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主義で術を語る齟齬

さまざまな論点を含んでいるという。
それを言えば何でもそうだ。
原子レベルで同一とは言えないというとこから構成している元素の全ての数の事情で論点はあるだろう。
論を成すならば、どこで切り口を作って金太郎飴になった相対のどちらをなんと評して価値を付けるかということである。
一概にはいえない、両面を併せ持つ、どちらかだけを採用とするなら差別になる。そんなことは当たり前である。
どちらかに極振りすることで、相対する局面をなし、主義としたその二者間に発生するなにかを術としてとりまとめる事こそが、記録という文化の根源だろう。
記録をするには一貫性がなくてはならない。毎回測定の度にメートルとインチが混じっていては記録の意味をなさない。
意味を成すためにはメートルが善でインチが悪、というわけでもなく必要でもない。付加価値の一貫性が非常に高いさまの採用側を善、少なく発生時ににも優先されない、除外対象となるのが悪という「価値観」である。
価値の有無などは個人においては常に変わりうる。生きるか死ぬかという最大の選択項目さえときに嗜好品のレベルで発生する。

アートが政治利用、という話をするにあたって主義などという単位でなにかを見ようとするのは天体望遠鏡でチーズの成分を解析しようといったものだ。
戦略レベルで戦術を解析しようというのは、思考として破綻している。
実務を持ったままの管理職と同じである。破綻は免れない。


アートとはなんぞやという事でまず、オークショナーが現金価値をつけることができる物体のことではない。
手段に価値がつくことはあえど、それを包括するものではなく、手段のことである。現金価値はまったくもって無関係である。
ただ、資本主義市場でお金の価値がつかないものはまずないもののうち、価値があるものとしての手段・手法・技術は価値を金銭で測られるようになってしまうのは道理だ。
この不可逆であるはずの流れを逆転的に思考してみる「アート」によって、価値とは市場に生み出せるものだとしたりされることがある。
焼却ビルに本社をもつよくわからないコンサルタントがビジネスを解析するとき、価値を創造できるのだと逆算してみせるが、それは言葉のあやで現実的ではない。
作者が謎のだれかであるという特定のなにかということで価値をつけようとしたりするが、世界で一番価値のある我が子の似顔絵がそれ以下のゴミと市場で判断されることに説明がつかない。
オークションが集金施設として機能しているから、そこに掲げられる落書きは何億という価値がでる。それは価値ではなく取引手段であるだけなのに。
億万長者の家に掲げられている娘の書いたパパの似顔絵も、状態としては同じである。
貧乏家族のタンスにしまわれている学校でかいたパパの絵も、絵画としては同じ価値である。
技術、技法、道具、それらにおいての価値、その文明を構築し伝える方法を確立し、学んだものが術を施し結果を作成したものとしては同じなのである。
美術の価値とはつかわれる現場でどのような機能を果たすかということについて、導入コストの現金価値が発生するだけで本質という物体そのものの蓄積情報としては何物も同じ価値であるはずである。

 

金本位制のように、この普遍である価値という無価値の基準を、政治利用という形で空き瓶をギヤマンと称して買い取らせる、みごとだきれいだすばらしいという満足でそれを評価する、していたということについて無駄だと理解する日が来ることについてどう思うかなど個人レベルでは見逃したとしても、国家という価値基準策定組織がその単位としてすべきではない。
人間の価値を動物と等価なので、という国家的な価値観があれば奴隷も奨励されるだろう。それは今はいかんとされている。美術と称して、芸術と称してミサイルの誘導装置になる回路や核燃料の生成機械を軍事国家に「展示」しに行くアートも許されない。
アートというものの価値、技術技法の価値とは学ぶべき時、所にできるだけ多くを触れることができるように準備できることだろう。
それで金儲けをしようという時点で、そのもうかる貨幣の管理をしている国家の政治的な利用だといえなくもない。

