比較ができると不満も不平等も感じますが、それは比較ができるというか、比較することができるものだと錯覚できることが人間の特徴でもあり幸福を作り出すことができ、また不幸になるものでもあるのかもしれません。
いい産まれがうらやましい、悪い産まれで不幸だ、という感想を持つのはもちろん他の方の人生を知る機会があるという情報化社会の高度な進化によるものでもあるでしょう。
知らなければそこで精一杯に頑張ってそこからつぎの生まれが成功である、羨まれるものであるとなる可能性もあります。
自分がそこにいなければ意味がない、自分以外のものが自分の選択肢の先にある、という本来入らない情報が入ってくるところもそれかもしれません。
人は知りすぎているのかもしれません。
出来ない事を知りすぎているのかもしれません。
それは夢があることで可能性で空想による楽しみかもしれませんが、同時に毒かもしれません。

 

自分が自分でない状態になる、自分に自分にはないものが備わる、その儀式についていろいろな表現があり転生ものというのが流行したところもあるかと思います。
要するに宝くじがあたったらなにがしたいシリーズのようなものだと思います。
自分ならそれをよりよく、大胆に、奇想天外に、使用する側も利用される側も両者良好な関係で可能性を現実へと選択していけるだろうという空想でしょう。

 

現実にもそれは可能で、過去の事例を多く知ることでその先を予測し準備し、選択し対応するということができます。
これはただ学習をするというだけで出来るもので、義務教育という形で日本ではだれしも選択できる「選択肢物語」のそれです。
インフラとしてもう転生もののベースは出来ているということになるのではないでしょうか。

 

人生みなそれぞれ個人むけのそれぞれにカスタマイズされた完全に別個なものなので、同じスタートラインなら、同じ行程を経れば、これをこなせばという事からの結果は一致しません。
一致しないことが先にわかっているので、それを事例に期待をさせるわけにもいきません。
しかし、学習をより多くしより多く使えばそれらができる可能性は非常に大きくなります。なりますが保証することはできません。あくまで当人個人のものです。
その選択肢の広さと外部の影響の小ささこそが自由というものそのものだと思いますが、その自由の広さに「一体自分にはなにができるのか」と空虚になることもあるかと思います。
むしろ強い力やそれゆえの任務、義務、それこそ運命のような強制力に選択肢を奪われ、自分が意思決定せずとも降りかかる義務を機械的にこなせば報酬が得られることを望んでいるのかもしれません。

あまりに多く広い自由に戸惑うあまり拘束され強制され固定的に任務を押し付けられることのほうがよりよいという感覚があるのだとすれば、自由というものそのものが溢れてその自由そのものが規則や拘束となり自由を形作るための不自由になっているような構造に見えます。

 

誰かになれたら、というのは、実質なれるわけがないことはその運命を呪う強度でわかるでしょう。できないからこそ恨めしく思うわけですから。
しかし、自分の気分として何者かになりきるということはできます。これはコスプレやなりきり、外見と内面の違いの許容が非常に大きくなっている現在、といってもおそらく日本だけ特有にそれが広く許容されているところだと思います。
禁忌とされる装いなどが特にないという風土はほかになかなかないのではないでしょうか。してはいけないポーズや格好、多民族多文化の入り混じるところではさらに禁忌は多くあるでしょう。
治安にしろ嗜好にしろ自由の幅があまりに広く、ついに運命にまで自由をもとめようとしているところなのかもしれません。

 

ガチャの構図でいうならば、我々がガチャの景品であって回される側でしょう。神さまなるものか運命をあやつるものか何かしらにガチャとしてセットされ、その運命をもてあそぶ何かに抽選で引かれるわけです。
詰め込まれた隣がうらやましいとか、飛び出た人がうらやましいとか、周りを見渡して優劣を思考したりできる視野と自由があるわけです。
自由も教育もない所ではみな平等にふりそそいでいるその運命について知ることもできず、比較することもできていないのではないでしょうか。

 

何々できていたらよかった、何々だったらよかった、何々になりたい、というあり得ない選択肢で入手が不可能だとわかりきっている選択肢についてその先を考えることはまったくもって完全に無駄だといえるでしょう。
ない物があったらどうなるか、というのは完全に無駄です。
しかし娯楽や趣味など、不健康な食べ物や嗜好品や堕落した行動や無責任な解放感などが楽しく精神を健全に保つのに役立つこともあります。
毒も量次第で薬にもなるでしょう。

 


状況はそれぞれに多く各個人に一つずつあります。それが良いかどうかの比較は自分自身を基軸としたものです。
世界で一番の資産を保持したとしても、離婚をする夫婦がいるかもしれません。離婚していないうちはそれよりも幸福だといえるかもしれません。
世界で無敵を誇る能力を持つ人がいたとしても、争うことも強くあるために厳しい状況を潜り抜けなくてもよい人もいるかもしれません。
人が一人でないということは、それぞれがそれぞれを担うために分化しているのでしょう。
また人が一人でないということは、それぞれがそれぞれの状況において最適を求める事ができるということでしょう。
そして寿命があるということは、次がもっと望ましくあるようにと更新していけるということでしょう。


