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量とは数のこと

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どっちにしてもアクセスが多くなると負荷になるので自粛しましょうということなのでしょうか。
個人にまつわる言及をして批判というのもおかしな話ですが、どっちにしろ相手が不快になる可能性のある言及を数するとなににせよ困るということだと思います。
それは犯罪では、といった言葉を相手にかける時点でそれは批判ではないと思うのですが、仮にすべての好意的以外の声かけが迷惑であるという前提であるなら、アクセス総量を規制すべきなのではないでしょうか。
個人が多くのアクセスを集めることができるというのがインターネットの特徴で場所を選ばずアクセス数自体を収入にできるところに可能性を感じていたはずだと思っていたのですが、なんらかの形で規制することが平穏への道なのでしょうか。

 

分けることに意味がない、という事柄は実際あるにせよその場合には「それらを分け隔てる言葉がない」状態になることが必要です。
批判も誹謗中傷もわける必要がない、というのであれば「なんらかの情報発信が自分に向けられる」で一括にできるでしょう。
もちろんその一括のできる状態は、視野視覚としてその二つが区別がつかない距離または区別がつかない視力であること、仮にそれがどちらかであったとしてかかわりのない場所から、それらを視認した感想です。
一つ一つの言葉や発信者が違うという距離でみればすべてが個別で、離れて区別がつかない距離から見れば何事も瑣末な事柄です。
区別がつかなくなるほど離れれば、どんなものが積み重なった巨大な山でもひとつの山という一個の単位になるでしょう。


そういう意味でいえば、区別がなくなる距離まで離れれば山と堆積した批判か苦情か中傷なのかは区別がつかないですし数量的にも幾千万とあろうと「ひとつの」という単位としての認識で済むかもしれません。
その流れでいうなら「一通ずつを山積させないようにしよう」ではなく「離れる」という話になるのではないでしょうか。
ここまでの材料がでていてなぜ「個々の小さな一通ずつを発信することについて考えよう」になるのかが不思議です。そうなれば批判でも中傷でもない情報も「批判か中傷になるのでは」ということで感情のこもった情報の発信はしないでおくべきになるのではないでしょうか。
助けてほしい→苦しんでいる→苦しめているものがいる(対象に批判)→苦しめているものとされるものの詳細(中傷)SOSですら言い方によっては問題のある発言になるかもしれません。
発信者がそれぞれ全世界単位で平等性、友好性、各文化や生活環境、性別に対して問題のない発言であらんと日々学習して情勢に即した情報発信をすべき、そんなリテラシを要求されるのに仕事ではない、趣味であるとは奇怪な話ではないでしょうか。


好きな事をそれぞれ発信して、同調する個がそれぞれ、関わりたい部分までを共有したり露出したりし、互いの知的好奇心を満たすなどが一般人が情報発信するメリットでもあり楽しみではないでしょうか。
それらはすべて批判にも中傷にもなりえるので、まいにちほほえみだけを発信するフィルタでも装備しないと実現しそうにない気がします。

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毎日の情報は有料ニュースを見聞きすべき、リテラシについては考えるコミュニティに参加すべき、被害をうけたら相談するために会員になったり保険をかけたりすべき、と消耗を重ねることでなんらかの正義にある気がしてくるかもしれません。
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