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相対と対消滅

あなたの極論、対消滅できますか?
これは2043年の日本の流行語である。とか言いたい。
それくらいの時には主語がいくら大きくてもレペゼンバトルで極大単語を発するたびに思いついた文脈で解説しても問題ない世界にまで基礎教育が発展している。
そう願いたい。

 

単純に現在の問題だけを取り上げていうならば、献血宇崎の問題は何とぶつけたら対消滅できるのかということだ。
ぶつけて純粋にエネルギーだけを取り出してそれを文化の形成に利用するそのエネルギー利用方法のことをアートと呼ぶべきだろう。
献血に身体の特徴についてまず言及できうる要素のある情報を利用したものに対する外部の反応を平たく全般的にまとめて現象としてとらえると
その反対は「映画の声優に俳優を起用する」のそれではないだろうか。

 

 

10月末あたり発売の成年あたりの年齢層をターゲットにした漫画雑誌の表紙がふんどし少女だった。これはわいせつだろう。
胸はしっかり形などわからぬようサラシをまいてあり宇崎問題としては全く問題ない。だから何も問題はないのか。
胸部下から腹部は全開、腰部に小さくすることで強度を増す目的とした布を着用し臀部は全開という肌色は、その表面積からしてわいせつであると私のゴーストがささやく。
しかしこれは現時点でまったく問題視されていない。わいせつではないのだ。少女が公の場所で薄い布一枚になることは健康的であるのだろう。
これはもう言及されているネット議論(?:ただまとめて発言したという人間とコメントを寄せることができる機能が発動しただけではないのか)によって安全が保障されている。
女性の下腿を露出させることは女性が長年をかけて勝ち取ったあたりまえの権利で誇るべき活動履歴なのだ。ふんどしなどは性差を凌駕した平等の象徴なのだろう。私のしらない何かにおいては。
おそらくこれが絵だとまた問題なのではと思うがとりあえず権利の勝利に純粋に賞賛を送りたい。

 

さて、献血宇崎問題を対消滅させるために構成元素を分解したい。
まずポスターの採用と掲示献血という場だ。どこの自治体のだれが担当で管理者や企画立案、運営がだれかという事はおそらく不要である。
手段を俗人化するということは人間を手段化つまり概念化させることであり平将門鹿目まどかである。これはアートという手法ではなくアイドルという目的である。
手段と目的を混同したり入れ替えてはならない。マサカドメソッドを利用すればだれでもマサカドになれる、ということはないからである。
ここから推察されることは、献血のエリア付近にいる人間とコンビニや駅売店の付近で情報を横断的に摂取しようとする人間は種類が違うのであろうということだ。
なのでお互いが想像する「相対の相手が見る状態」を想像するが合致しない、もういいかげん俺が図解するからという度に間違いがおこる。
異なるので見えていない相手の挙動先を狙って偏差射撃を行うも相手のエンジンを理解していない。直線軌道に相手がいないのだ。
献血に来るということは何か、献血をしている場所とはどこか、そこに集まる人間とはなにかを想定する必要がある。
献血エリアを目的に対する移動手段の一部とみて通過する人間よりは、より注目する人間のほうが想定たりえる確度はあがる。
一旦停止したり待ち合わせをしたり、その近隣に目的地があったり利用施設の中にあったりする。その中でその利用目的に集中して視野が狭くなっているものではなく
付帯利用者として何か周辺に自分に対して有益な情報がないか視野を広げ観察する余裕がある者になるだろう。
この時点で性別、年齢、職業、住所、についてはペルソナを立てるべきだ。多様性のある人間なのだからカウントして全員を最後まで情報交換するのは無理である。
おおよそ中心点から揺さぶりをかけて双方の意見の着地点となる手段を見出すための折衝をすべきが議論であって、そこから統制のとれた一時的な定義がアートであるべきだ。
アートは永遠ではないし価値観も永遠ではない。議論をする人間が全員「議論に参加した」という結果を残すことがその時々の最善であろう。

 

