読まない。

書くだけで読まないブログ。

人気読み切りまんがのアレ

 

 

人気読み切り漫画が発売されるそうだ。
すごい。
人気が出た端から売れるのだ。おそらく買われる。
先に公開していたものは無料だった。それでも売れる。
衝撃的な内容で多くの有名ブロガーがインフルーエンスすることでとても閲覧数があがった。
閲覧されたからといって商品として価値がないかといわれると、人間の記憶力がそんな程度のものではないところが商売になるわけで。
何度でも見るために買う。というか見ても同じ内容のものも複数買う。なぞである。なぞではないのだけど、そういう事で売れるというわけだ。
この後で回収という舵取りをすることができるのは、すごいと思う。
商売でいうと売掛をできるということだ。
信用があるか資本があるか、またはそのどちらかという土壌があってこそだろう。

 


そこでその人気漫画のなにがすごいかということを、私もいいたい。
細部にわたって、いろんな描写が、すごい。すごいらしい。
私にはわからないが。
私には、とりたててそこがすごいというところがすごいのかどうかがわからないのだが。
ダビンチの素描やピカソのデッサンをみて「写真のほうがリアルじゃない?」という感覚くらいではあるが凄さがわからない。

 

正直にいうと、数々の藤本タツキ氏の漫画のレビューにおける絶賛は「エロ漫画にも濃くて深いストーリーがある。エロだけじゃない。むしろエロはおまけ。」と言っている気がする。
凶悪な犯人が親友の命を奪い去った、こんな描写は史上初だろうか。
その必殺技的ストーリー展開は、人間の脳回路の判断基準としてどのあたりの神経を撫ぜるのだろうか。
私はエロと同じ部分ではないかと思うのだ。
本当にエロぬきでその漫画を買うのか絶賛するのかと、少し疑問に思うのだ。

 

たとえば、ネタバレなのか置き換えて同じだということがネタバレになるのかわからないが、言い換えると、問題の加害者が命を基軸にふたりをつないだものとされている。
主人公が二人いて、その二人をつないでいるのが命だという、命というものの立証に使うのが時間であるという展開だった。
これを、二人の繋がりを一人の憧れの先輩とか同級生への恋心として、その人がふりむいてくれたかくれなかったか、結婚したかどうかみたいな分岐にしても意義としては同じになったかもしれない。
これを異常な人間が、物理的に分離したという展開。
青年誌むけであれば、先輩が精神的に分断する話にもなったかもしれない。ことに噂になる芸能人の人間関係の話題などが時期的にあがっていればそれをモチーフにしたとして騒がれ注目されたかもしれない。
ただ、芸能人のファン層と漫画の読者層の間隔が近いとは思い難いところはあるので、批判を多くうけたいわけではない場合選択はしない味付けだと思われる。
エロでいくなら裸をのせる、そんなシーンなのだろうと思う。
べつにエロ漫画でも一切エロなしでも表現は可能なはずだ。それでも特定の刺激と話題性を引き出すために入れる。入れなくてもいいことがわかっている読者でさえもそこを期待する。
味付けとはそういうものなのだろう。

 

たしかに話題になったからという段階から商品にするという報酬を用意して、作家の自由なポテンシャルを展開できる場所を用意してあるというのは、プロ漫画家の副業、といっていいか本業の副産物というものなのか、それをいかせるサーキットを用意してあるということではないかと思う。
この仕組みはすごいと思う。

 

ただ藤本タツキ氏の漫画については、そんなに絶賛するほどの裸体(刺激的表現)だったかという気は、個人的にはする。
エロ以外にも重厚なストーリーがある、としてその手にもっているのは「エロ本」ではないかと気になる。
なぜわざわざエロという分野に重ねて置き換えるかというと、その話題の部分が「センシティブな話題にふれたから」ということだけしか理解していない人も、そのコマをみて出てくるのではないかと思う所もあるからだ。
裸になればみんな読者は目がハートになるのでしょう、という感覚だ。じゃあ裸にするためにはどういうストーリー展開が必要なのかという思考はなしにしても、ストーリーなどなくても裸は売れる。
事件の真実だの、真相だの、裏側だの、関係者だの、親族だの、遠縁だの、世情だの、時代だの、いくらでも関係させて関係ないことかいても、話題にはなる。
それが良いというわけでもそこが悪いというわけでもない。
味付けの仕方が、オムライスにハバネロを選択したというシェフの腕前の話だ。
少年誌に少女二人の情念のからみあいを、エロにするか、事件にするか、淡い思い出にするか、人の情けにするか、そういうシェフの腕前に刺激的な一味があったというわけだ。
オムライスにハバネロというか香辛料などありえない、子供がたべたらどうするのか、アレルギーの人への配慮は、人としてどうなのか、など意見もでるだろう。
もちろんオムライス好きがもうひとつ刺激がたりないと感じていたところにそれに出会うと、感動かもしれない。無限おかわりかもしれない。
かもしれない、ではわからない、けれども出してみて人気なので、みんな食べた後だから満腹の人にオムライスがうれるわけがない、とはいわずに販売を開始する。

 

端的にそういう仕組みであるという現在現状の現代に、現代らしさを感じて世代や文化に面白みを感じる。そういうものでもあるし、それだけの話でもある。

 

さまざまに細部にわたり解説や考察や参照をしている人もおおく、それで話題も多角的に多方面なので結果人のいる所に流れだし拡散された結果、消費する人数が比例して多くなったのは現実的に結果としてそうなのでもあるから、そうとしかいえない。
感じ方もさまざまで、もちろんそれを問題視する人間もいるだろう。
しかし、何が問題なのかを明確にできていない。それは何がいいかを明確にできていないからでもある。
それらが具体的なものになるのは来週かもしれないし、何千年も先の話かもしれない。そうやって知って覚えて伝えて考えて、人はいつか答えをみつけるかもしれない。
答えのみつかっていない事などやまほどあって、それこそ知っている事のほうが知らないけれども目の前で起きている事の数と比べると驚異的に少ないかもしれない。

 

私には氏の作品はそう見えた。私の目と脳がそう見たのだから私にとっては真実だ。私の真実をもっているだれかがいるのなら、その人の意見が違うのなら違うのだろう。
しかし私が私一人しかいないのならば、それは真実だといわせてもらう。偽物だという証明が私からもたらされない限りは真実であるだろう。
その真実は人の数だけそれぞれにあるはず。他人がそれを触れることなどできないのは言わずもがなである。
わかっていてそうなのか、もしかしたら手が届くかもと思っているのか、本人の手でそれを移動させようと干渉を試みているのかわからないが、他人の心を批判しようとする人もいる。
それができたら争いなど起きないだろう。
ガラスのむこうのコインの山には触れることができないから、手がとどかないから、台をたたくのだ。
より強い叩きや言葉、態度などは、その無力さの分だけ強く大きくなるだろう。その形容表現は昔からあり、多くあり、みんなもよく知っているだろう。
もとより人は以前からそうだったというなによりの証拠であるし、人はそうなるべくしてなっており、これからもそうなのだということだ。

