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バリアフリー

 


車椅子界隈、というのがあるのかどうかはわからないが、それが今話題になっているそう。

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車椅子にのっている人、というのは様々にいると思う。障害だったりそれ以外であったり。
バリアフリーではないので移動ができないまたは困難であるところに不自由があり、それを乗り越えられる人との差別が問題なところだろう。

 

車椅子利用者の側からみればまだまだこの世は不便があり差別的に扱われるので活動が必要だと見えるだろう。
その活動とは、人間社会に攻撃的であるべきなのか。
現在の人間社会は、特定の人に便利には出来ていないのでこれは不便であるということを攻撃して不快で特別に優遇されるべきという事例を示して気付かせる必要があるのだろうか。

 


これがお金のこととなると途端に平等になる。お金持ちは熱海に慰安旅行にいける。ホテルも自動車も都合できて仕事も休みに、必要なものを別途補完することができる。
しかし年収200万円の家族は泊りの旅行にいけない。これでは心が不健康になる。多くを経験し豊かな暮らしができない問題が発生する。
これをなぜ400万円ほど税金で補助して旅行など自由に行けるように、体験したいことを選択できるようにしてくれないのか。これは差別的ではないのか。

 

人間が五体満足であればだれでも年収1億円くらいは稼げる算段なのだろうか。
では年収200万円しか稼ぐことができない人間は10億円くらいのプロジェクトに参加できないのだろうか。参加して成功させることができないのだろうか。
実際にできないのでそうなってはいるはず。ならばそれは障害ではないのか。バリアではないのか。バリアフリーが必要なのではないか。
そうではないとなぜだか即いわれるでしょう。
では階段を自分の足であるいて降りることができない人は障害なのだろうか。年収20億円ほどあって自家用なんとかが整備してあるところで自家用なんとかで移動することができて、階段など必要なくしていて、階段をおりることができない人に、階段しかないのでここにエレベーターが必要だと訴えれば、エレベーターを設置してもらえうのではないだろうか。
なぜ家族旅行に行くことができない年収200万円の人が使えもしない駅について、行くことも見ることも一生ないだろう施設に資金を投入しなくてはならないのだろうか。
それはいつか、その家族が車椅子に乗るようなことになったら、といわれても、車椅子にのることになったとしてもとうていその駅につくことなどないとしてもだろうか。

 

お金持ちは自家用なんとかで車椅子であろうがなかろうが自由にバリアフリーに移動ができるそれぞれの手段を持っていて自分で自由にはつかうが、自分の資金で自分のために使っているだろう。
我々が福祉で目指すべき共助とはどこにあって、どんなものなのだろうか。

 

車椅子を利用されている方よりもはるかに低い年収で労働する方が、万が一のとき自身で抱えきれないほどの責任を負い世界の平等のためにその身をささげるべきなのだろうか。


具体的に、だれでもできることをだれでもできる方法で、お願いをするにあたってなにかしらのやりとりでお互いがどちらも負担にならないように行うことが社会に参画するものとして必要な行動であろうと思う。
無理をさせてできたんだから、それはできることだ、というのはすこし前に話題になった企業の労働体制について問題があったところと同じだろう。
無給で無休で労働したとしても、感謝があるのだから満足だろう、やる気があればそんなもの乗り越えられる、実際に乗り越えている人もいるのだから君もやりたまえ、というのは以前も良しとされていて、今回も良しとされることだろうか。

 

実質必要分を資金で調達するとすればいくらになるか、そのうちいくらの負担を自分でおこなうか、それ以外のどこからか用立てるか、または現金ではなく物資やサービスで協力してもらうか。
その計画を相談し交渉し取引の結果、相互に利益を発生させるべく行動するのが資本主義でありそれを包括する民主主義、法治国家のあるところなはず。


