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選挙に行ってる?

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日本は平和なのでそういう気持ちにもなる。
大きな職責を背負った人間の近くでいきなり奇抜な行動をしても
周りにいるのが全員気心の知れた自分の住んでる国ニッポンの同じ国民なのだから
みんな納税者なのだから、平等な権利で表現の自由は守られるべきだ。
そう考えもする。自分の視点からでは。
しかし自分の身の回りを見渡して、自分の時間を過ごしているときいきなり騒がれたらどうだろうか。
苦言を申したくなるのではないだろうか。
一般市民で休暇を過ごす自分の担う責任はむしろ外部に負わせるほど軽いものであり警護を要するほどではないと思うが
平等であるべきというなら警護を雇うかそれに見合う説得力を以てして税金で働く方を警護につけるべきだろう。

 

そうはいっても、そんな理屈は理解したとして、対象が独裁者だから、間違っているから、私の知っている真実を伝えねば
ということで近接するタイミングでなにかを表現する必要がある、自分にはその使命が歴史的にみてもあるとして行動するなら
行動するまでの自由はあり、それを想像したからといって特殊部隊が未来に起こることを阻止しにきたりはしない。
独裁者であろうと間違った政治家であろうと、それを生み出してしまったのはその巨大な政治機関が独自に民意と関係なく稼働し
決定されたものではないはずだ。選挙で選ばれた人物なのだ。
ならばその独裁者を生み出したのは国民そのものにほかならない。ならばまず文句を言うべきヤジを飛ばすべき、侮蔑や改善策を申す
相手はまずその花を咲かせている土壌にではないのだろうか。
生育環境にほどよくそろった土壌にならば何を植えてもそうなるのではないだろうか。
育つたびにそれを刈り取る役目だとして永遠に就業が確保されている政治批判の終身雇用でも狙っていない限り咲くたびに花を毛嫌いする意味に価値はないだろう。

 

その1票がくべられる間、あなたはなにをしていたかということだ。どの候補も1票からなっている。それが票田として土壌を肥やして花を咲かすのである。
民主主義というものについて疑問や真実をもってあらがうということの方法については具体的に小学生のころから学んでいるはずだ。
それは小学校や中学校が義務教育として存在する価値の高い産物だ。
一本の矢なら、こう、こう、こうやって、はあはあ、何とか折ることができなくもないが、三本なら、ううー、というあれだ。
結局一本ならば折られてしまうのだ。もちろんヤジや罵声もそれを狙っての事なのだろう。一本なら折れると、みこんだから、相手が一本の時に自分が一本でも折りに行けると見たのだろう。
そうやっておられないために仲間をつのり団体をつくり支持者をあつめるのだ。あたりまえのことだ。政治はそういう形で民主主義だということは目に見えているものではないだろうか。
それを知ったうえで、それが覆る瞬間までも理解して、そこにつけいってみた、ということは自身の主張するすべてをすべて否定する形で実行していないだろうか。

 

その候補が将来独裁者になるかもしれない、なってしまった、などという結果もありうる。そんなことは想像していなかったしそうならないだろうと妄信もしていた。
仕方のないことである。未来になにが起こるかは誰しもわからないのだから。だからなにもしない、という手もある。それが今日の結果になったということも理解はできるはず。
そうなる前にできることがあるはずだ。もし独裁政権として樹立されてしまったとしたら、それに対抗する組織として準備しておく意見群を形成しておくことだ。
それが主にになるから、邪魔になるから、カウンターウエイトのないスムーズでスピーディーな組織が最も望ましいとするならば、それを排除したくなるだろう。
安全装置のないプレス機、安全機構のない自動車、ブレーキのない自転車、それぞれどれも性能を生かすために実際に存在するものだ。
では政治はどうだ。まだそうなっていなはずだ。皆に一票はある。のざらしの一票はすぐ折れる。その一票をもっていっておまえの一票とおなじなのだから対等に会話をさせろと
やまもりの一票のうえに立つ人間に会いに行っても、足元におちているその山の一票とあなたの一票が同じなので近づくことすらできない。
ならば同じく表を踏み台にして意見をいうところまで登るか、自分の一票を踏み台にしてもらってだれかを高みに立たせるかを選べるのではないだろうか。

 

