読まない。

書くだけで読まないブログ。

言葉狩りとは

いい響きである。漫画で忌避された職に就かされた人ですごい能力を無能な支配層に管理されてるけどなにかの契機で構造を転覆させそうだ。
そういう話ではないのだけれども、最近の「巷で人気の新発明的気付き」のそれは何なのだろう。


お母さんという呼称がダメ、お母さん奥さんと呼ばれるのが無理、旦那さんという呼称はハラスメント、気を付けてと声をかけるのは無責任、など。
ならば会話など必要ないだろうし歌詞のついた音楽など聞けないだろうし男女の性別がある人間が演技をする演劇映画テレビ番組はむしろ見てはいけないと啓蒙していくのだろうか。
俳優だって男性や女性がいる、そしてその中にはお母さんと呼ばれてしまう被ハラスメント人物がでてきている、そんなのを見るのは作り物だとしても耐えれるものなのだろうか。
電車にのれば男女の性別を明確にした服装の人間が多くいる、ストレスだろう。コンビニに入ると「いらっしゃいませ」などと声をかけている。いらっしゃってはいないのですがと問うべきか。
そんな自分が世界の中心だという天動説な感覚が社会の大きさを認識できる状態に知性に基礎情報が蓄えられた状態になっても必要なのだろうか。
たしかに地球が微動だにしておらず世界が回っているとも言えないことはないはず。相対的には。地球以外の星は公転していて自転もしているが地球は静止していると言ってもおかしくはないだろう。
自転している遠心力が働いていたりその影響がでているとしてもそれは外環境が回転しているので逆遠心力よろしく吸い寄せられる力が発生しているとでも計算すれば自転の遠心力のそれと同じではないか。
それは月から見ても火星からみても言えることだと思う。それぞれの視点からその視野でみればそれぞれに見え方は異なるだろう。
平等とはその全体の和から相対的な関係に合意点を求めるところだろう。太陽の周りを公転している星たちの太陽系というものがある。太陽が中心であるこのシステムは、宇宙の中心だろうか。
太陽がなにかを中心に公転していたら、彗星の飛来する周回軌道の大きさを含めて公転していたら。もしくは太陽系が公転していて超長距離の周回軌道はもう太陽系をかすらないのかもしれないとか。

 

芸能人が誤った認識で非常識にも信じていることをテレビで発言してしまったという話もあった。だからどうなのだろうか。

 


それをそう呼ぶことに問題を感じる、という事。そんなことはどうでもよくないか。そう、名前なんかはどうでもいい。
ではまずあなたを甲、そしてあなたを乙と呼びます。では甲は乙に何々を乙が何するのを甲は…と話すべきか。それを話したところでなにがどうなるのか。
そう呼ぶと人間性がかわったり人間の身体を構成する物質が変わったりするのだろうか。それはきっと変わるというのだろう。なにがといえば心が、ではないか。
言葉で心がうける影響がかわる、というのは確かにあるとおもう。その心が結果として行動にうつり行動が物理的に身体へ影響するというのは想像に難くない。
石といわれれば皮膚が石に、水と言えば体が液体に、そんな変化を及ぼしてしまう人種だとしたらそれは事前に告知が必要だろう。
わたしは水という言葉を聞くと液体になってしまうのですという注意がないところで知らない人が排水バルブをあけて水といってしまったら大事故だったのは「知らなかったでは済まされない」ことなのだろうか。


そんな空想じみた話ではない、男性を旦那と呼ぶのは、女性をお母さんと呼ぶのはおかしいというだけだ、という話かもしれない。
じゃあ男性が二人で親をしている家庭はどうなのだろうか。おとうさんとおとうさんがいいのか、旦那さんと、旦那さんがいいのか。僕は彼のパートナーです、伴侶ですというなら伴侶がいいのか。
では伴侶さん、伴侶さんは伴侶さんのどこに魅力を感じていますか、また伴侶さんは伴侶さんがそう思っていることを伴侶さんのどんなところで感じますか、と質問されたらどうなのか。
どちらが回答しても全く同じ回答なのでどちらかを区別する必要がない、というなら伴侶ですらなくもうチーム名みたいなもので呼称したほうが良いのではないか。


