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アートというものの一端

手段というものについて、術というものについて、それを形式として形づくり当てはまるもの、あてはめられるものとして確立しようとすることは人間の文化的に重要な事項である。
建物も服装も食べ物も、だれしも同じ規格で同じ基本のものを同じ状態で利用している。
人それぞれ、みんな自由、などではない。非常に狭い範囲を閉じた状態で利用している。
岩石は食べれるのか、汚水で病気は治るのか、狭くて暗い部屋は以外と心地がよいのか、可能性は無限である。しかし期待した結果にも採用する長所が一点でも見つかりも、しないものである。
挑まずに文句ばかりいって可能性を否定して偉そうに、そんな権利もないじゃないかと言われようとも汚水は飲まないし狭い棺桶で寝ようとも思わない。
それをあらためて手段として用いることができるように試行せねばならない状況だってある。それに対抗しうる手段も確立されている。そういう状況になったときにもそうせねばならない時のために。
それはアーツとして、何かの術として、方法があり、研究もされ、アートという分野で無茶に提案し挑み計画され結果を残している。
目的達成のために講じる手段としてできるだけ多くの要素でもって平らに堅く密に手段を用意すべきである。

 

言論の自由表現の自由やほかなにかしらの自由について、なにがどこまで自分の意思のみ単独で行使できるのが、どこまでやったら他人が迷惑だと声を上げ始めるのか、阻止制圧といった行動にでてくるのか
その限界値を探ることはアートではない。自分の居場所の広さを測ろうというのはただの計測でそんな手段は術として存在する必要がない。生活の知恵である。
100円の買い物が損だと感じるから10000円の買い物でたまったポイントで買う、という生活の知恵。それはそんなメソッドでもアートでもない。そういうふうに使いたいという気分の選択だ。
それが得かどうかなど判断基準もないし、100円商品を全てポイント支払い商品として限定する必要もない。したい人が勝手にやればいいだけのことだ。

 

しかしそれが生きづらい、障害が発生する、問題が発生しそれを起因に損害がでる、などの状況、症状がでる場合にそれを抑える方法として治療や療養を成り立たせることは術でありアートである。
手段として重要で、無駄を重ねてでも計測し記録し研究する意味はある。自分の言いたいことを叫ばずにはいられない、じっとしていられない、そうでなければ世界や国家に抑圧されていると感じる。
自分の考える権利が踏みにじられ、自分の考えている自由が侵害されている、助けを大声で求めなければならない、そう感じている人がいたとして、それをそういう権利だと認めるならば
そうでない人が多く、そうでないことで順調に稼働する社会をそれにあわせて変更したり同期させたりする必要が自由に含まれているのか。
それだけの税金と人員を、その事例のために消費するべきなのかどうか、それを比較してそういう個別の事象について対処法を決めたほうが全体的に現時点で考えうる限り効率的ではないのか。
そういう思考や実行、提案や計画がアートである。もしここで大声でさけんでみたら、服を全部抜いてみたら、犯罪行為をしてみたら、これはアートではないか、というのは往々にしてアートではない。

 

これをもってして、自由や表現について考えてみてほしい。具体的になにがどうといった表現がここまでに含まれていないのは教科書に載る以前の話、雰囲気で義務教育中に取得すると期待されている事だからだ。
憲法の何条にあるから、法令の何にあたるから、と言えばスマートだろうけれどもその法解釈をめぐって議論はされども、ものの価値基準として形式を確立するか、教義を成り立たせるかという目的にはいつまでたっても達しない。
そもそもに法令や規則などはそれらによって形式に成り立ったあとのものであって、それに従うかどうかはすでに議論の余地はない。その部分についてどれほどの余地が自分のケースの場合にのみ限ってではあるがどれほど許され隙間があるかという事例による検討は先に述べた通り。
意味がない。
他者に接触する範囲にまでくるとその係争を解決すべく司法が動くという単純なつくり。

 

自分がもし、言論と表現の自由の戦士として戦い支持を集め活動し一定の発言力をもつことになってその成果を発表とお礼に該当で演説する機会を設けたとして。
活動資金として集めたお金や人員を費やして会場を設営し演説を始めたとして。みなさんにまずお礼を言うところになったとして。
「うそつきー」
「かえれー」
「ばかやろー」
「健康食品の○○はいかがですか?」
「みなさんお疲れ様ですお飲みものをどうぞ(100円)」
「あついですね汗拭きにつかってください(タオル:広告付き)」
と会場で始められたら、「ああなんて自由な国なんだろう。自由っていいな。自由最高。自分が勝ち取った自由とはまさにこれだ」と勝手に商売を始めたり自分に対して意見を言うことがこれまでの自分の努力と同等だと感じている人などの行為について思えるだろうか。
その集まりをナンパ目的だとか、不正な商品の流通に使われたりすることは、法に触れない限りは自由なのか、それとも法なんてものにとらわれている自由達を阻害している事こそが不自由なのだろうか。

 

そう考えたときに、自分が壇上で声を上げたときに、反対意見があるならこちらからどうぞ、ここからなら聞きます、という経路を用意して、それを聞くということをまず考えないだろうか。
自由はそんなものじゃない、というのだろうか。
既にそういった経路で発言権をもっている人間に対して、自分はなにがどう特別であって今回は特例がみとめられいきなり会場を荒らしてもいいという権利と自由をもったのか。
それは異世界から転生してきたからなのだろうか。そういう事が常識だった世界からきたものならばしょうがないのだろうか。認められるのだろうか。
だとすると、そういう環境である小学校くらいから選挙に立候補する機会が認められてもよいのではないだろうか。

