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いじめやリンチのいけないについて

 

 

社会的な制裁や私刑やネットリンチや、ほかにもいじめや差別はよくないのか。
本当にそれらはよくないことなのか。

 

よくはないだろう。良い面と悪い面はもちろんあるだろう。陰陽あいまってなんとやらみたいなもので、毒だって使い方では有用だけどそれを毒だとしかいわない物だってある。
いじめはいいことなんかないだろ、と言うのもわかる。たしかによくない。じゃあなぜその良くない事をする人間がいるのか。
良くない事をわざわざする人はどんな人なのか。人がしない事をわざわざしてくれる人なのか。その人の貢献や献身は、一体何の意味があるのか。
よくない、で思考停止しては、いじめをする人はいい人だ、ともなりかねないのではないでしょうか。

 

いじめの良い部分をさらけ出してみよう。たのしい、快感、愉悦を感じてストレスを軽減できる。社会的にかかってくるストレスでつぶされないための健康法である。
だからするのだろう。タバコも酒も、毒をすってつらい目に遭って病気になってお金もかかって死んでいく。ただつらいだけの事をなぜするのか。気持ちがいいからだろう。
気持ちがいい事は悪い事か。そうなるとイジメられる側や虐げられる側が気持ちいい事がぜんぜんないのは、良い事なのだろうか。つらい目に合わせるという事がいいことになってしまわないか。

 

一方向だけで接続するとそんなところだろう。もちろんそんなことは紀元前3000年ごろにはもう考えられていてずっと同じ説明を前提として、陰陽だの光と影だと一対だのと言われては来た。
使いどころだろう。
有名な学者の論や本や学会の成果や論文で、通説や実例や実験結果や科学的な反応でそれらは言われているとか存在するとか認識されているとかはあるだろう。
そんなものは並べてもアマゾンアフィリエイトにしかならない。それらで防げるのは銃弾と刃物だけだ。
実際にもう5000年間、人間はその構造を変化させることに成功していない。いじめられっ子はいじめられ、いじめっ子はいじめる。社会的制裁は行われリンチも行われる。
じゃあこれを何々理論として、人の未来を憂うとしたらどうなるのか。どうにもならない。ただ食い扶持の日銭になるだけだ。

 

人はいけない事をおこなうし間違いもするし失敗もする。出来心もできてしまうし勘違いから過剰な行動もする。それはみんなするのだ。
暴力的な心理状況を起こすことがある人物は、どういう環境やどういった過去でつくられどんな状況でそれを加熱させ実際に行動に起こすのはどんなところだ、とわかっていたならその結果までの経緯を満たしている人間を「処罰」すればいい。
そうすれば減るだろう。
しかしそれでは減らないしなおさら増えたりもする。なぜだろうか。

 

いじめは、いい。ストレスの解消になるから。
この「ストレス」を社会生活でその規範に完全に則って失敗すれば制裁されるとしたら、育んでいないか。
いじめを発生させる原因のストレスを規律によって発生させることで防ぎたかったはずのいじめが増えるのではないか。
では自由にしよう。
自由にするとなにをしていいかわからず、かといってわからないことに踏み出すストレスにも耐えられない。
最も手軽で自分が実行でき、かつ楽しい事。それは力関係だろう。
暴力を抜きにしても順位をつけたり得意を披露したりほめられたり、順位をつけたり。その順位はどうつけるのか。
負けようがない勝ちだと物理的に見えて確実なもの、それは相手が負けましたという事だろう。
毎日、負けましたと言わせる、ふつうにこれがいじめではないか。
自由にしすぎるのも、結果自由というストレスから発散先を探してしまうのではないか。

 