問題があり訴える必要があり、黙っていたのでは気付かれないので、爆破した。その爆破は、法的にどこがどうOKなのだろうか。
仮に違法とされなかったとして、行為者がOKだというのであれば、それはまた爆破されてもOKという認識があるから、爆破したのがOKといっているはず。
こんどは車椅子の利用者側に、利用者でない側から「配慮をしてほしい」と、おそらくそういう声もあがったりしたことはないか少ないか、気が付かれなかっただろうし、訴えている方もまたとはいっていないと見える。
すると、声をあげなければ気が付いてもらえない、攻撃的でなければいけない、同じ方法でお知らせすると、同じ方法でお知らせしてきれくれたのだから、気が付いてくれるはず、と交信手段としてはごく初歩的なことになるのではないか。
いきなり相手にしてくれないのは差別だから全力でぶん殴る、メディアを呼ぶしこれを記事にしてもらうし、同じ要求を通るまで繰り返す、これを同じくメディアではないが一般の人間が多く集まる所から同じセリフを浴びせかけられたら、どうなるか、それは同じ体験をしているのではないか。
その体験自体を誇りをもって「影響の大きさを体感できた。活動に意味があり前に進んだと感じる」としてもらわないのであれば、その行動したこと自体の意味も同じ意味をもつのではないか。

 

ただの迷惑行為を周りから受けている、のだとしたらおそらく自分がとった行動もただの迷惑行為としか見られていないのでは。そこに真の意味などあるのだとしたらそれを理解されていないのではないか。
説明を冷静にするべきではないのか。皆がそれで振り上げたこぶしを恥じてさげるくらいの事でなければ、納得できないのではないか。


なぜ、そんな説明をあきらめてしまうのか。感情的に、差別的に、自分が問題としていないから、そういうことをしてくる、だからもう答えない、それはまた同じ方法で対抗しているのではないか。
感情的になっているのはどちらなのか、差別的なのはどちらなのか、あなたが問題としていないことが向こう側にないといえるのか、その配慮を欠いていないのか。

 

結局どちらがということではなく、どちらもなのだと見える。
車椅子の利用者の方は、利用者でない人間は自分たちを抱えて移動するのは当たり前である、という思考はどこからきているのか。
車椅子を利用されている方は利用していない人間と全く同じ生活の環境にあって、なぜ自分たちだけ車椅子の生活というハンデに大きなコストを支払いっているのかを問題にしているのか。
車椅子を利用していない人間は車椅子を利用している人間よりはるかに低いコストで生活しているので、その差分はみかけた車椅子利用者くらいには還元しろというのなら、その差額を提示すべきだろう。

 

車椅子を利用していない人は、健康になんの問題もなく悩みもなく体力もあり責任もあり補償もできるという人ばかりなのだろうか。
ちゃんと対応できるという人が免許をとってお給料をもらって補佐する業務についているのは、なにか意味があるのだろうか。

 

どちらも大変だろうと思うし、全員が見た目上健康でもなにかしら問題をかかえ不自由を感じ不満をもっている。

 

 

私は日本はもっと組織や選挙や民主主義を知って利用すべきだと考える。

障害のある人、心や体に問題のある人、人よりできる人、できない人、したい人、したくない人、それぞれがいる。
それぞれが平等に数値化した評価をうけることができるのはお金だけである。それもそれぞれで差が発生し具体的にその基準がないものは差別といえなくもない。
実際の結果に運や潜在能力の確認や評価、業務の結果と収益の結果などどうしても数字に還元する際に抜け落ち人間の裁量になるところがある。
それを同等の人間二人をならべて差をつけたなら差別ともいえるだろう。能力差と感じたと評価基準に書けば差別ではないだろう。どちらでもありどちらでもない。

 

人間が社会を構築しお金をつかって物資や機会や気分を交換したり提供したりすることができるようになってかなり近代化もしてきて便利になった。
まだまだ暴力で押し切らないといけないところがある、とはいまの日本では無くしていっても問題はないはずだろう。
他の国ではわからない。市民において銃の使用が認められているところもある。なにかのために戦うというのなら銃を取り出すことになるのだろう。
内線の続く国や特定の人の層について人権のない国もある。不便はそれぞれにあるだろうし、それが社会を構築しているという時点でその場所での意見の衝突の解決方法が違うのだろう。

 

重ねて、日本はそんなに殴り合う必要があるのだろうか。
どちらの正義にも問題があるのは、殴り合っている時点でみてとれるだろう。どこがとか、何がとか、悪いのはむこうだとか、そういう意見もあるだろう。ある時点で殴り合っているし、問題だし、そんな正義で殴ると、むこうの正義も殴ってくるのは想像に難くない。

 


おそらく、年収200万円の家族は旅行にもいけず、それをゴネたところで誰にも届かずなんの解決もなく、ただあきらめるだけだろう。
だから、観光地の駅でブランドのバッグをもった人間に、金がないものにかねを出せと交渉にでると、そういう活動が必要なのだろうか。それはただの恐喝ではないのか。
業務についている人間ならばそれは問題にならない、というのだろうか。そのノリで駅員をなぐる人間なんてのもいるのではないのだろうか。言ってみれば同じ方法なのではないか。

