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書くだけで読まないブログ。

ミュージシャンとはそんなものなのか

 


ミュージシャンなんて、おおかれすくなかれみんなそんなもんだ

 

そんなものなのだろうとは思う。というかみんなそんなものだろう。
どの集まりもみんなそんなものだろう。
清廉潔白にしかいきていない上級階級のみんなんは多かれ少なかれみんなそんなものだろう。
内戦の続く紛争地帯で生活している人は、多かれ少なかれみんなそんなものだろう。
みんなどこにいたって、そこにいる人たちは多かれ少なかれそこにいるとしないといけない事はしているだろう。

 

これはスコープの問題だろう。
音楽関係者はみんな極端なA地点から極端なZ地点まで、ふくんでこうだと言うのは地球が青いと言っているのと同じスコープだということだろう。
そう、俺にはそうみえてる、そんなもんだというのはそうだとしたらそうなのだろう。
見えてる人の目の大きさの話は、お話を聞く限りはそうかでっかいなと思うし、そういうものなのだろう。

 

しかし、銀河高速道路をつくるので地球は消滅させます、と言われたらどうだろう。
むしろそんなことを知らせず消滅させてくれたら、抗議なぞせずに済んだ、絶望などせずにすんだろうというかもしれない。
なぜお知らせをしてくれるのだろうか。
回避も拒否もできないのに、情報を提供してくれるなど自然のそれと同じではないか。
自然というものが人からみてどんな存在か、人間に有用な人間以下の存在、なんて思ってる人がいたとしたらその程度の人なのだろうし自然が手に負えないまさに神としてあるそのものだと感じている人がいたとすれば、そうなのだろう。
そういう神がかったものからの影響、有用ではあるが自分より下のもの、から回避不能な情報を得たとしたら、どちらからにしても絶望しないだろうか。
講じるべき手段がないことに望みを託すことができる人がいるならば、その力は人間力とでもいうべきだろうか、それがとても強いのではないだろうかと想像する。
そういう人もいるかもしれない。

 

ただ、なぜその情報をなんの意味もなく必要性もなく、知ることができるから知らせたという以外のなにものでもないのなら、反応するから反応させてみた、という幼稚さからの残虐性に近いものを感じる。
自然を例えて神として、神は赤ん坊のようなものだと表現する人がでてくる程度には、そういった思考の経路的な実験はこれまでにも多く文化的な作品にみれられる。

 

その地球が青いレベルの視野でみられると、たしかに区別も差別もなくみな平等だし、むしろ人間が生物として存在していることすら肉眼では確認できないだろう。
人間とは概念である、と言ってもはばからない解像度である。

 

そうなると、いじめも不品行も、人間レベルの話、概念的な話じゃんという評価にもなるのではないか。
たしかにその程度だな、として所詮は人間、しかたがないと許せもするかもしれない。


では人間とはなにをしているのか。
愛を育み文化で人を救い感動させ豊かさを育てては分配している。
そんなものは概念だろう。みたこともないし、というか地球が茶色や白や緑といった色がまざっているとはいわず青いというレベルでそんな営みがみえるわけもない。
人間なんて所詮おろかで動物から進化していないのだろう。動物は狩るらしいので狩られることも当然考えてはいるだろう、そんな判断になってしまわないか。
悪い事を大きく希釈することでぼかすと、良い事もぼけてしまうのではないか。

 

戦術としていったん視野を奪っておいて、異なる角度からの情報で詳細度の高い情報を違う方向に出現させ、方向を転換したところに追い風をむかわせ誘導するのか離脱させるのか。
そんな作戦をもっているのだとしたら、これは一手としていい符を打たれたと思う。

 

しかしこの上で、特定の音楽関係者がしょせんそうだった、解像度からの実例ピックアップで、人類の代表としてへんな人を神の御前に評価をいただきにいかせてしまったとしたら、それは視野をうばった状態で視線を誘導させるという作戦においてあまり得策とはいえないのではないか。
ピアノの先生も音大の大学生も、あんなかんじで、こうしていて、そういう事なんだろう、という尺度でみても問題はないという話なのだろうか。

 

N響のみなさんは、開会式で演奏されている人は、リコーダーを吹いているあの子は、どうなのだろうか。

 

それにつけて、音楽しか取り柄がないのだから、音楽性で評価すべき、というのならば、音楽性の評価基準は何式、何論、何派でいくのだろうか。何点が基準値なのだろうか。

 

目つぶしを食らわせたのはいい案かもしれない。
そこから畳みかける技は何なのだろうか。

 

期待はしていないが、期待してやまない。