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そもそもにアートとか芸術とは何か 政治に絡むのがなぜ望ましくないか

アートは手段や手法の事。
手段が目的化した人をアーティストと言って問題ないかと思います。
いかに問題を解決するかではなく、いかに問題を解説するか、表現するかということについて悩むという従来では考えにくい思考形態であることを指します。
結果、伝達の要について効率的な手段を生み出すことになるので、道具を発明するために発明を行うという目標を目的と据えた、手段を目的化したものだと言えます。

 

ではその手段が、政治利用することされることについて問題視されるというのはどういう事でしょうか。
アートは、手段です。物事をどう見るか、どう見えるか、そういった意識に関して干渉してくるもの、するもの、しようとすることについて試行することです。
ものの価値が絶大、最高、最大、高価、最強だったらどうなのだろうか、最小、最低、無価値となった状態とは何なのか、それを見つけるのは、埋もれていたら、見つからなかったら。
見つけてしまったら、見つかった時、人々はどう反応し何を行動するのか、そういった意味のない試験から、有意義なものも出てくる可能性を否定できない行動がアートです。
これを前提とするから、無意味で無価値なものを無意味で無価値なまま展示したりするアートはありません。
また逆に、価値があるものをその価値のまま展示することもありません。
宝石や金塊を、宝石店や貴金属店のように展示して、入場料を取るアートはありません。
宝石店や貴金属店は入場料を取らないという「アート」がすでにあるのにあえてお金を取る「アート」をしてみたかった、ともし言うならばそれに何の結果があると思うのでしょうか。
企画者に入場料としてあつめた現金が入る以外に何の意味があるのでしょうか。普段見れないとても貴重なものが、「見れないもの」が「見れる」というアートであったのでしょうか。
そのへんにおちてる石展、という名で石を展示して入場料をとったり、真っ暗闇で自分たちが楽しい行為をしたら、自分たちはお金ももらえて楽しくなっていったいどんな化学反応がおきるのだろうか、などといったアートは
「アート:手段」は何であれ自分が楽しくなること皆にしてもらうことで、幸せになった自分へ投資してもらうことで楽しくなってほしい、アイドルがエンターテイメントをしているかのような話です。
アイドルが自分の容姿を価値として交換に出している変わりに、手段が面白いとして目的を隠したり意味をなさなかったり、実質被害だったりすることに及ぶのはすでに迷惑行為という名でその手段:アート、は分類されています。
絵画、音楽、造形、といったアートに犯罪、迷惑行為、というアートもあります。犯罪という芸術、ではありません。手段として講じることによって犯罪と判定されるものがあるというだけです。
手段として講じることによって絵画と呼ばれる塗り付け行為や、音を鳴らす事を音楽と呼ばれる手法もあるし、というだけの話です。
音楽とは音を鳴らすだけのことだ、この音だって私は好きだし、そういった観点からいえば音楽ともいえる、ということをまとめて一言にしたり、そういう状況を試験的に提示することもあるでしょう。
しかし、あからさまに身体に被害がでたり不快になる音を、自分は大丈夫だから、ほかの生き物は大丈夫だから、とある人種はそれを良いといっているからといって、人にむけて当てることがなんの試験的な価値もなくただ被害を生むことを試すのに芸術としてアートと呼ぶのはおかしいでしょう。
昔の映画で地上げ屋が大きな音で音楽を一晩中ながしたり、ブレーカーで床や柱をけずったりするものも、前衛的なアートだといえば、アートになるのでしょう。近隣住民を追い出す手法としての行動を確立する、という意味ではアートであることは間違いないでしょう。
それをアート=芸術、といえばおかしくなる話です。なのでなんでも転じてアートというものは芸術的というなにかしら迷惑という声があがってもそれを価値だの美的だの、権利だので対抗しうる価値があると、その価値を明確に測れない権威を盾に対抗しうるのでしょう。


とりあえずアートというものが、ただの手段であって、アートというものがアートオブムーブとして引っ越しする引っ越しさせる、アートオブリジェクトとして排除の方法なり、とアートが価値があって説明不十分でも権利となにかしらで迷惑だという声に対抗しうる、というわけではないことを一度思考してみていただきたい。
その芸術というなにかが、広く体験され、それを起因にさまざまな考えや行動が生まれたとして、どういう結果に向かうと期待されるのか。