 

どっちが悪い、という時点でどちらかが正義をもってどちらかの悪を叩くことになるだろう。
悪いと、いうべきところなのか。
不足していることが悪い、怠慢、補償を求めるべきなのだろうか。
そういうサービスだと書いてあるのに自分がうけられないから、自分の分も用意しろというのは、それはむかしのなにかの団体がやっていた暴力的な交渉ではないのか。


おそらく足りないところは双方にあるだろう。悪い所といえばそちら側にもありこちら側にもある。だからそれらをぶつけたら、対消滅するかといえば破片がまわりに倍の速度で散って激突して惨憺たる情況になるだけではないのか。

足りない、足りてないところに私はなにができる、なにかしてほしいのだができる人はいないか、できるならば、してくれるとこれを返す、この資本主義にあって経済的な基本摂理をもって、法治国家において交渉や契約をして進めていくことはできないのか。

 

その何かを勝ち取るために、いま暴力でなければならない必要があるのだとしたら、それをきちんと説明すべきだと私は思う。
説明することをあきらめたのなら、ただの殴り合いしか残らないかもしれない。
それを願うのなら、どんどん感情的になって殴っていけばいい、おそらく殴り返してくる人もいるだろう。いないとは思っていないでしょう。さすがに人は殴られたらだまって道を譲るのが大半だとは思っていないでしょう。
道を開けてもらうためには殴っていくのが一番、と思っていることはないと信じている。

冗談だから、これくらいは許容範囲でしょ、と殴るその手段はいわゆるいじめと同じだということも知っているだろう。


ただ、殴るという行動も自由の範疇ではあるはず。殴ったり壊したり叫んだりすることは想定のうちで、それをするとどういう対処をするかというのは法律にある。つまり予想された許容範囲なのだ。

しかし、その自由においてその行動をとるのは、あなたの達成したい目標に対して近づく作用をするものなのかどうか。
いまの騒動や問題になっているそれは、予定された計画の目的のために役割を果たしている者なのだろうか。

 

私は、バリアフリーは、いけないことだとも無駄なことだとも思っていない。必要だと思うしあればうれしいと思う。実際車椅子や身体の一部が不自由な人のための設備などはそうでない人も多く利用し恩恵をうけているだろう。
スロープであったりエレベーターであったり、そういう座席であったり道のつくりであったり、恩恵は多く受けている。
これらは税金の使い道としてだれもし納得がいくものだろう。

それ以外に気付いていなことがあるなら、まだ足りていない手段や方法があるなら、それを提案し取り入れていくのはなんら問題ではないはず。


意識や気持ちや意見が、気分が、というのは全く別の問題だろう。
どちら側も、同じ方法で反応を反すと、同じ結果になるだけだということを思い出してほしい。
違う方法で返すことはときに困難であったり、屈辱的であったり、感情として納得できないということはあるかもしれない。

いまのその問題はその刹那の気分を解消するために必要なことであって、その消耗材として使われるべきことなのか。
それともその問題を解決したり議論を進展させることで、金額にしていくら、時間にしていくら、人手についていくら、用意でき対策でき結果解決できることになるのか。


私は問題があるのなら解決できるほうがいいと思う。何についても。
その場の消耗材として感情をあげさげして話題にすることが日銭を稼ぐことなのであれば、ただの迷惑行為なのではないかとも思ってしまう。

 


とりあえず、どちら側も、いきなり殴りかかることはよしてほしい。疑問文を相手にすなおな気持ちからでたものをなげかけてみたという、それが殴るということではない、これは言葉だ、みたいなわかりきった暴力を隠さないでほしい。
言葉で暴力が行使できることはもう働きかたなどの問題から広く知られているはず。


解ってほしいときには、相手のことをわかろうとすべきだし、相手をわかろうとして思ったその言葉で相手に話しかけるべきだろう。
掛ける言葉というのは、掛けられる言葉の形にもなってくる。


あなたがいまかけられてつらいひどい言葉を暴力的にうけているのだとしたら、あなたの発した言葉はそれと等価で交換できる何かだったのかもしれないし、それにより交換されたものが到着したのかもしれない。