宗教が美術に近しいところに足を踏み入れる事が少なくないのは情報の伝達方法という方法の模索について、記録と再生を方法として探求するところにあるものだといえるだろう。
情報の中立性を守るために、我欲を捨てるという一貫した主張を生命を掛けることで証明しつづけてその保全を預かるものとして成り立とうとしている。
最近のそれらはそういった基礎があるかどうかわからないが、もとは情報記録、伝達、価値観の基礎構築として成り立っていた。
それらに政治が絡むべきではないというのも、改めて考えると当然だと思われよう。

 


それらは術であり、手段であり、手法である。レベルでいうなら戦術レベルだ。
これを研ぎ澄ますことで様々な戦法を繰り出すことができ、技もつくり見極められ、戦力も集められよう。
しかしこれは戦略レベルではない。


あらためて、戦略、戦術とはなにだろうか。


民主主義のA山B太氏は、町おこしイベント芸術祭でアーティストCさんを招き、水墨画体験会を開催します。

これは

民主主義:戦略
A山B太氏:戦術
町おこしイベント:戦法
アーティストを招く:戦技
Cさん:戦技
水墨画:戦技
体験会:戦技
参加客:戦力

おおよそこういったスコープの範疇だ。

「民主主義のイベントに参加する人間なぞはみんな民主主義に洗脳された独特の思想をもつやつらばっかりだ」
という評論はおよそ的外れである。的を外れる理由は焦点があっていないため目測が誤られ、的を射ないからである。
これをその直結させた頭から手足が生えた人物像のようなものをもって考察したところで出てくる結果は「いい参加者も悪い参加者もおり、主義に賛同するものもしないものおり、そうであるものもそうでないものもいる。一概にはいえない」というあたりまえの「その接続は不可能」という無意味な結果が返ってくる。
それが無意味であるということを証明するという「手法」に「アート」が存在するものも、もちろんある。それはこの先は行き止まりだと書いてある看板と同じ意味をなす「アート」である。
行き止まり看板を集めて展示することは「アート」ではない。美術・芸術・アートを学ぶにあたって資料となるデータを生産でずにすでにある情報を利用して掲示するという「手段・手法」の横着で金をとるべきではない。
国がその収集の労をねぎらう意味で助成をするのは、手段をより多くもつことで生産性の向上につながると期待する投資としてはありだろう。
個人が収益を得ることになるのは自身の完全創作物でないかぎりは先述の政治利用と曲解のしようもある。


異なるレイヤで話をしたところで、ピントが合わないのだ。
A山氏の掲げるスローガンはとても賛同できない、というのは戦術レベルの話だ。
彼が開催するからいきたい、いきたくない、というのは戦術レベルだ。人のすき好みで判断するという戦闘技術、戦力のレベルではない。
いやなら行かなくていい、のは戦力レベルなのだ。戦術レベルで存在する項目を、戦力レベルで無視することでそれを無力化できるのであれば、目を閉じれば世界が終わるということである。
目を閉じれば世界は消えてなくなるが、目を開ければそこにある。それが以前と同じかどうかなど哲学的にどうかはしらないが、戦力レベルで対応しないといけない状況は継続する。
これはもちろん立ち位置だけの問題であって、目的という構造物を成した時どこに人間が配置されるかというだけの問題である。
えらいとかえらくないとか、差別してるとかされているとかいうことはない。
それを物理的にみな一つに重ねることができないことを差別だと訴えて、位置エネルギーを金銭に変換しよういうのは、芸術・アートとして成り立つが、末端の感覚を消費するだけの消耗材といえる。
薬物を利用して快感になるのと、シャンパンタワーで気分が高揚するのは、アートとしては同じである。
目的にむかって進行することを感覚での消耗品にするのは、いわゆる妄想と同じである。妄想にお金をかけるのは個人の問題なので好きにしてよいだろう。

