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無に対しては祈れない

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まず攻撃という手段それ自体のみの動作的な外見が好きであるため何らかの形でより派手につよくそれを示したいということはわかる。
だからといって政府を対象にした時点ですぐに稚拙な構成になる。
政府を攻撃する、ということについて身内である国民からとなると、自分のすごいパンチを見事に描画するために自分の顔面を殴りつけるということになる。
政府おかかえの特殊部隊が自分の体を殴るという構図にすると、動かない足や上がらなくなった手を無理やり痛みを伴って動かす描画になる。これは絵的に表現方法のあるものだ。
なのでテロ組織が自分の住んでる町に攻撃するというストーリーはその動作自体の描画以外なりたたない。13日の金曜日がそれだ。エルム外のフレディもそうだ。当人が怖くなくては意味がないし、描画したいのはその怖い姿だけだ。
自販機の中の缶ジュースが飼われている事に不満を抱き自動販売機の破壊をもくろむ。体内の寄生虫が主導権を狙って大増殖する、攻撃する。
その結果がどうなるかは、結果だけとれば破壊されて分断されちりぢりになった一人、ひとつの缶ジュースが路上におちて日に焼け腐食しくずれるのをまつだけ。
寄生虫が身体機能を乗っ取り生活できなくなった死体は死を迎えその死肉のなかで息絶えるまでの時間をすごす寄生虫
破壊が終点になっていては自殺と同じ。滅するまでの時間の猶予を楽しむ高尚さがあるのならばそれもまたあるかもしれない。
政府を攻撃するということは、政府の代替があるか、停止した隙間になにかをするのか、停止させる必要があるのだとしたら停止時間が発生する。停止の時間帯が虚無であってはならない、連続性に意味を必要とする社会の規範としてはそれをゆるさないので、そんな隙間になにかをすべきとかなにかをすべきに停止時間を作るのは非常に非効率である。
「その時間、なにをしていましたか」という質問に「なにもしていませんでした」とは答えられないのだ。なにかをしていて存在していたことを証明せねば社会機能を充足できない。
今年15歳になる子供は14年間存在していなかったが、今日あらためて突然ではありますが私の子供として存在させることになりました、とはならないのだ。
移動区間、料金、時間、対象、何にでもすべて連続性が充足していなければ延々と説明を求められ証明されなければ、証明できなかったものとしての扱いを受けざるを得ない。
システムを止めてなにかをねじ込むこじ開ける取り出す、というのはシステムと共存する上では非常に非効率な選択だ。
ならばシステムに分け入ったほうがはやい。組織の人間を潜り込ませるのが一番だ。

では破壊はどうか。お金を刷っている期間を壊すという意味は何か。金の卵を産む鶏を殺す理由は何か。
かわりの鶏がいるか、その肉を食ったあとはもう死んでいいのか、鶏がなくとも金が手に入るのか、だろう。
そのセンスや構造、取引の仕様で人気の任侠ものというのは他人を直接的利益ではないもので突き動かすことができる。
男気がみてみたい、かっこよさ、などで気軽に体現できているだろう。日常でも小さくそれはまぎれている。
神を奉ったり様式にのっとったり、それをもって相互理解相互認識を深め共感のもとに充実感や使命感を感じることができる。
組織体として個を評価し自認させることができるシステムだ。
公的な組織も評価制度はしっかりしておりそんな自己満足感ではなくかなりきびしい評価制度がある。そのため組織の上下関係がつよいところもある。

そこで、宿主を攻撃する意味などもとよりないが、攻撃する輩がいるとして危険を流布しその対策として自分たちの活動を売ることができる。
さくらやしこみといったものから巧妙なものまである。
実際に危険な行動を本気で起こすという人間は、それでなにが変わるのか結果その先にはなにがあるのか自分でその理想を追い求めた結果行動に至るわけではない。
何者かによって相対的にどちらかの方向に進んだだけであって、それを絞り込まれ加速させられたのは何らかの影響によるだろう。
実際にその先の向こうの風景がみたいのに、そこで息絶える選択をするはずがない。
自分が息絶えることによって完成する何かが約束されている、その約束自体がすでに報酬であるという取引のなされたものが行動を起こすことになる。
自爆テロを行う自爆者本人は、自爆すること自体が目的であってそれで傷つく人、傷つけるという驚異、それを守る活動の必要性、それを起こすことができるという威圧とは関係がない。