 

その手段が、政治的な方向性をもつと、なぜ問題なのか。そのアートだから許して、許される、表現の自由として情報を流布することになにが問題なのか。
まず、手段というのはある価値観や視点からみて、ことなるところを観察したりたどり着こうとするものである。
二者間の橋渡しをする部分を手段という。その片方には、価値観があり、その先にも価値がある。なので向かおうとしたり、避けようとしたりする。
その価値というものを定義しているのは、何か。人の本能であったり渇望であったりするものだというのが、いわゆる芸術を称してアートと呼ばれるものの多くだろう。
愛だとか人生だとか性格だとか容姿だとか、そういったものに不満をもって改善を渇望したり、満足をもって表現という手法で共有したいと考えるでしょう。


それが、ほかの価値観ならばどうか。
たとえば通貨、貨幣。偽造貨幣が非常に重罪なことは周知であろうがなぜこれが人を殺すなどといった具体的に人間に対する最大の悪事であろうものに匹敵する罪となるのか。
それは、国が定義した価値を否定することになり、偽り損ねるものだからだ。国自体を否定するということは、国がその管轄におさめる人、国籍をもつすべての人の価値を否定することになる。
これは個人レベルの行動で測れる罪の重さではないだろう。これを偽ることで人の労働の評価、人の命の価値として仮ではあるか支払いの単位として計測される賠償金、税金として課されることになる社会的価値。
それらを偽り否定しだますことになるのは、国として許されるべきでも寛容になる部分がひとつでもあることではない。完全に悪という存在そのものに評価されるべきものだ。
お金を手段として使う事、それはいわゆるアートである。高いお金をはらってゴミを買う、高級品を安く買う、そういう手段を講じることもできるし、安い高いで行える行動の違いも試せる。


これを、否定する方向で手段を講じるということは、その価値を偽り破壊したりすることになる。これはそういう試験的な思考があってもいいかもしれない。
しかし、金銭がまったくなくなった世界、を思考するアート、という漫画や映画や文学や演劇、彫刻といったものであれば、アートとして触れることができる手段だろう。
だが、もしお金がなくなった世界を体験するアートとして偽札を持たされて町をあるいたら、これがアートにならないのは、他の通常の価値が存在している関係のない対象に被害を与え、試されるのは使用者の満足感だけだからである。
自分の満足のために他者が被害を被ることを許容できるのは碑実在までのエリア、ということで芸術は楽しまれているはずだ。
酒に酔って朝まで遊んで無免許で運転すると人はどうなるのか、そういう前衛的なアートで子供が轢き殺されたらどんな悲しみがおとずれるのか、その悲しみを皆に少しでもわかってもらいたいから轢いてみたアート。
それでも殺人ではなく道路交通法で処分されることに意義をとなえるため、実際に轢いたけど軽刑で平均よりよい暮らしをしてみるアート。
不謹慎極まりないと思うが、京アニ放火アート、みんなありではないか。そんなわけはない。していいことと悪いことはあるだろう。
その価値を破壊することになる手段を講じてみる、アートとして提示するということは、その破壊される中、爆破される中に自分の身をおくわけがないところに問題がある。
自爆だったらいいというわけではない。自爆もそうだが、その破壊される環境について被害者がいるわけだが、自分は被害者にならないというところが問題なのだ。
自爆して被害者にはならずに済む、政治として国政の破壊を試みるのはその国政に自分が影響されないところにいるから、アートによって被害が発生するものがあるのに自分は安全なところにいる、そして利益を得るというのが問題なのだ。
それはただの犯罪行為ではないか。


国の制度や歴史を非難して、悪いものだ、不自由だ後進国だ、文化が低く教育も充分でない、そういうものを見せて、それを理解される人間に情報を流す。
それに何の意味があるのか。
日本が悪い、悪かった展、日本でだめだといわれた展、それが何の何を目的とした何になるものなのか。話題になればお金になるしそれでいい、というなら絵を描く自分を展示でもして入場料を得ればよい。
あなたたちは自分を恥じて政治を案じて謹んでみなに施しをして献身的であるべきだ、というなら、だれがどの立場でなにをどう言うのだろうか。
そのアートをもって言うのなら、自分は罪深き子羊なので全財産募金をするアート、などといったパフォーマンスアートを披露すればいいだけの話ではないのか。
かつて切腹焼身をもってパフォーマンスした人間は、アートとしてそういう表現をしたのではないか。そうすれば当事者として政治に言及したアートとなりえよう。
自分が安寧にすごす帰る場所があって、自分たちは罪深い帰る家を否定せざるをえない、行き先を探す路頭にまようアートを探求するものだと流布するのは、もう詐欺に近いのではないだろうか。

