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人気読み切りまんがのアレ

 

 

人気読み切り漫画が発売されるそうだ。
すごい。
人気が出た端から売れるのだ。おそらく買われる。
先に公開していたものは無料だった。それでも売れる。
衝撃的な内容で多くの有名ブロガーがインフルーエンスすることでとても閲覧数があがった。
閲覧されたからといって商品として価値がないかといわれると、人間の記憶力がそんな程度のものではないところが商売になるわけで。
何度でも見るために買う。というか見ても同じ内容のものも複数買う。なぞである。なぞではないのだけど、そういう事で売れるというわけだ。
この後で回収という舵取りをすることができるのは、すごいと思う。
商売でいうと売掛をできるということだ。
信用があるか資本があるか、またはそのどちらかという土壌があってこそだろう。

 


そこでその人気漫画のなにがすごいかということを、私もいいたい。
細部にわたって、いろんな描写が、すごい。すごいらしい。
私にはわからないが。
私には、とりたててそこがすごいというところがすごいのかどうかがわからないのだが。
ダビンチの素描やピカソのデッサンをみて「写真のほうがリアルじゃない?」という感覚くらいではあるが凄さがわからない。

 

正直にいうと、数々の藤本タツキ氏の漫画のレビューにおける絶賛は「エロ漫画にも濃くて深いストーリーがある。エロだけじゃない。むしろエロはおまけ。」と言っている気がする。
凶悪な犯人が親友の命を奪い去った、こんな描写は史上初だろうか。
その必殺技的ストーリー展開は、人間の脳回路の判断基準としてどのあたりの神経を撫ぜるのだろうか。
私はエロと同じ部分ではないかと思うのだ。
本当にエロぬきでその漫画を買うのか絶賛するのかと、少し疑問に思うのだ。

 

たとえば、ネタバレなのか置き換えて同じだということがネタバレになるのかわからないが、言い換えると、問題の加害者が命を基軸にふたりをつないだものとされている。
主人公が二人いて、その二人をつないでいるのが命だという、命というものの立証に使うのが時間であるという展開だった。
これを、二人の繋がりを一人の憧れの先輩とか同級生への恋心として、その人がふりむいてくれたかくれなかったか、結婚したかどうかみたいな分岐にしても意義としては同じになったかもしれない。
これを異常な人間が、物理的に分離したという展開。
青年誌むけであれば、先輩が精神的に分断する話にもなったかもしれない。ことに噂になる芸能人の人間関係の話題などが時期的にあがっていればそれをモチーフにしたとして騒がれ注目されたかもしれない。
ただ、芸能人のファン層と漫画の読者層の間隔が近いとは思い難いところはあるので、批判を多くうけたいわけではない場合選択はしない味付けだと思われる。
エロでいくなら裸をのせる、そんなシーンなのだろうと思う。
べつにエロ漫画でも一切エロなしでも表現は可能なはずだ。それでも特定の刺激と話題性を引き出すために入れる。入れなくてもいいことがわかっている読者でさえもそこを期待する。
味付けとはそういうものなのだろう。

 

たしかに話題になったからという段階から商品にするという報酬を用意して、作家の自由なポテンシャルを展開できる場所を用意してあるというのは、プロ漫画家の副業、といっていいか本業の副産物というものなのか、それをいかせるサーキットを用意してあるということではないかと思う。
この仕組みはすごいと思う。

 

ただ藤本タツキ氏の漫画については、そんなに絶賛するほどの裸体(刺激的表現)だったかという気は、個人的にはする。
エロ以外にも重厚なストーリーがある、としてその手にもっているのは「エロ本」ではないかと気になる。
なぜわざわざエロという分野に重ねて置き換えるかというと、その話題の部分が「センシティブな話題にふれたから」ということだけしか理解していない人も、そのコマをみて出てくるのではないかと思う所もあるからだ。
裸になればみんな読者は目がハートになるのでしょう、という感覚だ。じゃあ裸にするためにはどういうストーリー展開が必要なのかという思考はなしにしても、ストーリーなどなくても裸は売れる。
事件の真実だの、真相だの、裏側だの、関係者だの、親族だの、遠縁だの、世情だの、時代だの、いくらでも関係させて関係ないことかいても、話題にはなる。
それが良いというわけでもそこが悪いというわけでもない。
味付けの仕方が、オムライスにハバネロを選択したというシェフの腕前の話だ。
少年誌に少女二人の情念のからみあいを、エロにするか、事件にするか、淡い思い出にするか、人の情けにするか、そういうシェフの腕前に刺激的な一味があったというわけだ。
オムライスにハバネロというか香辛料などありえない、子供がたべたらどうするのか、アレルギーの人への配慮は、人としてどうなのか、など意見もでるだろう。
もちろんオムライス好きがもうひとつ刺激がたりないと感じていたところにそれに出会うと、感動かもしれない。無限おかわりかもしれない。
かもしれない、ではわからない、けれども出してみて人気なので、みんな食べた後だから満腹の人にオムライスがうれるわけがない、とはいわずに販売を開始する。

 

端的にそういう仕組みであるという現在現状の現代に、現代らしさを感じて世代や文化に面白みを感じる。そういうものでもあるし、それだけの話でもある。

 

さまざまに細部にわたり解説や考察や参照をしている人もおおく、それで話題も多角的に多方面なので結果人のいる所に流れだし拡散された結果、消費する人数が比例して多くなったのは現実的に結果としてそうなのでもあるから、そうとしかいえない。
感じ方もさまざまで、もちろんそれを問題視する人間もいるだろう。
しかし、何が問題なのかを明確にできていない。それは何がいいかを明確にできていないからでもある。
それらが具体的なものになるのは来週かもしれないし、何千年も先の話かもしれない。そうやって知って覚えて伝えて考えて、人はいつか答えをみつけるかもしれない。
答えのみつかっていない事などやまほどあって、それこそ知っている事のほうが知らないけれども目の前で起きている事の数と比べると驚異的に少ないかもしれない。

 

私には氏の作品はそう見えた。私の目と脳がそう見たのだから私にとっては真実だ。私の真実をもっているだれかがいるのなら、その人の意見が違うのなら違うのだろう。
しかし私が私一人しかいないのならば、それは真実だといわせてもらう。偽物だという証明が私からもたらされない限りは真実であるだろう。
その真実は人の数だけそれぞれにあるはず。他人がそれを触れることなどできないのは言わずもがなである。
わかっていてそうなのか、もしかしたら手が届くかもと思っているのか、本人の手でそれを移動させようと干渉を試みているのかわからないが、他人の心を批判しようとする人もいる。
それができたら争いなど起きないだろう。
ガラスのむこうのコインの山には触れることができないから、手がとどかないから、台をたたくのだ。
より強い叩きや言葉、態度などは、その無力さの分だけ強く大きくなるだろう。その形容表現は昔からあり、多くあり、みんなもよく知っているだろう。
もとより人は以前からそうだったというなによりの証拠であるし、人はそうなるべくしてなっており、これからもそうなのだということだ。

 

いずれもふくめて、人のありようとはかくも日々を楽しくさせるものである。