 

いずれもふくめて、人のありようとはかくも日々を楽しくさせるものである。

いじめやリンチのいけないについて

 

 

社会的な制裁や私刑やネットリンチや、ほかにもいじめや差別はよくないのか。
本当にそれらはよくないことなのか。

 

よくはないだろう。良い面と悪い面はもちろんあるだろう。陰陽あいまってなんとやらみたいなもので、毒だって使い方では有用だけどそれを毒だとしかいわない物だってある。
いじめはいいことなんかないだろ、と言うのもわかる。たしかによくない。じゃあなぜその良くない事をする人間がいるのか。
良くない事をわざわざする人はどんな人なのか。人がしない事をわざわざしてくれる人なのか。その人の貢献や献身は、一体何の意味があるのか。
よくない、で思考停止しては、いじめをする人はいい人だ、ともなりかねないのではないでしょうか。

 

いじめの良い部分をさらけ出してみよう。たのしい、快感、愉悦を感じてストレスを軽減できる。社会的にかかってくるストレスでつぶされないための健康法である。
だからするのだろう。タバコも酒も、毒をすってつらい目に遭って病気になってお金もかかって死んでいく。ただつらいだけの事をなぜするのか。気持ちがいいからだろう。
気持ちがいい事は悪い事か。そうなるとイジメられる側や虐げられる側が気持ちいい事がぜんぜんないのは、良い事なのだろうか。つらい目に合わせるという事がいいことになってしまわないか。

 

一方向だけで接続するとそんなところだろう。もちろんそんなことは紀元前3000年ごろにはもう考えられていてずっと同じ説明を前提として、陰陽だの光と影だと一対だのと言われては来た。
使いどころだろう。
有名な学者の論や本や学会の成果や論文で、通説や実例や実験結果や科学的な反応でそれらは言われているとか存在するとか認識されているとかはあるだろう。
そんなものは並べてもアマゾンアフィリエイトにしかならない。それらで防げるのは銃弾と刃物だけだ。
実際にもう5000年間、人間はその構造を変化させることに成功していない。いじめられっ子はいじめられ、いじめっ子はいじめる。社会的制裁は行われリンチも行われる。
じゃあこれを何々理論として、人の未来を憂うとしたらどうなるのか。どうにもならない。ただ食い扶持の日銭になるだけだ。

 

人はいけない事をおこなうし間違いもするし失敗もする。出来心もできてしまうし勘違いから過剰な行動もする。それはみんなするのだ。
暴力的な心理状況を起こすことがある人物は、どういう環境やどういった過去でつくられどんな状況でそれを加熱させ実際に行動に起こすのはどんなところだ、とわかっていたならその結果までの経緯を満たしている人間を「処罰」すればいい。
そうすれば減るだろう。
しかしそれでは減らないしなおさら増えたりもする。なぜだろうか。

 

いじめは、いい。ストレスの解消になるから。
この「ストレス」を社会生活でその規範に完全に則って失敗すれば制裁されるとしたら、育んでいないか。
いじめを発生させる原因のストレスを規律によって発生させることで防ぎたかったはずのいじめが増えるのではないか。
では自由にしよう。
自由にするとなにをしていいかわからず、かといってわからないことに踏み出すストレスにも耐えられない。
最も手軽で自分が実行でき、かつ楽しい事。それは力関係だろう。
暴力を抜きにしても順位をつけたり得意を披露したりほめられたり、順位をつけたり。その順位はどうつけるのか。
負けようがない勝ちだと物理的に見えて確実なもの、それは相手が負けましたという事だろう。
毎日、負けましたと言わせる、ふつうにこれがいじめではないか。
自由にしすぎるのも、結果自由というストレスから発散先を探してしまうのではないか。

 

いけないことはいけない、もちろん悪いことは悪い。いいことをしてほしい。いいことをすべきだ。
いい事をするのにはストレスがないのか。不安はないのか。出来たらたのしいうれしい満足感がある。達成感がある。やるべきだ。
だけれども、失敗したら責任を追及されたらしても意味が無かったら無駄だったら、そんな不安が行動を抑制するに充分に機能する。
できないストレス、したいストレス、ストレスだけがたまって結局方向性もなく爆発したいという意味のわからない情念だけが生まれるのではないか。
その方向性のないプラズマみたいな熱量は、さあ叩きましょうと先導されるとすぐ伝導率の高い経路をみつけた電子のように寄り集まり熱をもちそこでストレスを感じるとしてもなんとしても流れようとするのではないか。

 

ネットリンチはよくない。
よくないからダメだ。
ダメなものは禁止しよう。抑制しよう。しようとしたものしたもの、されるものを規制し隔離し安全を確保しよう。
もしもストレスがたまったら行ってくださいね。たまりきらないようにお話して、治療しましょう。
つらかったらいってくださいね。痛かったらいってくださいね。
大丈夫ですか?
そんな方法で大丈夫だろうか。いちばんいいのをくれといわなくても、そんな方法で大丈夫か、と気にならないだろうか。

 

ネットリンチや私刑やいじめはよくない。
よくなものは、どうしようか。
減らしたり、無くなるように努力してみてはどうか。それはいいんじゃないだろうか。
そのための手段はどんなものを取ろうか。

 

「ダメ」といえばいい。
そうだったろうか。
ダメとは言ってなかったか。ダメとして抑圧して圧力をかけ制裁をし批判をしたのではなかったろうか。
ではネットリンチや私刑をしている人たちは一体どんなことをしているのか。底意地のわるい仕組みをつくり人が陥れられるように誘導し構造を先に用意しておき迷い込ませ苦しめているのだろうか。
ふつうに真正面からダメという言葉を投げつけているだけなのがネットリンチで私刑ではないだろうか。集団でダメという言葉を投げつけるとうけるダメージやストレスとは何だったろうか。
同じ事をお互いにしているのではないか。
お互いに石を投げ合っていることが切磋琢磨で洗練というのなら、そこから生き残った人はきっとすごい倫理と理論の持ち主なのだろう。
一番たくさん石をなげて人をころした人から、理論と哲学を聞いてそれを倫理とすればいいのではないか。

 

そう考えると「ダメ」と否定することは、建設的だったろうか。
先の文章に入れていた「ネットリンチの否定を正面から投げる」ではない方法に例としてあげた、誘導や陥れはどうだろうか。

 

てっとりばやい毒でもいいからストレスを解消したい、そういう人間がでてくることはおそらくその5000年ほどの人間の歩みの中で文章にされたものや語り継がれたものなどに記されているのだろう。
どんな場所でどんなストレスが発生して人はそれをうけてどんな行動をしてしまうのか、さまざまに史実や理論があるのだろう。
そして、その人たちを否定しよう、となるとその否定としてせき止められ抑圧された熱量や勢いは、押し固めればかためるほど冷えて無抵抗に消えていくのだろうか。
歴史がそう示しているのだろうか。バカで幼稚でも、そういった感情を芽生えさせたりそう感じたりするのだろうし、そこから行動もするだろう。
それは賢くなると感じなくなるものだろうか。サラリーマンが定収入で重労働しているとき、これは社会貢献だと快感になるのだろうか。また、それを快感としていいのだろうか。
バカや幼稚、というのは直情的で参照情報が少ないものだと考えるが、そんな人ですら思考をめぐらせずふつうにストレスを感じる事、それはも原罪的な原始的なストレスではないのか。
ならばどこまで人間が高等になろうと、同じストレスは感じるはずで、それを感じない奴隷のようなサラリーマンはさらに高尚かといわれると、はたしてそうなのだろうか。