その特定の層が、その掲示内容について無知であることが露呈されたのが問題の発端ではないか。よく知っていてこれに起用するのはというのとは毛色がちがう。
知らないものについては警戒心があり観察という自分の行動範囲で自分の行動抑制を求められるのは不快だろう。ならば唐突に既知の行動範囲にそれが突出してきた理由を述べよといいたくなるはず。
そしてその理由がなくそこに当然と鎮座している不快な理解不能物に対しては、数秒後には排斥せよという感情になるだろう。
これはどんなものであっても同じ反応をしめすだろうことから、通常一般の反応だろうと想像できる。
つまり無料で利用できる施設や公共サービスを行っているエリアに付き添いなどで訪れる女性を中心とした人物に対して配慮がなかったということになるかもしれない。
これは買い物主婦層がわいせつな男性誌を見かけて「セクハラだ!」と声を上げるよりも「男ってほんとしょうがないわね」という率が高いであろう予想をもとに雑誌が配置されている先の疑問に対する答えでもある可能性は高い。
着弾しても怪我して傷害で訴えられない程度に威力を発揮してもいいだろうという予想の道具で予想の相手に使用しているのである。
もちろん安全だからといって顔面にむけて撃っていいものではない。
公という場所が、自分とそのまわりに同意見のもの(と自分が思っている)のいる共有スペース全般を指しているということについて人間の認識範囲の限界からしても妥当だろう。

 

全然別環境にいる者を別の環境に誘導するという意味では現場に周知されていない情報で他状況の人気情報で誘導するということは、目的の達成からいえば成功なのではないか。
情報戦においてその戦線の争奪が最も交戦状態の中でも凄惨であることは何においても同じだろう。
戦争の物語でなぜ交戦状態になったか、戦争が起きたかということを振り返ってみると、集団で行動しているうちに状態が活発化し活動範囲を拡大するべく熱膨張のように容積が隣接に干渉することによってその干渉を正当化するか謝罪するかでもう侵略を手段として取るようになる。

 

長々と書いても意味がないのでエロいかエロくないかは、関係ないという一言で済ませたい。
エロいと思う共通認識の集団がごく一部にいる。その反対の一派もごく一部にいる。各個人は心から外に出すことはなく、それがあふれたり細い糸でつながりを模索した結果うっすらとつながりができる。
集積するためにバーや集会やあつまりをもって同意者を増やしたり増えていったりする。小さな店舗で販売店をはじめたところから雪だるまになることもある。
そんな過程を経て大きくなった集団が隣接すると、いつしか境界を越境したりとなりの芝が自分の庭として利用可能ではないかなどの模索をすることがでてくる。
これだけの問題だろう。

 

エロいと美味いが隣接していればその境界で紛争が起きるだろうし、メディア商品の構成人材選択に声をメディアに流している人というてきとうな範囲の人か、明確に数字で売れている人を選択するか、商品市場において活躍をしている声優を選ぶかという映画について、俳優を起用するか声優を起用するかも隣接しているのではないか。
赤十字に関しては利用したのがポスターであり期間が限定されているキャンペーンなどで起用する場合は隣接関係なく規模の大きそうなものを適当にあさって標的として領域を自分のところと接合しようしたもので、その選択については問題があれば非難されることもあるだろう。
逆に実際に献血してほしいと考えている対象に露骨に募集もするわけにもいかないだろう。
漫画と献血はどう考えても隣接していないと思われるので、遠征が必要になる。すると道すがらいろいろと交戦になることはあるだろう。
距離的に交戦の確率が多くなる道を選択する理由としてはその途中経過で連勝する見込みがあり、その成果を最終的な決戦に活かせるとするなら意味はありそうだ。
ただ消耗しつづけ疲弊した先に誠意をもって交戦すれば交戦することに意義がある、と計画していたとしたならそれは戦略的に負ける事に意義を見出す目的だったと言わざるを得ない。
わざと負けることでなにかを表現するアート、手段であるというのならばそれもまた他の何かの戦略を活かしどこかの勝利を導くために役立つのならば立派だろうし巧みだと言えるだろう。

 

