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目的と計画性

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などといわれるけど、ではなく実際にある。
それをうまくいった事例をあげて解決案とするのもたしかに手段としてはある。
しかし1例においてのみであればそれに合致しない例に能わない。
おおよそ気分を代弁しているものであれば主観による多様性の受け取られ方で人気はでるが実際の解決法としては使えない。

 

この例が使えるかといえば使えるだろう。「ガンは治る」と同じである。全身転移の末期でも治るのかと、早期発見のポリープでは、大きく異なる。
この夏を乗り切ったので大丈夫という事象とこれからの夏休みの宿題についての例では内容は異なる。
そもそもになぜ聞かれると怒るのか。原因を定かにすべきだ。

 

まず怒りという感情は自分の持っている手段で解決方法の不明なもの、これまでに例のないもの、効率のために他を無視することを取るための行動原理となる感情だ。
よわいもの、うまくいかないもの、きにいらないもの、それを論理的に動かして他に影響を与えていずれ消えるようにすること、広く浅いコストで済ませること。
これが社会に求められている平静に物事をすすめ変化させる一般であるが、瞬発的に独力でそれを行使したくなるという人間的感情がある。
知らない事に投資して巡り巡って大きな流れで影響を出す、不明なことに教えを乞うたり教えたりともに考えながら進む。
それよりもまず答えが欲しい場合、手持ちの手段をなんでも投入して解決したくなる時、そういう感情だ。
コストを顧みず、方法は既存のもので、その行動による作用で反発が発生しても目的達成のための実務遂行を最優先に排除する。そのための感情が怒りである。
宿題の進行状況の確認という事例についてなぜ怒るのか、それは宿題の進行状況を本人が把握していないからだ。
宿題をしている、していない、という現状の返答以外には、完全に終えたか全く進めていないかしか手段を持ち得ていない。
何をどこまで進めたか、という管理を成されていないからであり、それを自身で行えということについて、進捗管理を学校教育で済ませていなければ、手段を持ち合わせない。
手段のないものに解決をすべきとなったら人間が発生させる感情は、怒りである。当然の結果である。
おまえしたことないだろ、したことないこの事について、解決案と状況をだせ、といわれて自然と発生するのが怒りである。
ふつうに怒りを発生させるいいかたをいかに変えても結果は同じ。知らない事を解決するために熱量が発生する。
熱量に対し温度の低い、解決までの時間に猶予がある場合はやる気という状態にもなる。急速性が求められると熱量自体で効率化(論理的な迂回の無視、破壊的)を加速させることもある。
実務と管理という相反する二つの事柄について勉強という実務をしろという事と実務の進捗管理というしたかどうかということの報告を求められるとどっちをすべきか判断ができなくなる。
答えが用意されていないため、どちらをすべきか悩む。しかし返事の要があるため熱量を伴う。
その熱量で解決すべきは、実務を遂行しろという意図であることと、そんな実務なんてしてる暇があったら(今口頭で問うている事に返事をする必要性について)即時管理の回答を求められる。
今すぐ作業にはいるべき、でなければ進捗は変化しない、しかし実務をしている暇があったら今即時に必要なのは進捗の報告である。
一番簡単な解決といえば、現時点で実務を中止して報告の要に答えるので、実務はできない、ということだ。実務ができないとしていないは別であるが、どこまでしたかという質問ではないため管理されていないそれを報告することはない。
それに一歩だけ進んで、今管理のシークエンスで実務からはなれてよい、どこまで進めたかといわれると、進めなくてはならないという思考に陥るのはあまり健全ではない。
管理を放棄し実務で進捗をかせぐ必要があるというのは、現状現時点で必要とされている管理の報告を放棄することになる。人の言うことは聞かないがやることはやる、でも構わないと思われるが管理されていない作業をいくらつみかさねても将来的には実用的ではない。
評価されない残業を何時間行っても結果はゼロだ。

 