だが、個人の妄想、感覚的充足のためにそれを価値として利用できない人間、生産にかかわらない人間、それを無価値だとおもっている人間に交換をもちかけ共通の高価値を相手側の無価値と交換しにかかることは、術であり手段であり技法であるが、おおよそアートといっていいわけはない。
いわゆる搾取、詐取として、犯罪と判断されるものも少なくないだろう。
国が定めた価値と価値を、生産した側仕様したい側のそれぞれで交換を試みるその差がないように、均一の単位である通貨を発行するのだから、同じ国内同じ基準内で1円が5円であってはならないはずだ。
電子マネー、ポイント、が商品券どまりであったころは若干の問題視だったが、何々ペイの乱立から非常に心配になっている。
それはまた完全に別問題だが。

要素としては複数で構成された構造物について、どこを論じていいかわからないので論点が多くむつかしいという評論になるだろうが、それは結局全体図をぼやけて目に映しているのでよくみえないというだけのことである。
人が個人でものを語るなら、戦力レベル以上にはなれないだろう。
そんな会に参加するようなやつは、こんなである、といくつも延々と例をあげていくしかない。
参加している人間にはこれが期待できる、としても数であたるしかない。あたりが全体の数割を内包するだけとしたら、数パーセントを拾い上げるために戦力か機会を投入した量で獲得結果の量が期待できるだろう。

水墨画では名が知られている、アーティストである、アーティストCさんを知っている、そういう戦闘技術保有レベルのものであれば、そこに直接介入することも可能だろう。
もちろん会に乗り込んで自分がアーティストだからと騒ぐのは、手段としてありえない。現場に乗り込むのがアートというならテロ行為もみなアートだと言うべきことになってしまう。
同じ武器をもって同じ使用方法で対抗するのならば、同じ戦法の上でなくてはならない。
相手が持ち込む価値と等価で交換する前提でなければ、非人道兵器を使ってでも相手がまいったといえばそれが正義だと認めるという事に近い。
先の交換条件と同じである。それを命をもってして行うのは無意味だというのが反戦というアートであろう。

戦法レベルでいうなら、町おこしイベントの運営者に入り込む、または主催として別イベントを立ち上げる、なども論じれるだろう。

戦術レベルでなにを評しようといったところで、人として、局面として、1例のイベント案、結果について、掲げる主義について、代表としてその多岐にわたる関係性のどれをと取るのはもうほぼ意味をなさないのではないか。
包丁が人をころす兵器なのか、料理道具なのか、彫刻ができるのか、みるだけの美術品なのか、電気を通す触媒なのか、それは栄養として取り込めるのか、なにをどうすれば「包丁の本質」に近づけるのか。
そんなことにはもうすでに意味がないことだろう。目的と用途にあわせてどう使えるか、使ったかということをもって評価とするしかない。実績と対話、利用、接触のしやすさが評価であり価値であり、論じるべき点だろう。
主義というレベルはもう組織体全体の進行方向を担う船首でしかない。ここに何の像が掲げてあるかということくらいしか言いようがない。

船の舳先を並べて、むつかしい、意味が多すぎる、深すぎる、などというのは滑稽ではないか。
哲学の本の表紙を並べて、むつかしい、なやましい、ユニークだ、ユーモラス、ということになにかしら意義があるのか。


民主主義における問題は社会主義の抱える問題としての議題の一点を、共産主義と抱え合わせることで資本主義のリベラルが保守派の理解を促進させることになるだろう。
のようなでかい船どおしのけんか神輿のような激突バトルをして何人振り落とされるかの様をみるだけについて何の意味があるのだろうか。


たしかに神輿からおちていく人間のアトラクションをみるのは楽しいだろう。浜辺から艦隊戦をみて相撲の取り組みのようなものだと感じるのも、個人としてはありえる。
そんな個人の視野でみる戦略レベルで、船の構造、原材料、構築方法、運用方法、人員の募集、維持、訓練、動員された作戦、役割、それらの何を論じれよう。
おした、おされた、押せ押せ、引けかわせ、そんなことだけを感情の起伏にする以外に役立たない単位で、アートを語ってもすぐに語る言葉がそこをつくだろうということだ。
言っている事は艦長と同じかもしれない。しかし最善の選択と問題の発見、対応方法と処置について、各段階の長が状況に合わせて対応しなくてはならない。
それがなされているさまをみて、自分が合いの手をいれることで、全体を掌握しているような快感に浸るという消耗方法はなんの技でも術でもない。