 

バカでも幼稚でも、ストレスを感じたら自然と放電できるしくみ、それこそが高等で高尚に進化した人間の英知の結晶で開発すべきものではないのだろうか。
「ダメ」として抑圧すること、それが人類の知の極みなのだろうか。

 

バカを逃がす避雷針、それはもちろんあっただろう。ロックやポップスで酷い最低な行為をして笑う人たち。クズでひどい話だが、だから規制して強制して社会的に合格点がとれるまで閉じ込めるか。
そこにバカがあつまるのではないか。そこに集めておけば、あふれ出ないのではないか。バカが単純に簡単に考えて、思考をめぐらせず直情的に反応するものごとを、もしそれらの目から隠したいときは、どこに置くべきか。
ロックで馬鹿で狂気の集団がクズども集まれとしている場所の反対、その裏側、そういったところに見られたくないものをおいてはどうか。
たとえば、500円玉が右手の中からきえたようにみせかけて実は自分の財布にいれたいとき、左手を雄弁に振るわせたりすると、右手のみられたくない行動は視線を免れないだろうか。

 

住み分けて、誘導して、それぞれのストレスがそれぞれに減るように、まざらないようにする。お互いに誘導しあい回避しあう。流れの中のものはいつかそれを違う方向にかえるかもしれない。
肯定する中に肯定されるべきものとして、それぞれを存在させて、お互いの存在をお互いであるという以上には認識しない。
ゾーニングとはそういうものではないか。
肯定しあうことで住み分け共存しお互いのストレスを増幅させずに安全に解消させる方法、それが区別ではないだろうか。

 

ただ、気が変わったので違う区別に入りたい、そうなる時期もあるだろう。
そんな時には自由が必要、それを認めて移動をさせるべきだろう、それこそが自由だろう、という意見もあると思う。それがはたして自由だろうか。
学校でそれぞれしたいことをしたいようにすればいい、するものの自由だとしたら、ストレスを感じないだろうか。
そのストレスを、結果、自由にどう解消すると考えられるだろうか。
混ざる側、混ぜられる側、それらはストレスを感じないだろうか。どの規模でみればいいのだろうか。
個人ではそれぞれに意見はあるだろう。聞かずとも否定的な意見がでてくるのは想像に難くない。

 

混ぜるとしたら混ざってもいい区分をさらに分類しゾーンをわける必要があるだろう。
なぜ混ざる権利を否定されるのか、否定はよくないと言っていなかったか。たしかに否定はよくはない。
しかしそもそもの衝突の原因を考えてほしい。異なりを受け入れられないから相対が発生し、相互に遮蔽するためにダメという板でせき止めるから、そこにあつまる勢いがストレスになり、問題を起こさせる。
異なる否定したいなにかの目的をそれぞれもっていて進むべき方向があった中に、それと同じだという要件を満たさないものを混ぜること、それこそが「ダメ」や否定ということそのものではないか。
ならば「ダメ」がいいのかわるいのか、ではなくダメと評されるそれがあるべき場所をつくるべきではないのか。

 

もしか性別の話ならば、性別の分だけ制度をつくるべきだろう。2派にわけるから右翼左翼みたいなことになる。年齢や時期的に変化する性の性別すらもあっていいかもしれない。
ただ、その性をえらぶのならば他の性ではないということを選択すべきだろう。男だが女だ、というのはストレスのもとであるということはその文字だけみても想像ができるだろう。

 

いかに分類をつくり住み分け、よりよい方向に整えるか、それは部屋の整理整頓とも同じだろう。
整った部屋と、整っていない部屋のそれぞれの特徴と有用な点と、問題点を考えれば組織体として望ましい運営の方法を、それぞれ個人が各々に独自なものを想像するのではないだろうか。
それらが解決方法の一つたちであろうと思う。
ダメなものを指さしてそれはダメだ、ダメというしっかりとした理論と根拠がある、といって突き刺す行為はもはやふつうに破壊的な行動と変わらないのではないかと思う。
破壊して解決をするのもいいだろうとは思う。
ただそれが、どういう行動や行為であるかは、当然わかっているだろうと思うので選択に際してもう掛ける言葉はないが、私がちがう種類だなと感じたら離れるべきだろうと思うし相容れなければ合わない所にいかねばと思う。

 

そういうことではないかと思う。

USBで接続するSSDの便利さ

[B! PC] 「このインパクトはすごい」「隔世の感」最近は1TBのポータブルの外付けSSDがUSBメモリ並に小さくなって1万5千円くらいで売っている - Togetter

 

USBで接続する記憶媒体で持ち運びができてロケーションフリーな作業ができることが昔から好きだったので、USBメモリやらSDカードやらいろいろつかっていました。
昨年くらいに小型で高速で大容量なSDカードが最終形態かなと思っていたのですが、内臓SSDより速い転送1000mbsとか書いてるものが目に入って、それを愛用中です。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B07QPYB463

 

これをつかっているのですが、とても速いです。快適。
他にも転送400mbsとかかな、そんな感じのものがお手頃でさらに遅いものは格安なので、記憶媒体として使ってます。
なにより速度が速いということは読み書きが自在というところがメリットです。
これをただ記憶媒体とだけして接続しておくのはもったいないかもしれません。
コピー作業が煩雑で速度がほしいという業務ならいいかもしれませんが、読み書きの作業って基本的にはほっといていいものかと思うので速度はとくにこだわらないと思います。


とりあえず特徴としてははやい、SATAの転送速度よりも速いとの事らしくストレスがないです。
大容量なので余裕、というのも大きいです。
PS5にも使っているのですが、とりあえず速いのはもちろんなのですが、すごい熱をもちます。
手で触れないかと思うほど熱くなります。
ただ、冷却するとすごい冷えるので全然あつくなりません。言ってることが謎ですがよく冷えます。
机がスチール製なら金属部分にべったりおいていると放熱してあつくなりません。
あと直接冷房の風をあてることができたら、熱くなりません。
とりあえず冷やすことをするととてもよく温度がさがります。
そのまま放置して熱をもたせておくと、PS5はとまります。熱暴走みたいですね。

 

SSDが大容量、というだけで速いのは快適、としてもただコピーして集積するだけでは速度がもったいないかもしれません。
私はキャッシュを書き込んだり、画像を作成するときの素材や履歴ファイル、一次保存の作業を書き込むのに使ったりしています。
作業の途中で差分を大量につくるのにも容量が大きくて安心、速度もはやくて作業を阻害しない、これはとても便利だと思います。
SDカードも速度ランクで上のほうはかなり速かったのですが、比べ物にならないです。
なによりSDカードはカメラ用途などのせいか、容量が大きくて速いものは希少で高かったと思います。