買い物をして「まいどあり」といわれたら「毎度はきていない、誰と錯覚しているのか」と個人を他人と見誤られたことについてその見誤った対象が自分に似ていることは蔑称ではないか、差別ではないか、対応が不十分ではないかと本社に電話したり警察に電話したりするのだろうか。


事例をいくつあげても仕方がないのだけれども、こういう構造は階層わけにして事象ごとの間に取り扱いの種類を明示する必要があるのではないか。
そういいたい、いわれたい事があるのならばそれはローカルで定義すればいい、それがグローバルで通じるのかという事である。


お母さんではなく配偶者の方、って呼ばれるべきだと私は思う、という人がそれを主張してもいいと思う。それでは呼ばされる側は「お客様がそう呼べと言ったので呼ばないといけない」理由は何だろうか。
今はまだ「呼び名を当然に」という所で止まっているからよいけれども、ファミリーレストランの順番待ちの名前に好きな名前を書く感覚でそれをされてもこまる。

 

プログラミングの話で、もう古い話なのかもしれないけれどもオブジェクト指向というものが流行った。モジュールで動作を完結させてやり取りを全体で共通の形でさせることで機能の入替やメンテナンス、追加や拡張などしやすくする方法だ。
全部が全体で宣言されていた時代からオブジェクト指向に移るのは当然の事なのかもしれない。しかし言葉狩りというのは「全てのローカル変数をグローバルで宣言しよう」という事のまさしくそれではないだろうか。


狩っているといえば減らせていってしまっているので絶滅が危惧されるようなものを想像するかもしれないが、実際の狩りは相手を動けなくさせて動けないが故に自然などの環境がそれを死に至らしめるというものである。
言葉の狩りはその逆である。定義を増やし対象を増やし例を増やすことで増え切ったそれらが一か所にあつまると酸素が足りずに死滅してしまうような印象を受ける。


全体的な社会としての基板、基礎知識や義務教育で得られる共通認識があって、その上で社会的に分類されるものへの対応があり、その上に男女の性別の区別があり、さらにいうなら家庭内での認識があるだろう。
我が家のルールでは罰金だという事を他者間、地域間、国家の中では有効にしてもよいものだろうか。


自由というものの認識についてもそうなのだけど、極大な視野からみたその形容と個人が示す形容は違うものである可能性が、その包括する対象の数で変わるのではないか。
たとえば100人いたところに黒か白かと尋ねたら、異なるの答えが返ってくる可能は100ほどあるはずだ。しかし個人に白か黒かと聞いたら3:7になることがあるだろうか。
100の対象についても、その1ずつは100の分岐を内包しているわけではない。100あったとしてもその口が代表として一つだけどちらかを答えるはずだ。
それが個人でも100のグラデーションを持つべきだとなるとどうなるのか。365日の1年のうち10日は男性で15日は女性、30日は母親で25日は父親、となるのだろうか。
その権利が人間にはある、と無いということを否定すればたしかにあるとなるかもしれないけれども、それは無しとすることに問題があるのだろうか。
法律に悪人を裁く規定があるから、法律には善人は裁かないということが明記されているのだろうか。

 

見た目男性は男性の呼称、女性は女性の呼称でベースラインを決めて、個別に読んでほしい時は読んでほしい旨を明らかにする方法が必要なわけで、俺の名前をいってみろ方式ではその選択を強いる事自体がハラスメントなのではと思われる。
ハラスメントを受ける要因となる特徴について逆に特徴について偏差のある発言をされたものを「差別」とか「無理解」と断罪するのは「それを知らないものを何らかの弱者として区別する差別」のそれではないだろうか。
なぜ先手で受け身を取ると勝ちが確定しマウントがとれるのか。この状態に異常だと気が付かない程度にはまだそれらの議題は未成熟なのだろうとは思う。
ならば未成熟であるそれを実用に持ち込む意義は、そんなに実質効果を性急にする必要があるのだろうか。
自分は日本人なのでジャパニーズと呼ばれるのは不快だ。日本人と呼べ、というのはよりよいコミュニケーションなのだろうか。