薬剤でそういう気分になることと差がないことだろう。それが貴重な体験で有用なものであるなら、意味もでてこよう。
芸術作品をつくる人間においてそういう薬物の使用方法を拒まないものも、ニュースなどで情報としては露見される。
ありえない手順や接続方法、存在しないはずの経路を模索するのは非常にむつかしい。それを薬物でバグらせた脳に自動で描画させたものを表現することで「あたらしアートだ」と感じてもらうのが楽で、しかも自分も体験者となりえるのでお得である。
そういう薬剤というバイパスを使って経路を破壊し機能を一部損ない結果が「人にうける」「金を出して交換しようといってくる人間がいる」ということに利用するというのは、現金交換についてすでに若干「犯罪」に立ち入りかけてもいるだろう。
表現の自由や人権など、憲法や原罪などをつかってありえない構造にいびつに変化させることをアートだといって、あまりに広大な視点からおおざっぱにだいたいの感覚で適当に配置されている人員を薙ぎ払おうとするのは、薬物をキメている状態で手を伸ばしてゆらゆらしているのと何が違うのだろうかと思う。

 

問題点を論じるのであれば、適切な焦点で話すべきだ。
わたしがどなってあなたを殴ったのは、あなたを大事だとおもって将来を心配したから、愛ゆえなんだ、といったとして。
それを説明した時点で行為の意味をないものにしているし価値をまだ入手していない将来に遠く追いやることで現時点での価値をなくしたことについて、自分の殴るという行為で自分がなにかをしたという自覚において満足していることに同意がほしいという説明にしかならない。

大手芸能プロダクションの大物芸人が、ふと「それはいかんな、やることやります」とつぶやくことが戦略レベルで威力を伴うこともあるのが艦上で責任を持つ位置にある人間だからであって同じ単語を話すことでその意味や力が自分にあると錯覚するのは薬物と同じである。
艦長が戦力レベルに言及するとピントがあわないし、戦力レベルが戦略を読んで行動したところで得られる結果は大局についての評価ではなくて自分個人の取り分だけである。

戦力レベルからすれば炎上芸術は見に行かなければよいだけだしかってにどうにかなっていろという感覚である。
戦術レベルで生活圏内または隣接地域で問題が起きていれば抗議もするが、そうでなければそれぞれががんばれとしか言いようがない。
戦略レベルで論じることに個人の口からでる言葉はとくにいみを持たないし戦略的に影響を与えるためには直通回路ないしそれに近い機能をする経路を確保する必要があるだろう。
支持政党に属し意見を代弁してもらうような統制下に入る自己の整え方が必要だろう。組織としての行動様式は自分の意見を通すためにも人の意見を踏みにじらないためにも大切だ。
他人を生かす方法を考えなくてはならないのは、他人からみれば自分が他人であるからだ。自分を踏みにじらない方法というのは、鏡映しに立っている相手と衝突しないことである。


これをアートと称してぶっこわす、小さな意見が世界をひっくり返す、転生して勇者になるというのはただの破壊で、爆発してたのしいという爆破おちである。
車のエンジンだって、内燃機関は爆発オチで動いている。無意味に爆発を繰り返して熱をもっている。
ガソリンの爆発がアートとなるのは駆動機構によって動力へ価値変換しているからである。
爆発をコントロールする巨大な金属の塊による堅牢なルール、抑制があって、その構造が意義ある目的に進行することにおいて、その要素の一部は価値として意味をもち、それを再発見する行為もまたアートとして評価されることもある。
それを自動車を横転させてたのしい、という事自体をアートとよんだりはしないものだ。そう呼ぶのであれば、アート基準を明確にすべきだろう。
その時、それを語る目の焦点があっていなければ、もうそれ以上言葉を聞く必要もかける必要もないと思われる。
そこで浪費すること自体も、アートだと語られ浪費をさせられることを価値と称して略奪してかかられることを避けるためには、離脱するしかないのだ。