進捗どうかの前に、進捗は何であるかを知る必要がある。夏休みの宿題の総量はいくつか。いつまでにどれだけしたいか。それは何割か、数えればわかることだ。考える必要はない。
進んでいるか、などとあいまいなことで、いくつか、どれだけか、どのようにか、することを明示せずとりあえずやるということの閉そく感は、ふつうに怒りを招くだけで解決方法は「いかに適度な報告をするか」に終始するだろう。
進捗を管理できていれば、進行状況を報告し共有できるという安心感から満足感も充足感もうまれる。形のきまったものにおさまってしたがい消化することの快感である。
人が型にはまってこなすことを快感とするのは正解が得られると快感を得られるのと同じである。毎回不正解や理解できない意味不明な回答に至る、回答がなかったり答えたすべてが回答であるということになればそこに楽しみを見出すことはない。
誰も通ったことがない道で新しい価値を見出すことの快感を否定してはいない。たどり着いた結果が人に評価されうる普遍的に理解を得られる成功に結果おさまっている。
実際に新しい結果に知らない道を通って至ったのだとしたら、それを理解できる人間でなければ評価することができない。理解できて共有できることが大切なのである。
共有するために関係者が情報を共有する母体を作成する必要がある。基準や規格である。50パーセントまで進んだ、20パーセント完了した、それがどれだけのものであるか理解ができる必要がある。
うまいごまかし方としてこなした宿題を唱えることもあるだろう。それが何割かわからない、少ししかすすんでいなくても言い方で相手を満足させたりすることもできる。
そこが商売の才能だといわれたらそうかもしれないが、それを培うためのものでもないだろう。必要なのは進捗の管理と実務の遂行だ。他社への連絡を水増しして満足を促す粉飾をする必要性ではない。

 


夏休みの宿題というのが最小の努力と関係者への粉飾を培うためのものだとするならそのままで言葉だけの解決方法で、実際に取り組む子供が成功をして、根本的に解決していない子供にはそのままでいいのだろう。
かといって子供がみな効率的に宿題をする技術を手に入れてどれほどの社会貢献があるのかといえばそれもまた未知数である。それが必要なものかどうかというのも不明である。
自己管理と実務の実行率維持をはぐくむ目的だとすれば非常に有意義だと思われる夏休みの宿題だが、そんなものを管理しているところをまず見ない。
日記をつけさせられるという独特の教育方針もブログや記述に高い関連度を引き出していない状況、ブログが続いているという事がそんなに多くない結果をみるに効率がよいかどうか教育として疑問に思うところはある。
日記にしても宿題にしてもやり方を自分のあたまで考えさせるのは教育としては非常に問題があると思われる。児童たちそれぞれが思い考え探し見つけたものが教育だというなら、褒めるだけが先生の役割でいいだろう。
子供の教育をフェイスブックで行いいいねボタンしかないようにすれば、自由な発想でおおらかに子供はそだつだろう。そだつのはいいが知識もストレス耐性も感情による行動の特殊性と倍増効果を得る方法もわからず育つだろう。

 

 

いいかげん実務と管理を一緒にできるという考えや、管理の仕方もわからないものが進捗を聞いて自分もわからないのに「相手が実務をするために」というなにか崇高な意思でもあるかのように「基準のない自分の満足」の度合いを測る報告を期待することに無意味であることを知るべきだ。
50パーセントまで夏休みの宿題が済んでいる、ということに今の時点でよいのかわるいのか、完了はいつなのかどこなのか、それを完了させることで得られるものは、など管理ができる人間から「進捗どうか」と言われるべきである。
そして報告すべき内容が方向性を決めるに能う単位で切り分けられ消化状況を管理できるべきである。まんべんなくこなしつづける事による持続力の成長を願うのか、早期に取り組みおわる効率性か、それに伴うあいた時間の使い方など、なんのために宿題をするのかという根本的な理解が必要だ。
早期に終わらせる例のメリットデメリット、継続しつづけるメリットデメリットもあるだろう。それは個性にあわせて選択され個性を伸ばす雨に内容の理解が必要である。

 

宿題をやったかどうか、と言われることで気分がよくない状態になるということについては、実務と管理の両方をもとめられ返答自体どちらのものかまたは統合するにしてもどう統合するか、統合する範囲と内容の割合の把握をいま創造しろといわえても無理である、無理を消化するための方法としての感情の隆起、結果怒りの感情になる。
ならばしろとかするとかではなく、どうするかがまず前提にあるべき、そのどうするかを具体的にきめることも、口頭でまいにちやろうやはやめに多くすませようなどの方向性からあいまいにマイルストーンを置くこともできるだろう。
相対量として計画を練ることも、絶対量として消化した分量だけご褒美がもらえるという手段もあるだろう。
質問の仕方をかえても、意味はないと思われる。質問の仕方がかわる構造の変化が必要であるだろう。構造が変化したために質問も変わったのだと言われれば納得する。