行動する本人というのは世間も世界も関係なく、それがどういう影響をもたらすとか、自分をコマとしてデザインするような人間なのだ。
自分が写真の作品の中に入ってしまうのは愚の骨頂だと揶揄された荒木経惟はそういう構図をみて言われていた。
全体の構造図を書いている本人がその1ピースになっていれば、できる役割はその1ピースのみだ。
すべてがその1ピースの予定調和である、というつくり方で監督が主演することもある。
おおよそ物語というのはひと塊のなりたちをしめすものだ。
それが自分の精神世界で終わるのは行動者本人の特徴である。それをさせるための準備はすでに多くある。
金であったり名声であったり満足感であったりするもの。それらは相対的であるものという見極めができているものからそれを与えられ、それのために行動をすることになる。
常に繰り返される言葉や習慣でそれを培われたり、そこから見える風景の場所に立たされることで行動をおこしたりする。
こんなものはITだとか未来だとか特殊な技術や進化でおこるものでもなくすでに多くある。
ウイルスに感染してとか強烈な何かとかでもなく、町ですれ違っただれかでも日常的におこりつづけている。
ほれたはれたもそうだし損得勘定もそうだ。
2円やすいだけのガソリンを買いに5キロむこうまで買いに行くのはもう狂信者の異常行動だともいえる。
男前をあげるために、自分をしたってくれるみんなのためにとんでもない行動をしてしまう、それも普通の行動だといえる。
伝説にある何々に、などとあてはめ風景を見せるのは常套の手段。

むしろネットがよりその情報を分化し分散し個が個別にその理由や満足を追い求めることができるようになっているはずなのにテレビでみたとか通信でまわってきたとかそれだけの理由で行動を選択するのがおかしい。
ネットのレビューが絶対と化している狂信世界、などは大手ネットショッピングサイトで見れることだ。
テレビをみてウイルス感染、というのは寅さんの民放番組をみてとか健さんの映画をみてとかで男気に感染するのも同じだ。
啖呵を切ってしまうのと特殊な兵器で事件を起こすのとは全然違う、とはいえない。特殊な道具があればその安全装置を外すのと啖呵を切るのはさして難易度に差はない。
むしろ啖呵を相手に向かってきるという難易度のほうが自己満足のためにトリガーを引くよりむつかしいかもしれない。

そうなると問題は「ネットで簡単に最終兵器が手に入るようになった世界」のことだろう。
社会という組織が破壊すべきとして行動するだけの価値があるものとして機能していたとしたら、危険物の流通、物理的移動に監視があるはずだ。
それをかいくぐるためという設定を安易にする魔術が政府の、や特殊な組織の、である。
経路さえ確保できれば、マシンガンを雑誌の隙間に隠すことができたらいまどきの青年ならすぐに魅せられた風景のために乱射する。
道具さえなければどんな妄想も火を噴かないのだ。それを揶揄したのがレモンでテロをするだとか花でテロをするだとかいったものだ。
武器さえあればみなどこにでも攻撃をする、みなその攻撃におびえてつつましくあれと昔の俳人は歌ったものだ。
そのつつましさを進言するという傲慢さを心得ていたかどうかはわからないけれども、それ以上扇動することで自分の世界の浅さを気づかれまいとしていたことが文化として評されるところだったろう。


これをいかに語ろうと結局は八犬伝だとか12使途だとかいう型になぞらえることでその候補を都合することはできるし武器さえもたせれば彼らはすぐに行動する。

ネット時代のなにかが漫画のような理想を行動することができるか、と思考実験するのであれば

「実際にその武器をどうやって手元に届けるか」ということであって、この命題はずっとうやむやにされている。
それが安全のためであるとしているのか想像の限界かはわからないが、思考実験としてこれをはぐらかしていることでそのジャンルは延命しつづけているのかもしれない。

日常の道具がいかに兵器にかわるか、というのはいかに入手されたものが武器に変形するかという経路直結の思考実験ではある。
ある日突然普通の高校生が異世界に転生したり、ヒーローアイテムを手に入れてヒーローになる、事故でヒーローになるといった入手経路はおきまりだ。
もし一丁の拳銃をひろってしまったら、という状況を可能性の転換としてきまじめに思考したものもある。

いつも身をなげうって行動するのは、末端のそそのかされた人だけだ。
心地よい風景の見える場所に立たされて、これを振ってみな気持ちがいいから、そううまくいったねという声をかけられて手に持たされたなにかを起動してしまうだけだ。


