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AだからB、という事とその反対と

AだからB、という言い方は、する。
そういう方針を持っているのだからそうしていると言及することはある。
話している相手の数が多い時ほど、それに対して「BをAとするのは問題ではないか」と意見をいただく。

 

確かに言葉の上ではそうだ。言葉でいうなら言葉で完結させなければならない、かもしれない。
しかしそれは言葉、でという事について「のみ」なのか「だから」なのか「こそ」なのかは、私にはわからに。
わかっている人がそうしているのか、そうしているからわかっているのか、わかっているからそうなるのかは、私にはわからない。

 

いつもこう発言しては回避というか逃げにはなっているかと思うけれども「言葉ではなんとでもいえる」のを、私の哲理としてもっているということを念頭において会話を試みてほしい。
私と初対面の人が初めて言葉を聞いた時、私の発する言葉はなんて足りなくて稚拙で偏見に満ちているのだろうかと感じる事と思う。
それは私という方向性がこの目の向いている方向以外を向いておらず、その方向を排除して、一方的に話をしているのだから自然とそうなることはご理解いただきたい。

 

私はAさんを救いたい、ともし発言をしたらBさんは救わないのか、Cさんを救うといわないと一貫性にかけるのではないか、というか人数の問題ではないのではないか、そもそも救うとは独善的ではないか、といった意見はでてくると思う。
それは私という個性を除き生物として発言が可能なものが日本語を話したときの反応であってほしくて、私という個人においてはそれに能わないと理解がしてほしい。
私が私という個人であり一人の人間であり、手足も資金も限られた数しかもっていない事を理解したうえで、私という素材をどうつかうべきか考慮していただいた結果のうえで、お話をいただきたい。
私が私であるということを認めてほしい、私という欠損部分の多い人間と会話をするということをお許しいただきたい。

 

b.hatena.ne.jp

この記事についても、この唯一個人の方のとられた行動において、このかたが属しているであろう属性について、その感想をつけてのべた。
すると、おそらくその属性を全員そうだとみるのは差別だろう、そうでない人だって属性に含まれているはずだ、その配慮がたりない、とすぐに意見は出ると思う。
こちらもすぐに、そのご意見に「ではその属性に含まれていてそうでない、そして私が属性に対してある最初の発言で対象とした方にむけた発言で不利益を被った方について、差別であったと詫びたいので出してほしい」と言いたい。

屏風の虎である。その虎はベンガルトラでもフランクシナトラでもない、そこにいる屏風の虎である。種類も性質もなにもわからないが、眼前にいるのだ。それのことである。
どこかの虎でその虎はちがう属性でちがう行動をし違う結果を残す、その言葉で傷つく虎かもしれない、そんな虎がこの世のどこかにいるかもしれない、だから虎には失礼かもしれない。
しかしそれが眼前の虎なのか、どこかにいるはずで出会うことができるかもしれない虎について配慮した結果を眼前の虎にも施すべきなのか。

その世界の果ての虎にであったときに、その虎について思い描いた積年のそれをぶつけたらいいのではないか。
出会う準備を積み重ねることには問題はないと思う。いつかと期待することにも。
ただそれは眼前の虎にもすべきなのか、それは別として、世界の果ての虎にもまた別の結果を用意して問題があるのだろうか。

 

「ナイフを持っている人をみたら、通り魔と思え」と、私は発言することがあるかもしれない。
すると、「通り魔がナイフを持っているとは限らないし、ナイフをもっている人ならみんな通り魔だというと、そうじゃないナイフ所持者を差別しているのではないか」といわれるだろう。
ぶっちゃけ通り魔ではないかと用心するのは常でいて見知らぬ人全員でもかまわんのではないかと個人的には思いはするけれども、おそらくそれはごく私的な見解なので発言はしないと思う。
ただ仕事や緊急事態ややむを得ず、必要なときに、ナイフをもっている人もどこかにはいて、その人を指さし「通り魔だ!」というのはあまりに失礼ではないか、といわれたら、そうである可能性ももちろんある。
その複合的な事象を細分化して、ひとつずつちぐはぐなつなぎ方をするのは、よく考えてみてほしい。ほんとうにたちがわるいのではないか。
たとえば、キッチンんでナイフを握っている人、という局面で「通り魔だ!」と発言する根拠がない場合の狂気は充分に双方理解できていると思う。
その初めから完全にくるっている状況さえ取り込んで、という事自体が「完全に狂っている」のではないか。
では通り魔が出没するのはタンスの裏か押し入れか天井裏か、吊り橋の上かビルの中かと言われたら「あかりの少ないうらどおり」であろうと想像するのは平均的なのではないかと思う。
もちろん可能性はゼロではないし言葉ではどれも当てはまるだろう。
その言葉で構築可能な一番可能性の低い大当たりを目指してあてに来るのは、本当にタチがわるいのではないか。
当たりは、こちらにある。意図した発言の内容があるのだ。
それを、相手の正解にすり合わせ、相手の正解を優先してこちらの用意した正解を破棄するのは、会話といえるのだろうか。
その侵食行為は、コミュニケーションなのだろうか。

 

たしかに、Aさんは○○レベルのBとしては普通なのでは、と発言すると、Bの普通は〇〇レベルと決めつけるのは差別ではないかと、いわれる。
そうではないのだ。私はAさんの話をしているのだ。どこかのだれかのそういう属性の特別な誰かを、いまいきなり召喚してはいないのだ。
Aさんの話をしているのだ。
「あー君」とか「僕ちょっといいかな」とか、「あんた、それ」と相手をさして呼称することもあるだろうとは思う。
そのたび「そういう呼び方は差別、にあたると感じる人もそれを別に方法に呼びなおせという人もいる」とは思うけれども、それを含んでなお、それ以外の方を対象として話している旨を理解してほしいとは思う。


都度世界の片隅にいるだれかに思いをはせて涙している人はいると思う。
まだ見ぬどこかのだれかかもしれない何かをイメージして、その人にあったときの準備を積み重ね続けている最中の人もいると思う。
実質、どこかのだれかの事を言うことでその人を傷つけてしまうかもしれない。
Aさんを具体的にさして会話をしたとしても、メタ的に同じことが言えるかもしれない、同じ方法で効果が出ることを想像できてしまうという人を傷つけることがあるかもしれない。

 

それを含めて、私が会話をする相手というのは壁だったり空だったり大地だったりしてそこにむけて大きな声で発声練習が如く会話を仕掛けているつもりなのではない。
敢えて言うなら空間に放ち文字として壁に跳ね返り自分で確認できる自分にむかって話をしているようなものなのだ。
ご理解いただきたいのは、私が世界のどこかの可能性を搾取したり削り取ったりしているように見えるかもしれないが、私は私の世界から発言は飛び出していると認識できないのだ。
その姿を見てしまって不快な人はいるかと思う、ぜひ断絶して見え無くしてもらって、平穏を保ってほしい。
私は世界のどこかにいるかもしれない有害なそれの一人なのだ。
私がどこかにいるかもしれないとおもって、出会う前からよくよく防御を堅めていてほしい。
もしか世界のはてのどこかで、言葉一つで不快にさせあなたに不利益をあたえるかもしれない誰かが存在していて、出会わないとも限らない、という想定をもっていてほしい。
私がすべての人に差別なく正しい表現で平等に発言するためには。