票を募る人間からみれば清き一票重要な一票、その一票がなければあと一歩その先に手がとどいたのにという瞬間に遭遇することもある。そういう視点なのだから
一票一票と1の数字がいかに大事かを連呼する。買い物にいく立場としては1円でも足りないとかえないのでおなじ重要性を感じるだろう。
だが一票ずつを持っている側としてはどうだろう。この1票が何の役に立つと言うのか、現にいまえらいおなじ人権をもっている一人の人間に近づくことすらできないではないかと
そういう意味で平等と自由を憂いてこんなものの意味は、と考えめんどうなものを持ったものだと自分の責任について考えるのをやめてしまうかもしれない。
確率でしかないなら、数で打ち負かすしかない。その数の1に加わることができ、面で制圧するために数を乱れうつなかの1の票が自分のもので、それが敵の核心に達し
こちらの目的を達成するに近づくことがあるかもしれない。たしかに自分のではなくてもそこに打ち出される票はだれかの票でもあるだろう。

 

しかし、何度も言うが三本の矢である。あなたの矢はそう簡単におられないようにさまざまに権利も自由も守られている。使い方も自由だ。
あなたからみてだれかのその一本の矢が間違っているようにみえる、是正すべきだと思えるようなものであることもあるはずだ。首相がそうであるとか、高官がそうであるとかもあるかもしれない。
同じようにだれかからみるとあなたの矢も間違っていて直すべきで、むしろ折るべきだといってくる矢もだれかが持っているかもしれない。
そうなったとき、一対一で決闘したまえ、というの道理だとすれば、一人の自由な意見と権利は守られるべきだろう。決闘主義として主張すべきだ。
なんでもなぐって解決する、こんなシンプルでわかりやすい世界はない。判りやすい政治というものを選ぶならこれを選択すべきだろう。
しかしあまりにわかりやすすぎて自分も殴って押さえつけられる側になるということも想像しなくては片手落ちだ。
いかに気持ちや文字で人を集めることができるか、その同意の数で競おうというのが民主主義というものだろう。他人の票田の山の上に立っている組織の長がいかさましていようが
妄想で断っていようがその票田が育てた理想の像がそこにあるのだ。それを祈ろうと折ろうとあまり意味がない。偶像に意味はないのだ。その形を成しているのはその田そのものなのだから。
その田を耕す手間を惜しんで人の作物を恨んでも、意味はないだろう。

 

我々は自由だ。その他人の作物を呪っても叫んでも、だいたいは放置される。駆逐されずにその恨み呪ったなにかが作り上げた大地の上にねそべることができる。
ただその他人の土壌の上でそれを否定すると、その土地はいきなり牙をむくであろう。それは安全措置であり、あなたがもし土地の主となったらその迷惑行為を
自分の土地でおこなう輩は追い出したいと思うだろう。いかに敵で土地代をはらわない害悪であれ命なのだから、私の土地を好きに使いなさいといえるほどの寛大な心があれば
別だとおもうが想像することができない私をお許しいただきたい。
自分の土地を耕して、迷惑でない他人をそこに招き入れ、そこで臨んだ作物をつくる。単純で古来からずっとある作業だ。
これを選挙として再度まみえるこの度、いま自分がなにをしているのか改めて考えてほしい。

 

国会でヤジを飛ばすのは許されているのに街頭でヤジを飛ばすのが許されていないなんて言論の自由を踏みにじり言論統制だ。
ヤジという物質がありそれが存在するが故その物質について絶対的に存在というものを問うならそうだろう。
だがヤジは行動であり状態であり表現の認識だ。
国会でヤジを飛ばしている人間も国会議員なのだ。国会議員であれば国会でヤジを飛ばしても大丈夫なのに俺は国会議員だが街頭でヤジをとばしたら警官が飛んでくるのはどういうことだ。
そういうならまだ若干説得力はある。同じことを中東でしたら平気なのに日本ではなぜ、というのと同じである。トイレでしていることをここでしてもいいはずだ、という事の無意味さを
知るために基礎知識を養う義務教育があったにもかかわらず、不登校で自由を革命する権利を容認されている現状、そういう人間が発生してもおかしくはない。
ヤジを飛ばして言論の自由を訴えるのもいいだろう。
しかしそれは権利を自由を持ち合わせている自分がだれなのかをはっきりとさせ、その場で発現する権利があることを確認できるべきではないか。
たしかに公共の場所で自分が思ったことを声高にいうのにタイミングなど気にする必要は自由のなかには存在しないかもしれない。
しかし、言論の自由をもってしてあなたが痴漢だといきなり指さしていい自由があるだろうか。
それは小さな閉鎖された空間で、その行為を望んでためすという場面、舞台劇や文化的表現、その他娯楽の中ではあっていいものだろう。
ただそれを今していいか、今するか?ということについて、あなたがされてみたら、いったいどのような処遇を望むだろうか。


望みを達成するためには、まず選挙という結果にいたるなにかに関わっていくべきだろう。