事件の話でいうと、あなたは醜くて不幸ね、残念で行動もできない、そうできることといえばみなと同じ銃をもって車を運転することだけ。
それを私に向けると、力なくあなたにひれ伏すことになるけど、それはしないでね。紳士さん。といえば
紳士という言葉にムカついてしないでといったことをすることで一般が非常になるという満足をもたらすことになる。
これは組織化するものでもなくそういう思想の完成を示すものでもない。情報ウイルスではなく、情報麻薬だ。
それを行動することで満足する自分というのを表現するに至った。非モテというストレスを持っている人間は、それを物理的に押し当てることで大きな音を立てて破裂することを示したのだ。
その音がきもちい、その爆風が気持ちいい、と共感するであろうどこかに届かせるに至ったのだ。
燃やした野原の煙をすったらトリップしてしまったのと同じだ。どの草をどうやって焼けばいいにおいがするのか研究が始まってしまったのだ。
行動した人間の人生は終わってしまうし、現に終わっている。終わりを伴う選択肢であることもたしかだろう。
心に可燃性の負の領域をもっていれば、それを再利用できますよという情報の麻薬が調合方法を投げかけたのだ。

銃と車があれば同じものを調合できる、それがどういう酔いをもたらすかという情報それそのものが麻薬といえるかもしれない。
だが反面、それをみて警官を目指す人間も政治家を目指す人間、教師を目指す人間も出てくる。
それを繰り返させないため阻止するための人間もでてくる。副作用や反作用だ。爆風は対象を吹き飛ばすがそれを起こした側も吹き飛ぶ。


それらを踏まえて、攻撃は消耗品、武器は消耗品である。攻撃を担当するものも含めて攻撃事態が消耗である。
指揮官が直接武器をふるわない、最も思想を重視し教えを広めるトップの人間が自ら行動したりしない。
行動したものはその時点で消耗される。消耗品を必要とするのはだれか。消耗してなにを得ようとしているのか。

人が狂気にいたるその最後の一歩の武器を手に入れる都合をさせてあげているというストーリーに至るほど陳腐なものはない。
その点Fateは都合よくゴールと武器を準備してさあ各自テロを起こせという陳腐で稚拙極まりないストーリーだが
ご存知実在の英雄が伝説のディテールとなる武器や技をつかって行動する、その動きの描画のための土台でしかないストーリーははっきりいってあってもなくてもいい程度だ。
ディテールだけでそこまでひっぱることもできるだろうし、登場人物に魅力はなくともそれらが存在していたという事実や存在させられているという悲壮感を物語にするものもある。


実質武器の入手経路や、行動寸前の人員を見出すネットワークが不明なところがストーリーの底ではある。かといってあまりに本物志向でも問題がある。
インドネシア映画のザ・レイドシリーズのように構成に完璧がかった恐怖は娯楽ムービーとしては、完成度が高いがゆえに下村勇二監督RE:BORNのほうが超能力自慢を女子供にしてしまう主人公だとしても映画としては楽しめたりもする。
娯楽としてはその程度でいいという線はあろう。


ただ原作の士郎正宗の作品の楽しみ方としては個人的にはあのディテールの細やかさがオヤジギャグのきつさほどに感じられる関連性、動きを効率的にと連動させることで言葉や部品や動作がつながる様子。
部品が構造をなし構造が全体の方向性を示しそれが反発にぴったり符号して力比べをするような、フリースタイルバトルのような、ダジャレのオンパレードのような小気味のよい効率性について言及されるべきがファントークとしてあってほしいと思うところ。
戦車がでてきてかっこいいとかネットワークにウイルスがというなら別の漫画でもよかろうと思うところで、素材として士郎正宗をつかってするほどの議題ではないと思うが、そういうところにも例としてあてはまる作品のつくりというのは柔軟さとして価値がある。


日常からただの人が凶悪ななにかに転ずるのは、手に入れることができたという転機だけというのは古くからある話でいいかげんそこから先に話がすすめばと思うし、日本はすでにその手に入れる機会を奪うという安全対策を行えているのでわかっていることではあると思う。
人はなぞらえる穴を用意されたらそこにすっぽり入ることが好きだし、目の前にさかなをちらつかせられたら飛び出ざるを得ない。それをうまく韻を踏んで漫画にする士郎正宗の作品をふくめ昭和に誕生した多くの著名な作家によるファントークからの気づきなど期待したい。

だれもが初めに光ありきと偶像を作った時代、ネットワークの集合体がいかに膨大になろうともそこに一点の像がなければ寄り集まれもしないし動くことも存在することもできない。攻殻機動隊はそこに生き物がうまれたという点をつくった面白さが、いまやどこかに消えて語られないのは少々ものたりない。