 

自分が指定したルールに沿ってない相手を「ああ、○○なんだな」と思うことはそれこそ自由なはずである。それを公表して共感を得て同じ行動をとる人が増えることについてなんらかの意義があるのだろうか。
相手にまで届けば相手が反省してそれを直してくれるだろう、なんて事を考えているわけではないだろうことは、いずれめぐってその人が変化したことを確認する機会を儲けているのかと考えると、無いだろうと想像して思う。

世界がまわっている中で確固たる自分がいるという天動説に人気を集めたいだけのようにも見える。私がそう見えてしまうというだけで私の眼球の所有権を持っていない限りこれが違うという事はナンセンスである。


なぜ個人レベルでそのあり方について個人間で交渉しなくてはならないのか、それが有価ではないルール、お気持ち的なものなのに実際精神的にも時間的にも、機会的にも損失の可能性のあることに個人が対応しなくてはならないのか。
ご主人と呼ばれて不快、損害がある、としたらどれほどなのか、失ったものと補填されるべきものの金額を必要とする。しかし、呼ばせた方は呼ばされる事にもしストレスがあったら、それを組み入れる時間のロスがあったとしたら、その行動の取りようを評価され商機を失ったとしたら。
どちらが損害があり、その事について補填されるべきがあるかとかんがえると呼ばされる側ではないのだろうか。


財布を落として拾った人が「あのーすみません」と声を掛けると無意味に謝罪とか名前を呼んでいないとか唐突に声を掛けるときにはマイルールがありそれをしないと不快でハラスメントだとするなら、声のの掛けようがないと判断した財布を拾ってくれた人は呼び止めずそれを自分のものにしていいくらいの対価は必要なのではないか。
言い方がわるかったからキャンセルするという注文にはキャンセルフィーが必要なのではないだろうか。予約で旦那さんと呼ばれたからキャンセルすると言われたら、いったいなにがどう必要なのだろうか。

 


必要なのか基準と範囲なのではないかと考える。
芸能人が嘘情報を流すのも、名前の呼び方も、それはその範囲で有効なものと定義をする必要がある時代に来たのではないかと思う。
その背景として個人がかなりの広範囲に情報を発信できるようになったからである。
インターネットを使えば嫌いな男子というのはその場にいるその人ひとりだけなのであるはずなのだが、それを全世界全人類むけに発信するとなるとどうなるのか。
そんなのは個人の事だし個人間のことだ、という話なはずだがその情報に振れることができるのは全人類になってしまうとしたら、あなたがその人についての意見を述べるのには可能な限り局所的にすべきではないのだろうか。
なぜならその批判批評は、その共通点をもったほかの情報受信者にも当てはまるだろうからである。
「こいつ○○してきてうざい失礼、マジ勘弁」といったとしたら○○することがある人やせざるを得ない人、している人についても話しかけていることになる。発信しているからである。
当人にむかって、または近くのそれを言いたい相手にむけてではなく近くの別件にその声をあげて関節的に聞かせるなどして範囲を極小的にすることなく発しているのだから、聞いた人間はまるで隣にいる対象のように聞くだろう。
それがその「言われたら」である。奥さんっていっているのをみて「自分だ」と思ったら、それは相手の判断基準でそうしただけのことなはずである。呼んでほしい旨を伝えたり行動してもらうのも個人間である。
ネットで自分にリプライでその呼称を使われると不快であるとしても、相手側はあなたのことではないと言ってしまえばそうなるのではないだろうか。
この双方が等価のバランスであるはずの呼ぶ、呼ばれるの話がいまなぜ呼ばれるだけが強さをもっているのか、一重に稚拙だから、未成熟だからという話ではない気がする。

 