 

人にわからない事、無理なこと、できない事をおしつけると、それを解決するために不快という感情がおこる。この不快から打破へと怒りが発生したり、回避という諦念を産む。
いわゆる損切のために全てが憎くなりわずかに得られる利益も放棄して撤退することもあるだろう。
また先述からと同じくどんな犠牲や非効率や破壊的な行動であっても、目的達成のために手持ちの解決法だけで推し進める怒りという感情もあるだろう。
そんな論理的な行き詰まりの多いアスレチックのような、ジャングルのような難関を用意し、幾多ある方法や理論を教えず個人に思考させその場だけで有効なその知識範囲内だけで世界と対峙させる方法が何の学びになるのかいささか疑問ではある。

 

要するに聞くか聞かないかではなく答えられる方法を持っているかどうかを子供に聞いたり、ないというなら進捗の管理方法をまず教えるべき。
数学を習っていないものに公式と説き方を問うたり歴史を学んでいないものへ歴史の当然基礎として知っておくべき事象を出して問われてもストレスである。
運動できないものが速く走れんなぜ遅いのか、みなはそんなに遅くない、走り方をしらんのかと言われても向上心が芽生えるとは思えない。
運動をする段階と確認、最適への見直しと報告という形で共有、その環境づくりを学ぶべきだろう。そういう意味で宿題ができたかどうかはあまり必要性がないと思われる。
宿題をどのようにするかという、実際こなす実務より管理を、家族は求めるだろうし、それで家庭内は円滑に関係性を維持できるだろう。
しかし学校はそのような状況を共有していないので、提出された宿題のみが評価対象となる。むろんできていなければ原点される。それがいかに計画を管理されていたとしても。
その計画を構築することを自由研究として提出しそれが高得点を得る結果となれば教育としても十分な価値、結果だろう。しかしそういう評価はないと思われる。

 

全体的に非効率の塊だと思われるが、それを順にこなすことで社会生活がいかに非効率で理不尽なものかという感想を得るための土台作りとしては機能しているように見える。

もっと根本的に、しなさいという管理干渉を管理者として受けると同時に実務者として、実質取り組み本体以外にも準備と完了という作業があるのでどこから切り取っても作業中または作業開始、作業開始準備中ともいえるそれを中断するという好条件が発生する状況を理解する必要がある。
研究員が研究をしている最中に研究がなにかよくわかっていない管理職位が報告を求めるとして会議を召集すると「実務中なのに」という不満とともに召集命令に従うといさぼりの口実も得ることになる
報告会議中に「研究もしないでなにやっとるか」と言われると「会議に召集されたので実務を中断せざるを得なかった」と答えられる。兼職者が一人である宿題については口で回答するのと同時にその理由が発生する。
そしてしていないことについて不満と責任追及がなされることもわかっているので板挟みになる。そして即時性についても二重に求められる。それだけの圧力を瞬時にもって圧迫されれば、大きめの熱量とともに解決への圧力も発生するのは当然。
熱を持った圧力の押し出しという感情が怒りなので、怒りを伴って事実や論理や効率性、コストをなげうって自身の利を得るためだけに行動にはしることになる。

 


そもそもに人を怒らせるためにしていることだとしたら言い方を変えてよくなるというのは意味を成さない話であるし、怒らせて解決させるにしてもあまりに学びは小さかろうと見える。
だからといってみなが効率よくものわかりよくなってもらいたいと願うのも無理があるしそれが望ましいということでもない。
目的達成という行動について考察するならば、言い方かえればよくなるという時と場合と相手によっては効果があったりなかったりしてその目的も宿題にとりかかるということだけに効果がありそうというのは単純すぎるだろう。
単純というのは原理的という意味ではなく、例が少なく汎用性に乏しかろうということだ。


その場の対処を表現の仕方に変化を付けた言葉でいいあらわすことに価値をもたせて実行効果や目的達成を明確にしないことはコンサルのような価値に継続的な価値をもたらすだろう。
実質必要なのは根本的な解決であり、宿題の達成や計画性と共有の方法ではないだろうか。
その価値を時間的に先延ばしにすることによって現在得られている利益があるとするなら、それはきっと勉強に従事しているものが得られているものではないのではないだろうか。