いけないことはいけない、もちろん悪いことは悪い。いいことをしてほしい。いいことをすべきだ。
いい事をするのにはストレスがないのか。不安はないのか。出来たらたのしいうれしい満足感がある。達成感がある。やるべきだ。
だけれども、失敗したら責任を追及されたらしても意味が無かったら無駄だったら、そんな不安が行動を抑制するに充分に機能する。
できないストレス、したいストレス、ストレスだけがたまって結局方向性もなく爆発したいという意味のわからない情念だけが生まれるのではないか。
その方向性のないプラズマみたいな熱量は、さあ叩きましょうと先導されるとすぐ伝導率の高い経路をみつけた電子のように寄り集まり熱をもちそこでストレスを感じるとしてもなんとしても流れようとするのではないか。

 

ネットリンチはよくない。
よくないからダメだ。
ダメなものは禁止しよう。抑制しよう。しようとしたものしたもの、されるものを規制し隔離し安全を確保しよう。
もしもストレスがたまったら行ってくださいね。たまりきらないようにお話して、治療しましょう。
つらかったらいってくださいね。痛かったらいってくださいね。
大丈夫ですか?
そんな方法で大丈夫だろうか。いちばんいいのをくれといわなくても、そんな方法で大丈夫か、と気にならないだろうか。

 

ネットリンチや私刑やいじめはよくない。
よくなものは、どうしようか。
減らしたり、無くなるように努力してみてはどうか。それはいいんじゃないだろうか。
そのための手段はどんなものを取ろうか。

 

「ダメ」といえばいい。
そうだったろうか。
ダメとは言ってなかったか。ダメとして抑圧して圧力をかけ制裁をし批判をしたのではなかったろうか。
ではネットリンチや私刑をしている人たちは一体どんなことをしているのか。底意地のわるい仕組みをつくり人が陥れられるように誘導し構造を先に用意しておき迷い込ませ苦しめているのだろうか。
ふつうに真正面からダメという言葉を投げつけているだけなのがネットリンチで私刑ではないだろうか。集団でダメという言葉を投げつけるとうけるダメージやストレスとは何だったろうか。
同じ事をお互いにしているのではないか。
お互いに石を投げ合っていることが切磋琢磨で洗練というのなら、そこから生き残った人はきっとすごい倫理と理論の持ち主なのだろう。
一番たくさん石をなげて人をころした人から、理論と哲学を聞いてそれを倫理とすればいいのではないか。

 

そう考えると「ダメ」と否定することは、建設的だったろうか。
先の文章に入れていた「ネットリンチの否定を正面から投げる」ではない方法に例としてあげた、誘導や陥れはどうだろうか。

 

てっとりばやい毒でもいいからストレスを解消したい、そういう人間がでてくることはおそらくその5000年ほどの人間の歩みの中で文章にされたものや語り継がれたものなどに記されているのだろう。
どんな場所でどんなストレスが発生して人はそれをうけてどんな行動をしてしまうのか、さまざまに史実や理論があるのだろう。
そして、その人たちを否定しよう、となるとその否定としてせき止められ抑圧された熱量や勢いは、押し固めればかためるほど冷えて無抵抗に消えていくのだろうか。
歴史がそう示しているのだろうか。バカで幼稚でも、そういった感情を芽生えさせたりそう感じたりするのだろうし、そこから行動もするだろう。
それは賢くなると感じなくなるものだろうか。サラリーマンが定収入で重労働しているとき、これは社会貢献だと快感になるのだろうか。また、それを快感としていいのだろうか。
バカや幼稚、というのは直情的で参照情報が少ないものだと考えるが、そんな人ですら思考をめぐらせずふつうにストレスを感じる事、それはも原罪的な原始的なストレスではないのか。
ならばどこまで人間が高等になろうと、同じストレスは感じるはずで、それを感じない奴隷のようなサラリーマンはさらに高尚かといわれると、はたしてそうなのだろうか。

 

バカでも幼稚でも、ストレスを感じたら自然と放電できるしくみ、それこそが高等で高尚に進化した人間の英知の結晶で開発すべきものではないのだろうか。
「ダメ」として抑圧すること、それが人類の知の極みなのだろうか。

 