もし人が一人であったならば全てができるかもしれません。それこそ神のように。すると一人しかいない部屋に水槽があったら、ペットを飼っていたら、変化する何かをおいていたら。
手がたりるでしょうか。もてあましたものの損失に耐えられるでしょうか。可能性を感じつつもそれに取り組めず手を奪われることにストレスを感じたりしないでしょうか。
誰かがいてくれたら、と思ったりしないでしょうか。
自分の能力を半分にしたとしても、二人になったら手の数が倍になり、体や目が違う事を二つできたらありがたい、となるのではないでしょうか。


それぞれが他のことをしなくてもよいので、今自分がすべきことについてより多くの時間を使うことができ、その内容を高めていくことができるのではないでしょうか。
他の事のバランスとか、前後にとりもたないといけないことや、相対的にしていいことかどうかを考えることなく充分に専門の作業に専念できることはより大きく効率的だといえるでしょう。
もちろん他に専門を行っている人と領域を分かつ、衝突することもあるかと思います。喧嘩になったり協力をしたり協議の結果ゆずりあったりするかもしれません。
その交渉をする部分と、継続して専門的な活動をするものも、別れてそれぞれが別の人間ならば、一人でするより時間がかかるかもしれない、自分一人だったのなら自分を諫めるだけですむかもしれないけれども、人を分かつことで出来ること自体は増えさらにそれらを効率的にこなせるでしょう。


そして寿命がなれけば無限に老廃物や負の遺産を抱え込むことになります。
トラウマやごみや垢や不要なものもより大きく大量に抱え込みそれらを処理し、また抱え込むことに。
しかし成長を止めると、寿命の必要がなくなります。老廃物もなくこなすこともなくただあれば良いので変化をせずずっとあり続けること、それゆえに増える必要がありません。
生命にして成長も変化もないとはそれはもう生命と言えるかどうか、生命である必要があるのかどうかもわかりません。
しかしこれも現実には存在していて、同じ文化を広めず細く継承することでその形を保っている商業や文化もあります。
これを分化して常に成長させていけば、それぞれ末端に同じ遺伝子をもったものがこの世にのこり増えて成長するかもしれませんが、元のなにかは寿命をむかえ姿を変えるか消滅するでしょう。
分化し成長していくにはライフサイクルを自らの手で選択しなくてはなりません。しなかったとしても自然と綻びは迎えてしまうので、それに対応しなくてはなりません。
それをしたくなければ、成長せず広がりを抑える、という手もあります。


ガチャの景品として生まれてしまった我々には、それぞれにそれらの選択肢があります。
選択肢がないという状況においても選択し分化を行い成長しよりよい先へと進むべきとして生命があります。
もちろんそれがかなわなければ絶滅という形でその分枝はゴールを迎えることになります。

 

もはや自分の現在についてのコントロールを放棄し他人の存在を自分のものとするならばという疑似的な選択肢を楽しむのは自虐的というか自害に近い楽しみなのかもしれません。
転生するにはまずその主人公が死を迎えてから、という展開が王道となっているそれは、そんな状況を暗に含んでいるのかもしれません。
うまれてなにをすることもなくとも人として生きることを守られてしまうと、むしろ死に近づくような事を体験したいと望むのかもしれません。
ゴールを迎えてしまった分枝の夢なのかもしれません。

 


それも含めて生きるべき価値や命とは、といったものはそれぞれ個人が脳で考えるよりも前から生命として準備され対応し選択され分化し、そこに生まれているものだと思います。
そこがあなたの先祖たちが縒り編んだ生命のゴールなら、夢をみながらおわるのも自然なのでしょう。
危険で厳しい環境で不満やつらさを感じながらも、命を紡ぎ次にさらによくなるべしとするのも生命の自然かもしれません。
絶望しかないので、それ以上進むことができなかった、そんな悲惨な運命も生命のチャレンジだと端的に言葉では足りませんが、選んだのはそこまで積み上げられた成長し学習し選択してきた命の行く末なのかもしれません。

 


日本という環境が非常に広い自由で豊かさがあり安全で分化に禁忌がなく、まさに絵にかいたような天国なのに成長があり分化があるため寿命がある。
そのためにもはや他の選択肢に生まれたいという産まれそのものを否定しえて拒否しえ、不可能であることが確実な他人の人生というものを欲しがるというのはもう生物としては末端のゴールの極地にいるのかもしれません。
人の定義したほかの人との交渉条件である資本をいくつため込んでもそれは交換不可能ですし、そんなものを大量にためこんだところでこなせるのは人ひとり分の人生以外にはなにもありません。
なにもなかったとしても、ほかの人生をうらやみ生まれたことを否定してやる気もなく、成長も変化もなく時間をすごすことができる人というのは、実質的に永遠の命を生きているに等しいのかもしれません。

 

斯様に進化した日本にいることは、その天国にいることにまさに等しいと感じる事が多くありがたく、幸福にして、私もその幸福を見渡せる豊かな環境に不幸を感じてしまうその一つにガチャがあるかなと思います。

そのガチャという言葉、キンキンに冷えた熱湯のような、やわらかいダイアモンドのような、空飛ぶクジラのような、言葉では作れてしまう国語としても科学的にも現実にも存在せずおかしな異常なありえない空想を、現実にあてがい機能させることは、高く売りつける嗜好品としては成功しているのだろうとは思いますが、あまりに醜く残酷なことかと思います。