個人情報保護とは何だったのか。商品を購入する差異は機微ではないので名前で呼んでよいのか。番号にすべきではないのか。結局番号で呼び出す制度もその番号を翻訳する中間点を挟まなければ物理的に番号を渡す以外整合性のとりようもない。
こちらの事情に相手が合わせるべきであるならば、その事情を知らなくてはならない。なぜ地雷原を手ぶらで歩かせて踏み抜いたら罰を与えるとか正気だとは思えない。


呼び名とは何か、扱われとは何か、そうであると認められる必要があるならまず認めさせることが先なのではないか。
認められていないものを当然の権利だとして認められていることを前提に話をするのは、それは人権にだけについていえば成されるべきことなのか。

 

順序がおかしいし、あまりに個人的な事すぎて平均値がないし、平均値がありきであること自体が気に食わないということは教育基礎など根本的なことを変更する事を望んでいることになる。
その日本の全体の基礎を変更することにそんな個人の感覚が重要なのだろうか。他の多くの人の都合がよいことで自分が気に食わない事があったなら1個人が何十個人があつまっている対象を折るべきなのだろうか。
それが正しいから間違っているから、というのは何を基準として対価を準備し担保とした上でそれの意味と価値を成しているのか。

 


先般、裁判所が「著書にあることは真実だとして」という言及をして裁判結果を出していたという新聞記事もあった。
裁判で法的に「真実」が存在したと発言していたのかどうかが気になる。それが故意であるのか事故であるのか悪意の有無は発生要因はその当人の意識のみが振りわけるものだったのか、そういう「真実」があると、事象を裁判で人が肯定したのだろうか。
真実が人によって定義できるのだとしたら、嘘だった出来心だった正気を失っていた、などは意味を成さないし犯人というのは実行犯以外に出てくる。実際に人が殺人を犯すことになった真実が暴かれたとしたなら「その人が人を殺さざるを得なくなった状況をつくったのが本人ではない」場合、それをした人間も罪に問われるべきだろう。
その局面だけで当事者がその行動をとった原因を治療し更生するよう判断するのが裁判であって「真実を見抜いて判断する」事が仕事ではないはずだ。だれもが言葉にできていない真実もあるはずだし、知られていない関係者やそこにある「真実」も存在するはずだから。
あくまで聞きかじった状況とその場でみた原動と内容を鑑みて、あくまで人が人の認識範囲内で人知の範囲内で、その社会の内で用意されている手段にその対象を落とし込むことそれが「裁判」であるはずだと思われるが「真実」の話をしていたのだろうか。

 

人は知らないことがある、それに対して真摯に接すべきということはいまさらいう事でもないだろうし、いまはそういう時代ではないのかもしれない。それがもし変革しているこれが今現在のあるべきであるなら仕方がないし従うつもりではある。
時代背景などもみて、私はこれから活躍する世代ではないということに安堵と申し訳なさを感じるところではあるが、文化的にもこんな息苦しいものが逆に「感覚的に楽」だというなら、それはその現役世代の当事者がそうしていけばよいと思う。

 


思うに、その折衷案というか、個人的にあってほしいその文化も取り入れて旧来の考えも活かしてほしいという期待を取り入れてくれるのならばと考える案として、階層化と基準の作成である。
その呼び名などパーソナルデータの取り扱う範囲と、それを広範囲でやりとりする階層、そしてそれらを全域と、一部地域、一部状況に階層をわけていく。いわゆるオブジェクト指向である。
小さな個人間のやり取りというモジュールから外部に情報を出すときはその上位の基準に合わせる。その上位の基準は個別の状況に情報を送り対処するときはその個人間の定義に入れなおす。
それをさらに大きくしていって最終的には全体を包むようにする。グローバル変数が基準で、これをどこからでも利用できるように義務教育のようなインフラとする。
「旦那様、ご主人さま」がグローバルな基準ならまずそれを使うのは無料でオプションとして最低限あってもいいのではないか。その言葉がどうのというどこかわからないスコープの情報を得るのではなくその範囲内においての定義では「男性を示す最低限度の言葉」とするのだ。
最低限度、というのが抽象的で何の意味かわからないだろうから言葉としては「最低限度の敬意」となるのだろうけれども、その最低限度は直接の意味合いと繋がりをもたないが「必須として義務として学習され周知される教育制度からもたらされる常識、基礎知識」という基礎をなす思考を積み上げる際の定礎となる低さからの最低限度である。
その上で特殊な状態であることを認識してもらってそれに対する態度をとってほしい場合、それはすでにサービスとしてなりたっているはずである。ローカル変数と同じ方でローカル変数に固定値を入れるためには固定値の宣言が必要である。
固定値をどこに用意しておくのか、そのリソースはテーブルなどとして個別にコストをかけ発生させる必要がある。その棚を準備し自分専用に確保し使いたい時に使うのに支払いがなくていいわけがない。

