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ジェンダー論についてその出口のない迷走感

大雑把に男性女性、血液型、オタク理系と差別的な分類に当てはめると、男性はすぐ過去をさかのぼって事例から「同じではないか」でその当時の判断を再興しようとしたりします。
これになぞらえて歴史と事例を列挙すれば何か見つかるのではないかという状態のように見受けられるのですが、こんなもの事例をいくつ揚げても意味ないのではないでしょうか。
例は確かに判断材料や考察には必要だしそれを踏まえてこそ方向性を見出せると思いますが、それを対話形式でまず目の前にばらまいて、それをより分けよさすれば語るに資格をあたえんといった童話のようなお話では現実にはいかないのではないでしょうか。
童話はそれをこなすと神様が超常現象を起こしてくれますが、これまでにあった性の境界線やそれらにまつわる事象を全部把握し記憶したとしても出てくる答えは感想以上になりえるのでしょうか。

 

どの部分が、なにをするから、どのようであるかについてはもう人間の視認では判断つかないところもあります。遺伝子的に、生まれたときの、などどの時点を定義とするかといった工業生産的な判断基準も入り混じっていいるかと思います。
では結局性別はどうすべきか、究極でいえば、という事例としれもう性別などない、甲乙だのABだの、という話もありますがそれに名前を振っている時点でもう区別され差別の可能性を含んでいますよね。
差別をなくそうということは究極的にいうと区別をなくそうになるわけで、差のあるものを混合しよう融合しようということになりえる話なのではないでしょうか。
しかしどうあがいても融合もできず、どちらかによるという形で体を改造することで精神のバランスを取りたくぃ人もおり、現在の社会ではそういった改造も認められています。
過去には犯罪をしたものや特別な役職、人をどの場面で材料として使うかによって身体の一部を加工したりした歴史もあり人間が人間を使うという流れには人の不自由さゆえにその挑戦もあったかと思います。

 

人間が銀色の前進タイツを着て緑色で目が大きい生き物にならなければ性差などについては解消しないと思われます。
その物理的な限界ですが、どう扱え、どう扱うべきだ、どう行動させろ、させるべきだということを唱え続けてもそれその時々の判断にとどまる結果を得ることになるのではないでしょうか。

 

ここで歴史や文献を紐解いて2~3例あげていくのが筋なのでしょうが、それはその時々でうまくいった行ってなかったというだけのことなのでメタ化できる要素は少ないと思います。
事例に当てはめ、問うことによってその解答として1例といった枠にはめてメタであり気体のようなその包括的概念を一時的に実体化させることで具体手にその限定した対象を、固定化されたそれを攻撃し砕くことができるようになるためのじゃんけん合戦のようになっている気がします。

 

では究極の点として達するところをどこに設定すれば、それを目指しての論建てで技術を求めたり倫理を思考したりするようにできるかというと、やはり性別のない生体的な完全融合だと思いますがこれは現実的には不可能でしょう。
すると性別を司る機関なりを設置しそれらに属することで性別を表すということも思いつきますが、根本的な差別といった攻撃性の滅減を期待できるものではないと思います。
つまり人間が性別を超えるということを前提にするのは、実質不可能であるということを認めるべきではないでしょうか。

 

人間には性別がある、それはそれぞれの個体にある、その個体本体がもつ性別の社会におけるありかたと扱われ方があり、またその反対である社会やその他大勢が個人に対してその性別を主張していることについての理解や反応もあるということは避けがたいといえるのではないでしょうか。
それを避けよう、なくそう、平滑にしよう、というのは無理なものをずっと目指そうというのは、詐欺に近いことではないでしょうか。
人間に翼をあたえて空をはばたこう運動を主催したとして、生えるわけもないですし空を飛ぶことなのど不可能でしょう。その絶対に達成しえないと見込んだところに投資を促すような行為は詐欺に近いのではないでしょうか。

 

性別がなくならない、性別をいくらわけたところでその性別内でも段階のあるものを順番に差別化していくことが可能であるうちは結局事例をやまほど挙げている現状とおなじ、1件1件についてその個別をなぜかほかの前例と当てはめつつ、すべて個別の1対1で結びつく前提からの結果だけしか得られないのではないでしょうか。
でも実際性別があり差別があることのなにかが問題でその差のある別性別のほうにいきたい、性別を変えた、だから、なのに、問題を解消したのは自分の中だけで解消したのでその解消方法によって2重3重にこじれた現実との差を毎回全部個別に説明して、個々にちがう基準で承認しないといけないのは大変すぎではないでしょうか。

 

ということは、性別は人数分個別にバラバラ人口の数だけあると前提条件にすると、メタ化して包括的対応ができるようになるのではないでしょうか。公共の施設、個別の問題について、最初からすべてが個別の性だとすれば。
トイレの問題であればトイレに性別をなくす、トイレを利用する人間側が性別ごとの対策や準備、用意をしてトイレを利用する。自動車の駐車場がそのおおよその幅の枠線だけ引いて用意してあるように。
人体だからといって公の場共有の場にそれを晒し表現と称して自己満足を、性的な一致を個人の感想として享受しようとするのは他人の視覚や記憶、感覚や感情を濫用したコインハイブ問題ではないでしょうか。
そのような人がいるかいないかは別として、一般人が裸体になる場所をなくせばよい、市民プールのような状態や雑魚寝の大部屋みたいな扱いで全体を扱い、個別に必要のある着替えや個室の選択は個人ごとに選択することができればよいのではないでしょうか。
ほかパーソナルな用途のある行為やトイレほか現在性別で分離している設備利用については、設計的に出口と入口が同じにならないように、歩きぬけでどの性別も使えるようにするなど建築案としても多くの課題と新しい構想を試せる機会になるかもしれません。

 

無理をどちらかが通してどちらかが我慢しろ、権利の大きさが相対的に、とどちらが上にのるかという勝負はその上にたったものをまた叩くという循環でしかなりたたない理論と、それを裏付ける数々の事例を歴史から紐解く意味は、また次の争いで使うための戦力確保でしかないように思います。
解決を望んでいるのか、ポジションから叩けるものをたたいて利を得たい、集団化した同意見から会費を回収する団体を運営したいのか、何なのかわかりにくいと思います。

 

もし解決を考えているのなら、まず解決方法について考えてみませんか。