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灰色の狼

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人狼ゲームの楽しさがわからないのでこの話題を延々と続ける意義を感じないのだけれども、小学校の同級生に熊とか狼とかみなに人権があるから平等にと入れられて問題なのは、各自の権利を安全を強制的にその位置に治める権力が、時に個人を完全排除する強制力を持つことを容認する事だろうと思うのだけれどもそういう管理社会を戦前の人権無視の軍国主義と嫌っていたのではないのだろうか。
例えば熊や狼が人としての知性があるとして人権を与えましょうということになったとして。
小学校に熊とか狼が同級生として通うことになりました。
人間なんて脆弱な種族はもう、毎日が恐怖ですよ。いつ噛みつかれ引っかかれ殺されるかわからんわけです。でも熊も狼も人なのでそんなことするはずはないですし、そうなったとしても身体的な特徴からであって差別すべきではないです。
それを実現するために必要なのはクラスに一人ずつマタギを配置するということですよね。人権を侵害しようとするような身体的特徴を発揮することになるとそれを殺してでも阻止するという安全保障のもとに平等という権利があるわけです。
平等だからなにしてもいいですしやったもの勝ち、それが自由という権利なのだというような権利を使用する側からだけの極小的な視野では、いきなり警察権力に攻撃され殺害されるのは権利の侵害と冒涜であるといいたくなるかもしれません。
しかし、その平等を保つためには不平等が発生するとそれを強制的に平等があるべき場から排除するから平等を保てているわけですね。
天国には悪魔や地獄が存在しないから、天国なわけで、もし天国にも地獄や悪魔がいたら…?それはただ単に「天国」じゃないだけで、だれがそれを天国だという評価を下しているのかということになります。
男であり女であり外面内面がそれぞれ男であり女であり、という世界がもしあったとしたら、それはただ単に「性別が意味をなしていない」世界ということになるのではないでしょうか。
じゃあ性別なんてどうでもいいじゃないですかと、そうはいかないのなら「性別が意味をなしていなくない」つまり性別に意味があるからどちらであるかをそれぞれ主張したいわけですよね。
そしてどちらの性別であるかを認知してもらいたいわけですよね。それはその性別を使った状況を使用する権利が欲しいわけですよね。だとすると性別に意味がないわけではないどころか、性別こそが世界みたいな事ですよね。
そんな性別徹底こだわりマニアさんの性別確定として男女どちらか、となるとその相対的に位置するものが欲しいものであったり権利として平等に一般的な性別からそれを自分の権利範囲の対象として認めてもらいたいわけですよね。
そうすると、男性だけれども時に女性としての権利や能力評価を得たいときがある、女性だけど男性としての欲求も女性の中にあっておかしくないので女性の権利や評価範囲内でそれを発揮してもいいのか、となるとそれを強制的に排除しなくては、性別の自由な偏在を認められなくなりますよね。
男性だと宣言した人は完全に男性だと扱う状態にし、それを男女関係なく問題行動した場合には問題行動に対する規定に徹底的に従う、個人の自由な意思などみとめないとしなければ権利の混在を認められ得ないですよね。
あの人は男性だけれども女性だし、女性なのでこれはしていいけれども、でも女性だって男性みたいなこんな面はある、そういう女性に対してまるで男性みたいな扱いをするのはどうか、なんて人狼ゲームで、それぞれがそれぞれの混在を視認できる範囲でそれぞれの判断に任せて、その局面的な表現を国語的に「いい話」としてRTしてもらったりいいねしてもらう事のレベルではないはずです。
そうでなければ、性犯罪なんて異質なジャンルの法律は存在しなくなります。

 


権利の発行側である共同体、団体管理者から個人は性別において完璧に区分された個包装のケースにきっちり入るべきでそれを越えたり違反すると強制的に排除されるという原理原則がなければ、混在し得なくなるはずです。
それを皆がもとめているのかという話になると、まだ乗り気ではない人も多くいるのであろうと思うわけです。