ほかにデータの読み書きが多くて作業をするものなどに使っていますが、長期間保存するものなどはやっぱりRAIDNASとかにしたりクラウドつかうほうがいいかもしれません。

またロケーションフリーで作業するためにも使っているのでこれ一つで自分では買えないハイスペックなパソコンを使わせてもらえる作業スペースで自分の環境を使う事もできます。
内臓SSDより速いとなると、ふつうにそこから起動しても遜色ない動作なわけですね。


中速、低速のUSB接続SSDも利用していますが、作業用、加工用などのデータ蓄積につかっています。
戦略的配置みたく、データリソースはNAS拠点、オンラインで兵站線が確保されているものはLAN経由で参照、局地作業で速度をあげるにはUSBで直接、参照データの煩雑さや動作環境を持ち込み速度をあげたい時は高速USB接続SSD、みたいな使い方になるかもしれません。
あんまり場所をうごかない人には、関係ない話かもしれないですね。

責任者を出そう

[B! COVID-19] 高 史明(TAKA, Fumiaki) on Twitter: "ワクチンについて「平等を優先させすぎて効率が損なわれるのは良くない」と言い出す→「不平等でも構わないから効率を上げよう」と言い出す→効率を上げるための仕方ない不平等というていで何故か政治家や財界人が優先して打ってもらえるようになる→むしろ彼らを優先するために効率性も犠牲になる"

 

だいたいのみんながそうなるから、こうなって、こうなるから、こうです、みたいな。
男性女性、貧困富裕、政治家一般人、有名人その他といったそれらがそこいらにいる、それで問題があったりなかったり、日常をすごしたり非日常に出会ったり。
それぞれの個人が個人ごとにチャンネルをもっていてみなで広げる円卓のようなインターネットに投げ込んだり引き入れたり、そんな活動の様子を宇宙からみたらバクテリアのそれとかわらないのではないでしょうか。

 

それぞれの意思を集約し大きな生物のように一つの動作にまとめ行動し原因を結果にまで押し上げるそんな構造が社会なのではないでしょうか。
役割の分担において不利益や問題が発生しないように、発生しても解決をよりよいところへ落ち着けるための仕組みがあるのが文明なのではないでしょうか。

 

誰かが言ったら、みんながこうするから、もしこうしたら、こうなるわけだから、とそんなものがわかりきっているなら無人化できるでしょう。
言われるということについて解決策を見出すことができるのは動物でも機械でも自然の流れでも無理、無理なものに手をくわえて都合を良くしてきたのは人間の歴史なのではないでしょうか。
なぜここで人間の歴史を紡がないのか。だって上から水を落とせば下におちるでしょう、下に落ちた水は上に上がることはない、だからできない、しない、それはただ状況を見たまま、習った言語で再生しているだけですよね。
水が上になんてあがらないから下がる量を制限して、また上に組み上げられる仕組みを作ろうといって作ってきた、無理を可能に変えてきたのではないですか。

 

大勢がそのみたままの自然を言葉にすることと、目についた文化や文明といった社会として人が作り上げたものをとりあえず傷つけ壊そうとすることが強さやかっこよさや賢さ利益とするような動きをするのはもうだれもが知っています。
良いことをしてよい結果に導けたとしても文句をいわれ責任を追及され英雄であることが半分とともに問題の原因であることも半分言われ続けることは目に見えていますし、だれもそんなことをしたくないのはわかります。
だれも好き好んで人のために尽くしてその人になんと罵倒されようともだまってその人の幸せのために尽くす、なんてこと愛する人にすら難しいのに赤の他人にしたいなんて思わないでしょう。
それをする役目があるんですけどだれか就かないですか、お給料は多めですよというのが政治をする人ですよね。良い顔する方法しか学んでいない人々がなかなかおいそれとなれる職ではないはずです。
それでいて、なっていて、誇りをもって職に就いているのなら、そのばかげた犠牲になる必要があるのではないでしょうか。

 

それをだれもしないことが恒常化し、それをしようとすると機能的に問題を解決し目的達成のための障害を排除したら軍隊みたい、戦争みたい、軍隊とか戦争とか日本の過ちでしてはいけない、と言われ、各個協力を要請したら個人の自由の名の下に集合しない。
無理やり整列させれば成立なんぞに意味があるのかと、無理やりはよくないのではと、整列しましたがはい次はまだなのか遅い不備と、なにも計画通りいかないことも予想は容易でしょう。

 

でもそれを相手にするのが政治に携わる他人のために行動する、そういう役職でありだれも押し付けておらずなりたいといったからなってもらっているまでのはず。
人気とりで良い顔するのは俳優やアイドルに任せておけばいい。彼らだって品評され投票され人気がでていろいろお願いはされている。
政治家がそれをする必要などないでしょう。嫌われて批判されて押し付けられても、その仕事を真っ当すべくとしてその役にまさになりたいと声をあげたはずではないですか。

 

責任者をおいたところで責任とりますってやめておわりじゃん、責任って具体的になに、とってるところみたことない、などもあるでしょう。
というかそれがあるのがおかしいのです。なぜ責任者が責任を追わずフェードアウトすることを望んで、それが責任だと言うのでしょうか。
責任とれ、というのと辞めろ、はセットになるべきではないでしょうし、責任をとって行動するような局面にならないために代表者に任命したのでしょう。
具体的なビジネスの戦略なんてものはこの時代にいくらでもあるので責任だの辞めるだのは例を出すまでもないかと思います。

 

葬式は生きてる人間のためにすること、墓標は生きてる人のためにあるもの、犠牲は生きてる人が生き残るためにされたこと、ここまでは近代でも一般にそういう考えがあると知られることとなっている。
責任とはなにかと聞かれたらやめること、はもう一歩先にすすんでもおかしくない時期ではないだろうか。やめる、とめる、きえる、しなくなる、はなれる、それで責任とは責任者が「問題のないときに得られる利益」を放棄するだけの話ではないか。
責任とは「問題発生していない時期を終了すること」なのか。それでは人身御供どころかひな人形よりも役割が軽いのではないか。
責任とはその文字そのもの、責めの任を受けることにあるのではないか。文句を言うのはだれか。それは生きてる人間でしょう。文句を聞くのはだれか、それは責任者でしょう。責任者が代理の人をたてこの人にいってくれと、責任をとってやめるのでもう言われても筋違いだと、それはもう責任ではないでしょう。
文句をいってくるのは当事者ではない声の大きな代理人、利益を横取りしたい無関係者、困窮している本人のごく一部、実際には声をあげられていない人にこそ手を差し伸べるべきであろうけれどもそれを覆い隠す量の迷惑行為。
それらの泥の沼に腰までつかって底の救済すべきをもくもくと救いあげる作業をすること、それが責任なのではないでしょうか。

 