全員をあずかる全体についてのコンセプト、というは国の単位でも存在する。天皇という基軸もそれだろう。アメリカは国家、家族、といったものが映画などでも描かれる。ほかにも何かの誇りであったり血脈であったり文化や家宝などあるだろう。
それをトレードではなく攻撃することによって価値を変動させるのは、ふつうに犯罪として忌み嫌われるべき行動というのは、社会という価値を定義しトレードする構造の中では基礎にあるものだ。


政治という単位でそれを扱うということは、異なる政治に接する局面についてということになる。
友好的でない国に旅行するというアートでもってして、国際的に必要ではないはずの手段を講じるように交渉を受けるのは芸術ではなく問題行為だ。国際的な問題解決の具体例になってやった、感謝しろ、というアートだと、本人はいう事もできるだろう。
敗戦国というのは悪くて弱かったから強い正義にまけたのだ、正義が言う迷惑行為は弱くて間違っていて悪いものは、補償せねばならない。そんなわけはないだろう。
なぜ強くて勝ったものが弱くて損壊することで負けた非力なものに支えられねばならないのか。それは弱くてわるいからせねばならないという情報による敗戦国の行動指針として、結果強者の支えとなってあげることが何々だというアートでもって形成されている。
日本が再び軍事国家となって愛国を唱えて世界に牙をむいてもいいのではないか、なにせ弱くて敗戦国なのでその威力を発揮することなどないはずだろう。核ももっていないわけである。
それがいけない、それがわるい、そうすべきだ、その考えがよい、そういう手段を講じる価値基準が、最大値としては国家にある。それをまずへし折ろうという政治をつかったアートというのはもう手段もなにも、価値もないものにしてしまう。

だから政治、国家について「ありえないことを試そうと言う手段の模索行為」は芸術という名を使って常識を外れた行為をすべきではないのだ。
美術展を無料で展示、展示物は破壊し放題で持ち帰り自由。そんなアートをすることができるのか。できるのであれば、それが政治を使ったアートパフォーマンスということになる。できるのか。
それをわるい政治家だからまっとうな意見で正論があれば、覆しても、大声をだしてもいい、そんな権利があるから、我々は自由だから、むしロしない事の方が卑屈で洗脳されている罪深いものだ、ということが、表現の自由としてもし認められるとするならば。
AVからモザイクをはずしてみました展や、未成年者が暴行され惨殺される映画漫画展、他人の作品を落書きしていい展、実際の犯罪現場の再現を被害者家族に見せるとどんな化学反応がおきるのか展、など表現の自由戦士はもっと戦うべきだろう。
戦争で日本人は悪人だと世界から認められたので反省しないといけない展は、その手段手法をもって人を何に導くのだろうか。国際的に解決の困難な問題に直面したとき、非暴力で解決する研究が盛んになるのだろうか。
それならば、もっとほかにアートとして手段を研ぎ澄ませるために生み出せる文化や情報があるのではいのか。


アートが、アートが、表現の自由、権利、といえば、毒であっても生み出すことに価値があると言う人は、その毒がメッキに使えるのか消毒につかえるのか、使ってみた結果や予想など、アートとは何であるかをまず定義してから言ってほしいと思う。
アートなんだからお前が裸で体中にムチ打たれ全財産持ち帰られる展をすればみんなみにいくぞ、と進言したところで「それは自分の美的意識に反するから」という理由だけで反対するのではないか。
せめてアーティストには「人を悪事や凶悪性に導かせることになる手段をアートと称して展示するつもりはない」と言ってそれを主義とした手段手法の探究をアートと呼ぶのだと言ってもらってから、全財産の放棄を否定してアート活動をしてみらいたい。

なにかしらんが物理的に物質をどうにかしたものをアートだといって国家の定めた価値基準の尺度である金銭に変えようとしたりすることアートだとか芸術だとかいう観念だけで、表現手法を用いる立場にいないでほしい。