 

夫婦別姓や主従関係の意味を勝手に考えたものや、そんな呼称の自由を味わうために人を使役するのはマナーや常識という言葉で値切って無償化すべきではない。
呼ぶ側の知って対応する行動をさせる事について少なくとも啓蒙する活動を及ばせたことを対価とでもすべきではないだろうか。


私は別姓になろうと呼称を厳密に区分けをすることも、有名人のつぶやきが広範囲に影響してしまうと評価されることも、別になんでもかまわない。
ただ人間地雷原として人に踏ませては倫理を説くという滑稽な啓蒙を続けてもらうのは、それをもしか目撃してしまったら不快になるであろう私個人からみて「当事者ではないがその付近で私に不快な行動をとらないでほしい、人権の名において」ともなるということだ。
不快にさせないでほしい、ただそれだけだ。それはその言葉を狩っている人たちが言っていることでもあるだろう。ではどちらの自由が上なのか優先度が高いのか価値があるのか、すべきなのか。


してほしくないことをしない、SNSで権利を主張すると相手がなにも煎ってこないので一方的になぐれると思うんです、だから殴りました、とされないのでしていいことと、それを勘違いしないことが必要なのではないだろうか。
あなたと同じ考えの人が、各個人ごとに複数意見を述べていくが、逆に反対側の意見もいくつもの同じような範囲にいる人間に差し向けてくるが「あなた自身」は一人しかいないので数百にたいして数百が矢を放ったとしてもあなたにささる矢が数百になる可能性だってあるのだ。

 

ネットリテラシーの教育とは、その発言の段階や階層、対象や範囲といったものを絞ることについて教育が進むべきだったり、価値観も多様性を大きくしていくにあたりその分類を明確にし対処を具体化していくことが必要だろう。
どんな意見でも一個人から世界に発信して、そこからトップダウンする形で末端の幾百幾千とある個別の個人に合っているか合っていないかそれぞれ別れる影響を与え、反発する側からその反発するエネルギー分反撃をくらってへこたれる必要がどこにあるのだろうか。
自分がなにげなくつぶやいた一言と同じ、ほかのだれかの何気なくつぶやいた一言が、砂の中から一粒だけピックアップされるように善意でも悪意でもかたまってくるのだ。

 

その無駄に全体がそのまま原液でダイレクトに無秩序に、無調整で流れてくることを自由として謳歌するまるで野生動物の世界か恐竜のいた時代のような倫理観で権利を語るのは、ひとまず休んで、世界の広さに単位をつけて区分し階層をわけ住処を探し、それらの繋がりは断絶にしないよう求められてほしい。
インターネットという全体が繋がる方法において階層わけや分類すみわけといった分断がよいわけではないが、現にインターネットを使ってプライベートな通信は成されている。同意のあるコミュニティや認識認知のある個どおしが繋がれる方法もあるしそれは広く戸口の開いたインターネットであるはずだ。

いまはうまくまとまらないが、この察して系の最強部類には、なんとかDX的な意味で人と論理的思考、行動様式に有用な検討と選択肢を与えてほしいと願うのだ。