もちろん作業的に責任者のとばっちりというべき作業を担う人員は必要だし、それらもあわせて責任の対象となることは確かだろうけれども、そのための期間も費用もあったはずだしあるはずなので、それらを整備することこそが責任者の職務であるべきだろうと思う。
そんなことは解っているだろうと思っていた、まさかそんな行動にでるとは予想だにしていなかった、という言い訳で責任をなかったものにしたり、行動する者にこそ責め苦を送るがだれも救済しない、そんな状況から脱する必要が、もうそろそろいいかげん必要なのではないだろうか。

中学不登校について

 

 

b.hatena.ne.jp


たしかに悪いとは思う。中学校に行った方がいいと思うし行かないことはデメリットだと思う。
しかしそれは今わたしが感想としてそう思うだけで実際にはいいもわるいもないしメリットもデメリットもない。
チャンスでもあるしロストでもある。そんなのはわからない。人間だもの。

 

ただ話題の彼について思うところが良い悪いではないところだとしても気になるところはある。
それは漫画の主人公がこの技をなぜそこで使わないのか、それは伏線なのかただ作者の以降なのか編集がそうさせたのか、というところに思いをはせるのと同じことではある。
中学校にそんなにいっていなかった、卒業ができる程度に通っていた友人は私にもいた。
中卒ののち、一年ほどフリーランスのライターのようなものをやってる人の所に居候し、結果一年ほど勉強して大学に進みひどくとおい地方の公務員として働くようになった。
どれも年齢的な好機を活用した形かなと思うしそれを逃さなかったことが生活を支える基盤となっていたのではないかと感じる。
それぞれの人生の設計をそれぞれが行うのは、自由だろう。

 

ただ学校にいかず動画に顔をだして、のちに資格や前提が承認や許諾に必要な立場になれるのかといえば現状難しいとは感じる。
今のうちからいろんな大人にあっていろんな学びを、というのはたしかに良いことだ。行動しているということは何にしてもよいことだ。いい結果悪い結果どちらにしても、選択肢が発生することはよいことだと個人的には思う。
しかしそれはその時点で、時間をつかうということが、どの時点に反映される「良い点」なのかは疑問に思う。
たしかに子供の頃に学んでおきたい体験しておきたいことはある。それがその時点であったから得られた情報を活かし行動につなげることができるということもあるだろう。
子供のうちから社交性を学ぶことについて、すでに大富豪の子供であり指揮をとるべき莫大な範囲が予定されているとでもないかぎり、それは必要ではないかと思う。
そんなもの、あるじゃないか!未来という莫大な財産が!みたいな言葉では構築できるけれども現実問題として所有権が存在していないものについて、影響を与えたということだけについては言えるとして、言葉をつくろうのはよくない。
そんなもの、ないのも同じだからである。保証は、保険は、いまいくらの金額でそれを支えているのか、そういう現実問題である。

 

疑問には思うがそれが話題性があり実際にいま職業として、おしんもよろしく子供のうちから激務をこなしているであろうことは感心する。
悪いことではないと思うし、それを選択したのだろうし、それをすることが何かしらにとって最も効率的だったのだろう、時期的にそれが最良だったのだろうと思う。
なのでそれをやめる必要もないし方向転換する必要もない。私にもなにが良いか、良いだろうとは思うが悪いとか、悪いというならばどれが良く、悪い結果を回避するために必要な策はなにかといわれたら、持ち合わせていない。
策がないので、なんとなく勘でそれが悪いことだとささやくの私のゴーストが、と言うのも自由だろうと思うが、それは自分が判定の全責任を負う事でもある。
私は他人の人生にダメ出ししてその人の最善の人生を指導してあげられるほどの実力も財力もない。人の命を弄ぶほどの権力もない。
だれかの選択肢は、みるたびにそれいいねとしかいえない立場ではある。

 

そのうえで、単純な話で基本的な話で、たぶんもう計画もされていて実行もされていて、手をうってある話かもしれないが、そういう生き方にひとつまみあればいいなと思う調味料的なことを感想として思うことがある。


まず、だれもしていない時間の使い方を今行っている。これは偏差的な価値があるだろう。それを発信することで稼ぎを得ているのだろう。
これが、二十歳すぎでいろんな業界の人たちに会って話を聞いてみた、なんてことをやってる人は多い。同じ手段で情報を発信している人も多い。
この差はなにか、年齢である。年齢において特異性があるので活用できているし、ほかに競合が発生するかといえば「中学校に行かない」という選択をしなくては現れない。
これが優位だということは、自分が特異であること、自分のしていることが「すべきでないことをするとどうなるか」の具体化であることは自覚していると思う。
生きたい学校をつくるために学校にはいかない、すると学校というものの構造を通う側から体験するのはいつに設定しているのか。
いったこともみたこともない現場に口出しをするのは、いま現在現時点で問題になっているなんかくばっとけばいいだろうという政治や政治家と同じ問題として批判をうけることは予測できるだろう。
つまり、今という時間と状況でなければ稼ぐことができないのは誰の目にもあきらか、いまたしかに楽しく消費してもらえているが、これが特別な位置でありつづけられるのは時間の問題でいつか枯渇する資源なのはわかっていると思う。
そして特定個人の彼なら、できるはずだという未来もあるだろう。しかし一般論として一般人なら、その商品価値がなくなったときどこにシフトすべきなのだろうか。

 


いま話題の彼も彼自身がすごい才能を秘めてそれを開花するのをまっていたり、片鱗をみたり、実際に実体効果として受けているわけではないはず。
人気漫画の格好をして、人気漫画のセリフをまねて、アニメや漫画の服装で、他の人も訴えている事を自分も「子供なのに」訴えているというスタンスが、才能や素質を感じさせるものではない。
演技がうまい朗読がうまい、トム・クルーズだって文字がよめないけどその見た目と動きでトップスターだといわれたら、トップスターの素質があるのかもしれない。
しかし、かもしれないは可能性でしかない。それは明日死ぬかもしれないと同じ程度の可能性でしかない。

 

将来の出演の契約をすでに取りまとめている、とすればどうか。そのリスクは回避できているだろう。それはやり手だ。
彼の活動や行動の計画性として経年的なプランはあるのだろうか。
彼自身の才能や境遇が、将来的に安定だとして、それはそれで喜ばしい。
他に類を見ない人間がいる、それだけでなにか期待をさせるものだ。全く関係ない庶民の私にも。


しかし彼がただコスプレをしてほかの大人が訴えている言葉をまねているだけだとしたら、それが時期的に売れているというだけのことであるなら、みんなは絶対まねしないようにとしか言えない。
世界をかえた有名人は多くいる。しかし「誰々の再来だ!」と言われた人は何人くらいいるだろうか。
他の人が成しえたことだから、誰かや自分ができるわけではない。
しかし事業は続けていくことができている。
この差はなにか。
属人的でなければ、その行動は共感も得ることができるということだ。
逆説的に、共感をするところは、属人的でないメソッドについてということだ。

 

子供が不登校でユーチューブで、ここまでは誰でもできる。そこで儲からなかったらやめてほしい。現時点ではそれは判断できる大人が大半だと信じている。
そして無理に借金して博打で破綻しながらも子供を稼ぎのネタにしている人はいるかもしれない。