みんながそれぞれ自由であればいいのではないか、というならば、それは共同体の単位での取り決まりを個人が行えるということになります。男性である、女性であるという認定とそれぞれの権利について認めているのはその共同体の管理者であるからです。
男女以外にもたくさんの権利や区別や区分を管理していて、それぞれの違反について紛争を解決する定義が決まっています。
それぞれの個が相互関係においてそれらを解決しようとするならば、その範囲が共同体の最大範囲となるわけです。商店街の世界とか主従関係の世界とか、理不尽な暴力による支配範囲とか、あるわけです。
それぞれの共同体範囲でいいじゃない、というなら性別について問題の発生する局面に管理者を置いてそれぞれ独自にその問題についてどうするかを決めればよいことです。
違反者は撃ち殺すとか、放任するとか、それにあわせて利用者もかわるはずです。


小規模な局面での権利偏差の解消方法を個々にみとめたりしない法治国家なので、そういうわけにはいかないので男女痴漢し放題の公衆設備やだれにでも人権をあたえて混在させてもいい状況など認められていないわけです。
もし偏差を混在させたら、混在の域をこえたものは強制排除をするという強制力の強さこそが個々を分け隔てる垣根の強固さになるわけで、強い自我強い自己を確立するために必要なのはその外殻の社会的保障になるわけです。
そうでないなら、自己の強さを確立する隔壁の強さを自己で確立する必要があります。強いものこそが正義を唱えられる弱肉強食の世界なわけです。

 

皆が人狼ゲームに興じて性別を弄ぶような議論みたいなものは楽しいかもしれないですが、もし当事者として性別に悩んでいる人がいるとその様子はかなり迷惑な問題なのではないでしょうか。
自分が性別を口にする事が必要ということ自体をストレスに感じるような事にもなりかねないのではなないでしょうか。

 

性別をどうするかでだれが個人的にそれを価値として変換し得て、それを数値的に実態に反映できた時、だれがその偏差の個人利用について不快感のあった場合補償を要求し紛争を解決するのかという定義が共同体範囲内で強制的に行われるべき、とされなければ性別の混在について認められたという所には至らないと、私個人としては思います。
男性が男性特有の視野と視点で得た情報を男性が楽しめる、または女性が楽しめる情報として利益を得たり、個人的に消費したり、またその逆の場合にどこまでを性別の私的利用恣意的利用濫用として使用された本人へ補償をすべきと強制的な判断を、判断する側にはその具体的な数量は精神的なものなので測れないため強制的に規定に沿わせる必要がでてきます。
女性性を濫用し女性の特有な情報を両方の性別に公開し利益を得たということを、被害者が存在しない場合でも不快感や不利益の発生可能性を考えて罰を与える法的措置が必要になってくるかもしれません。その女性がどの時点からの女性でどういう女性なのかということを度外視しても。
わたしは遺伝子的に女性なのだから肉体も女性であり、女性が女性ならではの話題をするのは女性性を侵害していない、というのは、心身ともに生来男性で今も完全な男性だが女性であるという人の訴えのそれと同じ判断を強制されなければ、コミュニティ内において法による治安を守れなくなります。
そこで遺伝子的に違う性だからってその性であるということを否定するのか、という事に対する定義が成り立たないためそうならざるを得なくなります。

 


いまは人狼ゲームでだれが男性なのか、だれが女性なのかという、最終的に限定的な局面で性別が被害をだすところにいたってゲーム結果を表示する個々の世界が定義した哲理を強制する範囲でのみそれを話題としているからこそ性別も性差も、差別もまた楽しめているように思えます。
実際必要ならば性別についてより立ち入った強制、性別をどちらであるかと明確にすることと、また明確にされた性別においての行動の強制を、必要とはされていないと思います。
自由な行動は見聞きするたびにあいつは狼だ、人間だとさわいでみて、狼だったら殺すべきかと言われたらそれは法治国家としてゆるされないとか、ただ煽る人間が楽しいだけの状態ではないかと思います。


性別について実際に悩まれている方は組織し団体として共同体のあるべき形を模索しモデルケースを適用範囲の確認を行い、適合するならばその範囲を拡大していくなどの活動が必要なのではないかと思います。
そういう行動で種族が存続するためのシステムが性別であるはずだと思うので、新たに人間が性別を定義するというのならば、その新しい性別の生活環境を人間が自然界とは別に確立する必要があるのではないでしょうか。

 

まだどっちつかずのグレーゾーンで、自分もどちらかでいたいけれども、どちらかにもなりないかもしれないけど、どちらでもありたくない、そういう楽しみが楽しめる時代のうちなのかもしれないですけれども。