交戦相手も、胸の大きな女性がそこにあるのはおかしいと宣戦布告してきたわけだがそれが旅行者や難民でなくいきなり交戦状態に持ち込もうとするのもおかしな話である。
しかし次弾の攻撃目標がその漫画などのコミュニティに対する直接攻撃だったということは、もとよりその相手陣地に攻撃したかったのであろうということは透けて見える。
もともと気にくわなかったのだが応戦と称して侵略攻撃ができると見込んだ行動だと言えるだろう。
侵入してきた場違いで迷惑で不快なポスターなら、まずポスター撤去のための管轄管理者や立案者や施行者をあたるべきだろう。
そこに貼ったのは誰か、それはどこから印刷されもってこられたか、それを企画したのはだれか、その選択をしたのはだれか、企画を承認したのはだれか。
この対応がまずくて延焼して交戦が長引き交戦区域が拡大し、漫画やオタクと献血関心者やフェミニストや人権擁護団体やファッション業界や印刷業界など巻き込んでしまうなら、そこで戦犯を裁かねばならなくなるだろう。
戦域拡大において象徴となった漫画作家はむしろ被害者かもしれないが何かしらの追及は免れられないだろう。もらい事故のようなものだが最初からそんな漫画かかなければよかったと後悔させられることになるかもしれない。
見方や相手にも被害をだし問題を発生させた原因としては、その領域の拡大越境が発露した時点で撤退撤収の支持を出さなかった責任者にあるだろう。
ようするに宇崎ちゃんのポスターが問題ならばそのポスターを撤去すればいいだけのことなはずだ。
「撤去したところで傷ついた私の心はもどらない」と相手の心をもどらないようにする分にはいいのかというもうはじめから戦争でいきましょうという事自体にも問題があるということだ。
その撤去をすべきは漫画作家やファンやオタクのボランティア活動でもなかったはずだ。貼った人間がはがせばいいだけの事だろう。
そこの張った人間に、はがしてくださる?と言えばいいだけの事だったはずだ。それをはがす権限は私にはありませんというなら、現場の責任者に問えと言うべきだろう。
一兵卒が「この位置にこのポスターはやばい」として貼らなかったりはがしたり、上司に問うたら問題は発生しなかったかもしれない。

マサカドをつくりだしてしまうかもしれない、と上司に張り付け担当員が相談してそれを理解する上司であれば、現場でそのような判断をしたかもしれない。それはどの伝達段階でもおこりえたはずのブレーキである。

相手の領域の中心部付近には何がある判らないから不安でその深淵になにかを投げ込んで火をつけて明るくして中をみようとする人間が、領域的にそのポスター付近にいるのではないかと想像したならば、ポスターを疑問視したかもしれない。

「あらかわいいわねーこのおねえさん」と言ってもらえそうな発言をしていないところだけでも気が付く人がいたのではないだろうか。

 

宇崎ちゃんポスターがあろうがなかろうが、双方のコミュニティの奥深くにはもっと問題のある情報が双方に堆積しているはずだ。
そこにあるだろう怨敵の集大成にいかにリーチしたいかだけが目標となって行動しても、ふつうにそこにたどり着くまでに双方消耗戦になるだけなのはあたりまえである。
その騒乱をみたいだけ、局地戦として消耗する局面に売り込める商売でのし上がりたい、などでも思っていない限り自分の本心が満足いくために消耗戦などは望まないはずであろうと倫理を信じたい。


結果ジェンダーの話題が過熱することになってジェンダーで語りたい勢はその戦域を囲んで世界大戦の様相を感じながら自陣の戦力を高めるよい機会になっているだろう。
これをエロと芸術と表現が交戦武器として各領域的に承認された戦争となると、予想される状況は最悪の泥沼になることは想像に難くないはずだ。
だれしもそれは想像しえるはずだ。

 

ここで、ちゃんと戦略をたててほしいものだと思う。
私自身は、そういう状況になると自陣を防衛するのみに徹すると思う。
各員、目的はしっかりもってほしい。
エロやアートで、人権や社会問題で、それは自分の領域を塗りつぶしても問題ないのかどうかを。

 

自前の武器で倒せるのは自前の武器が効力を発揮する相手だけである。
絶対的に存在する不変のものが底辺にあって居住している隣接区域の住人を攻撃する意義は、その反対に自陣を攻撃される意義でもある。
お互いに自分には当たらないが相手にだけダメージのある攻撃をすると、結果どうなるか。枯葉剤や核攻撃をみればわかるだろう。相手の無関係な核心に関係のない攻撃で被害を出すこと、暴力そのものである。
議論というのは解決の策や今後の手段を確立するためにあるべきで、相手を掃討する手段ではないはずだ。相対する両方の同一の問題点について議論をして領域をどう取り扱うかを話し合うべきではないかと思う。
議論の行く末次第では、その境界線が双方の真逆の同一見解という認識によって消滅するかもしれない。
個人レベルで言えば多くの出会いなどにおいてそんなことはいくつか経験しているだろう。またそれがなかったために失われた自分の可能性と関係性についても痛感することがる人はいるのではないだろうか。


結果、このあたりの問題は、何が、問題だったのだろうか。どう、すべきなのだろうか。