それぞれは個別にそれぞれのあるべきを成しているはずだろう。それらについてこちらは支配権などもっていない。
ポリコレという理力を稼働させぶん殴る必要性がある社会的ななにかと個人が判断すべきところでもないだろう。


中学校にいかず、そもそも学校にもあまり行かず、知識をえる方法は多くあり、その時間で稼ぎを得ている、それはそれで当人がよければよい範疇でしょう。
それを見て、そういう事情や状況についてメタ的にみて、手段や方法について、感想を抱くことはあるわけです。

 

そしてその自分が考えたモデルケースが実際に有用だろうと考えたら、共有したくなり、それを進めたいとおもったら活動や行動をするわけです。
ガレージでパソコンをつくったり、家を貸してもらって選挙活動事務所にしたり、いろんな手段や方法があると思います。環境やタイミングといった運もあるでしょう。

 

学校に行かずに稼ぎのために時間を使う、そういう子供時代があってもいいと思います。アイドルや役者なんかもそれに近い生活をしたり、またロールモデルがあるならそれに沿った人生設計もできるかもしれません。
海外の子役俳優が大きく稼いだ後、破綻した人生を送るというニュースを数件ではありますがみたことがあるとそんな未来も想像してしまいます。
それが、そんな未来以外のよい結果としては、あいからず同じ路線での稼ぎができる成長をしたという事例くらいしかみないところに、あたらしい活路を想像したいわけです。
その想像をさせようという役割をしてくれただけでも、不登校の子供はなにかに貢献してくれたのかもしれません。

 

売れっ子でなければすでに意味がありませんが、子供時代に一生分を稼ぐという形はありかとおもいます。商品が底を尽きたらのこりは貯蓄でいきる。それもよいのではないでしょうか。
年金という制度が崩壊したり、貯金が保証されなかったり投資が安定しないなどありますが、一生分を稼ぐという位置をシフトするのはありかと思います。
人生設計的な意味で言えば結婚や出産などもそれにあたるかもしれませんが、とりあえずあまり話を広げすぎず、労働の主体を年齢層がわかい人にシフトし、一定以上は労働せず生活するという形も、素質もなくただの人であっても職業の選択としてありえても良いのではと思うのです。

これが現実的でないのは、未来のことはわからない、いくらためたところで未来においては数日、数時間、数秒や数年でその価値がいまの価値と予定や予想をできないところに移動をされてしまうということです。
より確実なものとすべく約束や取引、誓約などありますが、現実はそれを乗り越えてきます。ただ人が生きるということだけについては何の保証もなく続いていくことがより確実であろうと社会がそうしています。
この人間の目にうつる世界全体をほとんどが、人はしなないようにとつくっている現状、いろいろと考えうるほぼすべての予定や約束よりも確実に、人は明日も生きています。
社会的なものを越えた自然の摂理において人の生死は、そうあるべくとしてあります。いってみれば人の体が病気にせよ事故にせよ老衰にせよ自然と寿命をむかえない限りはしなないのです。
だれかのエサとして死なない、自然の摂理以外の連鎖の輪からはずれているのです。


生きている確実性をお金に変えられる稼ぎ以外は、何らかの生産に関わる必要がありそれはお金があるとうだけよりちょっとだけ安定性と安全性について高くあります。
若さを消費して若さが枯渇したのち、過去の生産で貯めた備蓄で生き延びる。60歳でそれがで来ていた時代もありました。
それを20に引き下げるようなビジョンをもってほしい、と観客は思ったり、それを考えることもあるかもしれません。

 

若さをうるだけの商売で、それがなくなったら破綻した状況、炭鉱の終わりや観光業の衰退など、みていれば予定というものの危うさの中、確実にその未来の予定についてだけ一点張りの予測で投資をしている現状について、安定性と安全性を確保する方法がもし見つけられたら、それはいい事だろうなと思います。

どちらにしても、今のモデルに引き戻す実力を私が持ち得ているわけでもなく、未来の方向転換をできる素質もないので、その切っ先となる可能性がある人の進むかもしれない行く通りもの未来は自分が感想を言葉にする程度には期待をもつ。
期待しているからこそ、心配でもある。
その心配を払拭するアイデアをつぶやく程度のことは、してしまうのが人間だろうと思う。

ただ人としてそのつぶやきをぶつけて、痛がる相手の反応を、自分はいたくないのでその痛がる姿との偏差を、偏差を発見したという事をひろめるための本能的動作、たのしみとしたりしないような、そんな時間を過ごしていければと思います。

バリアフリー

 


車椅子界隈、というのがあるのかどうかはわからないが、それが今話題になっているそう。

b.hatena.ne.jp


車椅子にのっている人、というのは様々にいると思う。障害だったりそれ以外であったり。
バリアフリーではないので移動ができないまたは困難であるところに不自由があり、それを乗り越えられる人との差別が問題なところだろう。

 

車椅子利用者の側からみればまだまだこの世は不便があり差別的に扱われるので活動が必要だと見えるだろう。
その活動とは、人間社会に攻撃的であるべきなのか。
現在の人間社会は、特定の人に便利には出来ていないのでこれは不便であるということを攻撃して不快で特別に優遇されるべきという事例を示して気付かせる必要があるのだろうか。

 


これがお金のこととなると途端に平等になる。お金持ちは熱海に慰安旅行にいける。ホテルも自動車も都合できて仕事も休みに、必要なものを別途補完することができる。
しかし年収200万円の家族は泊りの旅行にいけない。これでは心が不健康になる。多くを経験し豊かな暮らしができない問題が発生する。
これをなぜ400万円ほど税金で補助して旅行など自由に行けるように、体験したいことを選択できるようにしてくれないのか。これは差別的ではないのか。

 

人間が五体満足であればだれでも年収1億円くらいは稼げる算段なのだろうか。
では年収200万円しか稼ぐことができない人間は10億円くらいのプロジェクトに参加できないのだろうか。参加して成功させることができないのだろうか。
実際にできないのでそうなってはいるはず。ならばそれは障害ではないのか。バリアではないのか。バリアフリーが必要なのではないか。
そうではないとなぜだか即いわれるでしょう。
では階段を自分の足であるいて降りることができない人は障害なのだろうか。年収20億円ほどあって自家用なんとかが整備してあるところで自家用なんとかで移動することができて、階段など必要なくしていて、階段をおりることができない人に、階段しかないのでここにエレベーターが必要だと訴えれば、エレベーターを設置してもらえうのではないだろうか。
なぜ家族旅行に行くことができない年収200万円の人が使えもしない駅について、行くことも見ることも一生ないだろう施設に資金を投入しなくてはならないのだろうか。
それはいつか、その家族が車椅子に乗るようなことになったら、といわれても、車椅子にのることになったとしてもとうていその駅につくことなどないとしてもだろうか。

 

お金持ちは自家用なんとかで車椅子であろうがなかろうが自由にバリアフリーに移動ができるそれぞれの手段を持っていて自分で自由にはつかうが、自分の資金で自分のために使っているだろう。
我々が福祉で目指すべき共助とはどこにあって、どんなものなのだろうか。