 

ふつうにかんがえて、よいかどうかくらい判別つくだろう。そういうことを改めて言わずに済むように義務教育があり近代ができている、はずではあるが。
その広範な対象に大きく揺らぎがありそれぞれが隣接するそれぞれのルールでもって統制をとるべきという組織体系ではあるし、大きく異なる地域性などもある。
どれが一概にいちばんいい、わるいとなるものではないし特徴があるならばまたそれを比較検討しあらたな手段が必要なのか、術を確立する必要があるのか場面ごとに解消をする知識がどこまで浸透すべきか共有すべきか。
そういう探求をすることがアートであるべきだと、術たるべきだと思う
突飛な行動で目を引くことをなんでもアートといってもてはやしたり、それに自由などを付け加えて刺激のつよいだけの新鮮味を正義だとか価値だとかいうことがもしあれば、それはそれを敷き詰めて道となした場合、のちにだれにそこを通ってほしいか。
その道を安全に通ることができるようになって得するのは誰か、なにを得てほしいのか、その将来について一度考えてから次の行動に移してほしいと思う。
いまなんとなくいいと思ったら、あとでよくなるはず、でもかまいはしないが、それが失敗したとき、自分で責任をもって閉じられるように、望まぬ方向につながらないように、もしもの時は何か頼る術を考えて行動すべきだろう。

 

そうはいっても失敗はする。だれもその失敗について失敗点だけにとどまって責めたりはしないとおもう。
ノーベルだって便利になるとおもってよかれとおもって作ったダイナマイトでそんなに人が死ぬとは思っていなかったのを科学の発展を助成する団体の設立で多数の人間が望むべき方向へ科学を使う一助となるよう準備をしたのも、充分に期待しない未来への用途に責任は取ったのではないかと考えもする。
よい後始末、たりない後始末など、人なのだからある。支払いきれない負債など、そもそもに数字は計算し換算するものであって人間自身が数字となるそれ自身を作り出せるわけではないので、人間はいつでも利用される側でしかない。
人間の実力以上の利益や損害は、数字でいうといくらでも被ってしまうものだ。
それをできるだけ多くの数字を基礎とした平均が、望んだものに至る道として使うことにまた、望まぬところから戻ってこれるように、アートすべきだとおもう。

 

ビジネスだのアートだの、とカタカナだけで表現された術という舗装道路が、近年なんの価値もなく崖にしかつながっていなのに高い通行料をセミナーやらサロンやらで取る商売が簡単に目についてしまう。
人のあるべきを問うほどえらくもないし日までもないので、結果よい世界に至ればと祈るしかないわけではあるが、せめて自分の両手の届く範囲くらいは、自分の理想をわけあって、友人知人の望みを分けてもらいながら継続していく時間を形成したと考える。

 

あなたがどこまで許されているのか、認められているのか、愛されているのか、その幅を確かめるために取る行動をアートと言って他の人に許しを請わないように。
まだだれも見たことがない道へ進むだけのことをアートと言って先の分からぬ度に引率されないように。
あなたがだれかを受け入れる体制が固定的に、場面で言ってることがかわったりしないこと貫いていることをアートと呼ぶもので
一旦旅立った後、戻ってきた時に行き道と帰ってきてから得られたものを述べることをアートと呼べるように
まず、アートという雰囲気の呼称を自分が日本人ならば結局日本語で伝え説明することになるその言葉の受け入れ先を、他人がうけとったなにかしらの雰囲気で済まさぬよう
しっかりとした情報の「もの」として確立することが価値になればと思う。
形もさだまらず価値もよくわからない、受け取ったら笑顔になるその笑顔が価値そのものだなんていう言い草をアートにすると、お代はお気持ちでしかいただくべきではないと考える。

 

毎回作風のかわるだれのものか判断つかないものをアートなどと呼ばない。
「だれのものか判断つかない作品を輩出する」「毎回違う作風をする」という「固定的」なアートはあるだろう。不明なものはもう術でも手段でもない。

多くのきっかけと入り口になったとしても、だれも返ってこない旅の斡旋はアートではない。
儲かる、みんな儲かってる、いますぐ始めようといって、返ってこれない人の救済を帰ってきた人間が確立してはじめてアートである。

主義、主張は、今聞いた感じたことをすぐ声に上げる事ではない。それは出欠を取っているただの点呼だ。
その場に自分が組み込まれている証明でしかない。その声があらぶっていれば、ほかの人たちはエラーが自分の環境内に紛れていると感じるだけである。
唐突に表れたヒーローがなんの説明もなく強制的に正義を実行しようとすると、それはただの悪の魔王でしかない。
また、説明を聞いていない人間にしてみれば唐突であり邪悪なそれは、自分以外が理解しているのか自分の理解は相対的にどこにあるのか
人が一人でいない理由である一つとして、聞いて確認するべきだろう。
ここからどこかまで、自分からだれかまで、つながりを作る方法がアートという言葉に収束されるべきだと望む。