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責任者を出そう

[B! COVID-19] 高 史明(TAKA, Fumiaki) on Twitter: "ワクチンについて「平等を優先させすぎて効率が損なわれるのは良くない」と言い出す→「不平等でも構わないから効率を上げよう」と言い出す→効率を上げるための仕方ない不平等というていで何故か政治家や財界人が優先して打ってもらえるようになる→むしろ彼らを優先するために効率性も犠牲になる"

 

だいたいのみんながそうなるから、こうなって、こうなるから、こうです、みたいな。
男性女性、貧困富裕、政治家一般人、有名人その他といったそれらがそこいらにいる、それで問題があったりなかったり、日常をすごしたり非日常に出会ったり。
それぞれの個人が個人ごとにチャンネルをもっていてみなで広げる円卓のようなインターネットに投げ込んだり引き入れたり、そんな活動の様子を宇宙からみたらバクテリアのそれとかわらないのではないでしょうか。

 

それぞれの意思を集約し大きな生物のように一つの動作にまとめ行動し原因を結果にまで押し上げるそんな構造が社会なのではないでしょうか。
役割の分担において不利益や問題が発生しないように、発生しても解決をよりよいところへ落ち着けるための仕組みがあるのが文明なのではないでしょうか。

 

誰かが言ったら、みんながこうするから、もしこうしたら、こうなるわけだから、とそんなものがわかりきっているなら無人化できるでしょう。
言われるということについて解決策を見出すことができるのは動物でも機械でも自然の流れでも無理、無理なものに手をくわえて都合を良くしてきたのは人間の歴史なのではないでしょうか。
なぜここで人間の歴史を紡がないのか。だって上から水を落とせば下におちるでしょう、下に落ちた水は上に上がることはない、だからできない、しない、それはただ状況を見たまま、習った言語で再生しているだけですよね。
水が上になんてあがらないから下がる量を制限して、また上に組み上げられる仕組みを作ろうといって作ってきた、無理を可能に変えてきたのではないですか。

 

大勢がそのみたままの自然を言葉にすることと、目についた文化や文明といった社会として人が作り上げたものをとりあえず傷つけ壊そうとすることが強さやかっこよさや賢さ利益とするような動きをするのはもうだれもが知っています。
良いことをしてよい結果に導けたとしても文句をいわれ責任を追及され英雄であることが半分とともに問題の原因であることも半分言われ続けることは目に見えていますし、だれもそんなことをしたくないのはわかります。
だれも好き好んで人のために尽くしてその人になんと罵倒されようともだまってその人の幸せのために尽くす、なんてこと愛する人にすら難しいのに赤の他人にしたいなんて思わないでしょう。
それをする役目があるんですけどだれか就かないですか、お給料は多めですよというのが政治をする人ですよね。良い顔する方法しか学んでいない人々がなかなかおいそれとなれる職ではないはずです。
それでいて、なっていて、誇りをもって職に就いているのなら、そのばかげた犠牲になる必要があるのではないでしょうか。

 

それをだれもしないことが恒常化し、それをしようとすると機能的に問題を解決し目的達成のための障害を排除したら軍隊みたい、戦争みたい、軍隊とか戦争とか日本の過ちでしてはいけない、と言われ、各個協力を要請したら個人の自由の名の下に集合しない。
無理やり整列させれば成立なんぞに意味があるのかと、無理やりはよくないのではと、整列しましたがはい次はまだなのか遅い不備と、なにも計画通りいかないことも予想は容易でしょう。

 

でもそれを相手にするのが政治に携わる他人のために行動する、そういう役職でありだれも押し付けておらずなりたいといったからなってもらっているまでのはず。
人気とりで良い顔するのは俳優やアイドルに任せておけばいい。彼らだって品評され投票され人気がでていろいろお願いはされている。
政治家がそれをする必要などないでしょう。嫌われて批判されて押し付けられても、その仕事を真っ当すべくとしてその役にまさになりたいと声をあげたはずではないですか。

 

責任者をおいたところで責任とりますってやめておわりじゃん、責任って具体的になに、とってるところみたことない、などもあるでしょう。
というかそれがあるのがおかしいのです。なぜ責任者が責任を追わずフェードアウトすることを望んで、それが責任だと言うのでしょうか。
責任とれ、というのと辞めろ、はセットになるべきではないでしょうし、責任をとって行動するような局面にならないために代表者に任命したのでしょう。
具体的なビジネスの戦略なんてものはこの時代にいくらでもあるので責任だの辞めるだのは例を出すまでもないかと思います。

 

葬式は生きてる人間のためにすること、墓標は生きてる人のためにあるもの、犠牲は生きてる人が生き残るためにされたこと、ここまでは近代でも一般にそういう考えがあると知られることとなっている。
責任とはなにかと聞かれたらやめること、はもう一歩先にすすんでもおかしくない時期ではないだろうか。やめる、とめる、きえる、しなくなる、はなれる、それで責任とは責任者が「問題のないときに得られる利益」を放棄するだけの話ではないか。
責任とは「問題発生していない時期を終了すること」なのか。それでは人身御供どころかひな人形よりも役割が軽いのではないか。
責任とはその文字そのもの、責めの任を受けることにあるのではないか。文句を言うのはだれか。それは生きてる人間でしょう。文句を聞くのはだれか、それは責任者でしょう。責任者が代理の人をたてこの人にいってくれと、責任をとってやめるのでもう言われても筋違いだと、それはもう責任ではないでしょう。
文句をいってくるのは当事者ではない声の大きな代理人、利益を横取りしたい無関係者、困窮している本人のごく一部、実際には声をあげられていない人にこそ手を差し伸べるべきであろうけれどもそれを覆い隠す量の迷惑行為。
それらの泥の沼に腰までつかって底の救済すべきをもくもくと救いあげる作業をすること、それが責任なのではないでしょうか。

 

もちろん作業的に責任者のとばっちりというべき作業を担う人員は必要だし、それらもあわせて責任の対象となることは確かだろうけれども、そのための期間も費用もあったはずだしあるはずなので、それらを整備することこそが責任者の職務であるべきだろうと思う。
そんなことは解っているだろうと思っていた、まさかそんな行動にでるとは予想だにしていなかった、という言い訳で責任をなかったものにしたり、行動する者にこそ責め苦を送るがだれも救済しない、そんな状況から脱する必要が、もうそろそろいいかげん必要なのではないだろうか。