 

車椅子を利用されている方よりもはるかに低い年収で労働する方が、万が一のとき自身で抱えきれないほどの責任を負い世界の平等のためにその身をささげるべきなのだろうか。


具体的に、だれでもできることをだれでもできる方法で、お願いをするにあたってなにかしらのやりとりでお互いがどちらも負担にならないように行うことが社会に参画するものとして必要な行動であろうと思う。
無理をさせてできたんだから、それはできることだ、というのはすこし前に話題になった企業の労働体制について問題があったところと同じだろう。
無給で無休で労働したとしても、感謝があるのだから満足だろう、やる気があればそんなもの乗り越えられる、実際に乗り越えている人もいるのだから君もやりたまえ、というのは以前も良しとされていて、今回も良しとされることだろうか。

 

実質必要分を資金で調達するとすればいくらになるか、そのうちいくらの負担を自分でおこなうか、それ以外のどこからか用立てるか、または現金ではなく物資やサービスで協力してもらうか。
その計画を相談し交渉し取引の結果、相互に利益を発生させるべく行動するのが資本主義でありそれを包括する民主主義、法治国家のあるところなはず。


問題があり訴える必要があり、黙っていたのでは気付かれないので、爆破した。その爆破は、法的にどこがどうOKなのだろうか。
仮に違法とされなかったとして、行為者がOKだというのであれば、それはまた爆破されてもOKという認識があるから、爆破したのがOKといっているはず。
こんどは車椅子の利用者側に、利用者でない側から「配慮をしてほしい」と、おそらくそういう声もあがったりしたことはないか少ないか、気が付かれなかっただろうし、訴えている方もまたとはいっていないと見える。
すると、声をあげなければ気が付いてもらえない、攻撃的でなければいけない、同じ方法でお知らせすると、同じ方法でお知らせしてきれくれたのだから、気が付いてくれるはず、と交信手段としてはごく初歩的なことになるのではないか。
いきなり相手にしてくれないのは差別だから全力でぶん殴る、メディアを呼ぶしこれを記事にしてもらうし、同じ要求を通るまで繰り返す、これを同じくメディアではないが一般の人間が多く集まる所から同じセリフを浴びせかけられたら、どうなるか、それは同じ体験をしているのではないか。
その体験自体を誇りをもって「影響の大きさを体感できた。活動に意味があり前に進んだと感じる」としてもらわないのであれば、その行動したこと自体の意味も同じ意味をもつのではないか。

 

ただの迷惑行為を周りから受けている、のだとしたらおそらく自分がとった行動もただの迷惑行為としか見られていないのでは。そこに真の意味などあるのだとしたらそれを理解されていないのではないか。
説明を冷静にするべきではないのか。皆がそれで振り上げたこぶしを恥じてさげるくらいの事でなければ、納得できないのではないか。


なぜ、そんな説明をあきらめてしまうのか。感情的に、差別的に、自分が問題としていないから、そういうことをしてくる、だからもう答えない、それはまた同じ方法で対抗しているのではないか。
感情的になっているのはどちらなのか、差別的なのはどちらなのか、あなたが問題としていないことが向こう側にないといえるのか、その配慮を欠いていないのか。

 

結局どちらがということではなく、どちらもなのだと見える。
車椅子の利用者の方は、利用者でない人間は自分たちを抱えて移動するのは当たり前である、という思考はどこからきているのか。
車椅子を利用されている方は利用していない人間と全く同じ生活の環境にあって、なぜ自分たちだけ車椅子の生活というハンデに大きなコストを支払いっているのかを問題にしているのか。
車椅子を利用していない人間は車椅子を利用している人間よりはるかに低いコストで生活しているので、その差分はみかけた車椅子利用者くらいには還元しろというのなら、その差額を提示すべきだろう。

 

車椅子を利用していない人は、健康になんの問題もなく悩みもなく体力もあり責任もあり補償もできるという人ばかりなのだろうか。
ちゃんと対応できるという人が免許をとってお給料をもらって補佐する業務についているのは、なにか意味があるのだろうか。

 

どちらも大変だろうと思うし、全員が見た目上健康でもなにかしら問題をかかえ不自由を感じ不満をもっている。

 

 

私は日本はもっと組織や選挙や民主主義を知って利用すべきだと考える。

障害のある人、心や体に問題のある人、人よりできる人、できない人、したい人、したくない人、それぞれがいる。
それぞれが平等に数値化した評価をうけることができるのはお金だけである。それもそれぞれで差が発生し具体的にその基準がないものは差別といえなくもない。
実際の結果に運や潜在能力の確認や評価、業務の結果と収益の結果などどうしても数字に還元する際に抜け落ち人間の裁量になるところがある。
それを同等の人間二人をならべて差をつけたなら差別ともいえるだろう。能力差と感じたと評価基準に書けば差別ではないだろう。どちらでもありどちらでもない。

 

人間が社会を構築しお金をつかって物資や機会や気分を交換したり提供したりすることができるようになってかなり近代化もしてきて便利になった。
まだまだ暴力で押し切らないといけないところがある、とはいまの日本では無くしていっても問題はないはずだろう。
他の国ではわからない。市民において銃の使用が認められているところもある。なにかのために戦うというのなら銃を取り出すことになるのだろう。
内線の続く国や特定の人の層について人権のない国もある。不便はそれぞれにあるだろうし、それが社会を構築しているという時点でその場所での意見の衝突の解決方法が違うのだろう。

 

重ねて、日本はそんなに殴り合う必要があるのだろうか。
どちらの正義にも問題があるのは、殴り合っている時点でみてとれるだろう。どこがとか、何がとか、悪いのはむこうだとか、そういう意見もあるだろう。ある時点で殴り合っているし、問題だし、そんな正義で殴ると、むこうの正義も殴ってくるのは想像に難くない。

 


おそらく、年収200万円の家族は旅行にもいけず、それをゴネたところで誰にも届かずなんの解決もなく、ただあきらめるだけだろう。
だから、観光地の駅でブランドのバッグをもった人間に、金がないものにかねを出せと交渉にでると、そういう活動が必要なのだろうか。それはただの恐喝ではないのか。
業務についている人間ならばそれは問題にならない、というのだろうか。そのノリで駅員をなぐる人間なんてのもいるのではないのだろうか。言ってみれば同じ方法なのではないか。

 

どっちが悪い、という時点でどちらかが正義をもってどちらかの悪を叩くことになるだろう。
悪いと、いうべきところなのか。
不足していることが悪い、怠慢、補償を求めるべきなのだろうか。
そういうサービスだと書いてあるのに自分がうけられないから、自分の分も用意しろというのは、それはむかしのなにかの団体がやっていた暴力的な交渉ではないのか。


おそらく足りないところは双方にあるだろう。悪い所といえばそちら側にもありこちら側にもある。だからそれらをぶつけたら、対消滅するかといえば破片がまわりに倍の速度で散って激突して惨憺たる情況になるだけではないのか。