バカを逃がす避雷針、それはもちろんあっただろう。ロックやポップスで酷い最低な行為をして笑う人たち。クズでひどい話だが、だから規制して強制して社会的に合格点がとれるまで閉じ込めるか。
そこにバカがあつまるのではないか。そこに集めておけば、あふれ出ないのではないか。バカが単純に簡単に考えて、思考をめぐらせず直情的に反応するものごとを、もしそれらの目から隠したいときは、どこに置くべきか。
ロックで馬鹿で狂気の集団がクズども集まれとしている場所の反対、その裏側、そういったところに見られたくないものをおいてはどうか。
たとえば、500円玉が右手の中からきえたようにみせかけて実は自分の財布にいれたいとき、左手を雄弁に振るわせたりすると、右手のみられたくない行動は視線を免れないだろうか。

 

住み分けて、誘導して、それぞれのストレスがそれぞれに減るように、まざらないようにする。お互いに誘導しあい回避しあう。流れの中のものはいつかそれを違う方向にかえるかもしれない。
肯定する中に肯定されるべきものとして、それぞれを存在させて、お互いの存在をお互いであるという以上には認識しない。
ゾーニングとはそういうものではないか。
肯定しあうことで住み分け共存しお互いのストレスを増幅させずに安全に解消させる方法、それが区別ではないだろうか。

 

ただ、気が変わったので違う区別に入りたい、そうなる時期もあるだろう。
そんな時には自由が必要、それを認めて移動をさせるべきだろう、それこそが自由だろう、という意見もあると思う。それがはたして自由だろうか。
学校でそれぞれしたいことをしたいようにすればいい、するものの自由だとしたら、ストレスを感じないだろうか。
そのストレスを、結果、自由にどう解消すると考えられるだろうか。
混ざる側、混ぜられる側、それらはストレスを感じないだろうか。どの規模でみればいいのだろうか。
個人ではそれぞれに意見はあるだろう。聞かずとも否定的な意見がでてくるのは想像に難くない。

 

混ぜるとしたら混ざってもいい区分をさらに分類しゾーンをわける必要があるだろう。
なぜ混ざる権利を否定されるのか、否定はよくないと言っていなかったか。たしかに否定はよくはない。
しかしそもそもの衝突の原因を考えてほしい。異なりを受け入れられないから相対が発生し、相互に遮蔽するためにダメという板でせき止めるから、そこにあつまる勢いがストレスになり、問題を起こさせる。
異なる否定したいなにかの目的をそれぞれもっていて進むべき方向があった中に、それと同じだという要件を満たさないものを混ぜること、それこそが「ダメ」や否定ということそのものではないか。
ならば「ダメ」がいいのかわるいのか、ではなくダメと評されるそれがあるべき場所をつくるべきではないのか。

 

もしか性別の話ならば、性別の分だけ制度をつくるべきだろう。2派にわけるから右翼左翼みたいなことになる。年齢や時期的に変化する性の性別すらもあっていいかもしれない。
ただ、その性をえらぶのならば他の性ではないということを選択すべきだろう。男だが女だ、というのはストレスのもとであるということはその文字だけみても想像ができるだろう。

 

いかに分類をつくり住み分け、よりよい方向に整えるか、それは部屋の整理整頓とも同じだろう。
整った部屋と、整っていない部屋のそれぞれの特徴と有用な点と、問題点を考えれば組織体として望ましい運営の方法を、それぞれ個人が各々に独自なものを想像するのではないだろうか。
それらが解決方法の一つたちであろうと思う。
ダメなものを指さしてそれはダメだ、ダメというしっかりとした理論と根拠がある、といって突き刺す行為はもはやふつうに破壊的な行動と変わらないのではないかと思う。
破壊して解決をするのもいいだろうとは思う。
ただそれが、どういう行動や行為であるかは、当然わかっているだろうと思うので選択に際してもう掛ける言葉はないが、私がちがう種類だなと感じたら離れるべきだろうと思うし相容れなければ合わない所にいかねばと思う。

 

そういうことではないかと思う。