足りない、足りてないところに私はなにができる、なにかしてほしいのだができる人はいないか、できるならば、してくれるとこれを返す、この資本主義にあって経済的な基本摂理をもって、法治国家において交渉や契約をして進めていくことはできないのか。

 

その何かを勝ち取るために、いま暴力でなければならない必要があるのだとしたら、それをきちんと説明すべきだと私は思う。
説明することをあきらめたのなら、ただの殴り合いしか残らないかもしれない。
それを願うのなら、どんどん感情的になって殴っていけばいい、おそらく殴り返してくる人もいるだろう。いないとは思っていないでしょう。さすがに人は殴られたらだまって道を譲るのが大半だとは思っていないでしょう。
道を開けてもらうためには殴っていくのが一番、と思っていることはないと信じている。

冗談だから、これくらいは許容範囲でしょ、と殴るその手段はいわゆるいじめと同じだということも知っているだろう。


ただ、殴るという行動も自由の範疇ではあるはず。殴ったり壊したり叫んだりすることは想定のうちで、それをするとどういう対処をするかというのは法律にある。つまり予想された許容範囲なのだ。

しかし、その自由においてその行動をとるのは、あなたの達成したい目標に対して近づく作用をするものなのかどうか。
いまの騒動や問題になっているそれは、予定された計画の目的のために役割を果たしている者なのだろうか。

 

私は、バリアフリーは、いけないことだとも無駄なことだとも思っていない。必要だと思うしあればうれしいと思う。実際車椅子や身体の一部が不自由な人のための設備などはそうでない人も多く利用し恩恵をうけているだろう。
スロープであったりエレベーターであったり、そういう座席であったり道のつくりであったり、恩恵は多く受けている。
これらは税金の使い道としてだれもし納得がいくものだろう。

それ以外に気付いていなことがあるなら、まだ足りていない手段や方法があるなら、それを提案し取り入れていくのはなんら問題ではないはず。


意識や気持ちや意見が、気分が、というのは全く別の問題だろう。
どちら側も、同じ方法で反応を反すと、同じ結果になるだけだということを思い出してほしい。
違う方法で返すことはときに困難であったり、屈辱的であったり、感情として納得できないということはあるかもしれない。

いまのその問題はその刹那の気分を解消するために必要なことであって、その消耗材として使われるべきことなのか。
それともその問題を解決したり議論を進展させることで、金額にしていくら、時間にしていくら、人手についていくら、用意でき対策でき結果解決できることになるのか。


私は問題があるのなら解決できるほうがいいと思う。何についても。
その場の消耗材として感情をあげさげして話題にすることが日銭を稼ぐことなのであれば、ただの迷惑行為なのではないかとも思ってしまう。

 


とりあえず、どちら側も、いきなり殴りかかることはよしてほしい。疑問文を相手にすなおな気持ちからでたものをなげかけてみたという、それが殴るということではない、これは言葉だ、みたいなわかりきった暴力を隠さないでほしい。
言葉で暴力が行使できることはもう働きかたなどの問題から広く知られているはず。


解ってほしいときには、相手のことをわかろうとすべきだし、相手をわかろうとして思ったその言葉で相手に話しかけるべきだろう。
掛ける言葉というのは、掛けられる言葉の形にもなってくる。


あなたがいまかけられてつらいひどい言葉を暴力的にうけているのだとしたら、あなたの発した言葉はそれと等価で交換できる何かだったのかもしれないし、それにより交換されたものが到着したのかもしれない。

言葉狩りとは

いい響きである。漫画で忌避された職に就かされた人ですごい能力を無能な支配層に管理されてるけどなにかの契機で構造を転覆させそうだ。
そういう話ではないのだけれども、最近の「巷で人気の新発明的気付き」のそれは何なのだろう。


お母さんという呼称がダメ、お母さん奥さんと呼ばれるのが無理、旦那さんという呼称はハラスメント、気を付けてと声をかけるのは無責任、など。
ならば会話など必要ないだろうし歌詞のついた音楽など聞けないだろうし男女の性別がある人間が演技をする演劇映画テレビ番組はむしろ見てはいけないと啓蒙していくのだろうか。
俳優だって男性や女性がいる、そしてその中にはお母さんと呼ばれてしまう被ハラスメント人物がでてきている、そんなのを見るのは作り物だとしても耐えれるものなのだろうか。
電車にのれば男女の性別を明確にした服装の人間が多くいる、ストレスだろう。コンビニに入ると「いらっしゃいませ」などと声をかけている。いらっしゃってはいないのですがと問うべきか。
そんな自分が世界の中心だという天動説な感覚が社会の大きさを認識できる状態に知性に基礎情報が蓄えられた状態になっても必要なのだろうか。
たしかに地球が微動だにしておらず世界が回っているとも言えないことはないはず。相対的には。地球以外の星は公転していて自転もしているが地球は静止していると言ってもおかしくはないだろう。
自転している遠心力が働いていたりその影響がでているとしてもそれは外環境が回転しているので逆遠心力よろしく吸い寄せられる力が発生しているとでも計算すれば自転の遠心力のそれと同じではないか。
それは月から見ても火星からみても言えることだと思う。それぞれの視点からその視野でみればそれぞれに見え方は異なるだろう。
平等とはその全体の和から相対的な関係に合意点を求めるところだろう。太陽の周りを公転している星たちの太陽系というものがある。太陽が中心であるこのシステムは、宇宙の中心だろうか。
太陽がなにかを中心に公転していたら、彗星の飛来する周回軌道の大きさを含めて公転していたら。もしくは太陽系が公転していて超長距離の周回軌道はもう太陽系をかすらないのかもしれないとか。

 

芸能人が誤った認識で非常識にも信じていることをテレビで発言してしまったという話もあった。だからどうなのだろうか。

 


それをそう呼ぶことに問題を感じる、という事。そんなことはどうでもよくないか。そう、名前なんかはどうでもいい。
ではまずあなたを甲、そしてあなたを乙と呼びます。では甲は乙に何々を乙が何するのを甲は…と話すべきか。それを話したところでなにがどうなるのか。
そう呼ぶと人間性がかわったり人間の身体を構成する物質が変わったりするのだろうか。それはきっと変わるというのだろう。なにがといえば心が、ではないか。
言葉で心がうける影響がかわる、というのは確かにあるとおもう。その心が結果として行動にうつり行動が物理的に身体へ影響するというのは想像に難くない。
石といわれれば皮膚が石に、水と言えば体が液体に、そんな変化を及ぼしてしまう人種だとしたらそれは事前に告知が必要だろう。
わたしは水という言葉を聞くと液体になってしまうのですという注意がないところで知らない人が排水バルブをあけて水といってしまったら大事故だったのは「知らなかったでは済まされない」ことなのだろうか。


そんな空想じみた話ではない、男性を旦那と呼ぶのは、女性をお母さんと呼ぶのはおかしいというだけだ、という話かもしれない。
じゃあ男性が二人で親をしている家庭はどうなのだろうか。おとうさんとおとうさんがいいのか、旦那さんと、旦那さんがいいのか。僕は彼のパートナーです、伴侶ですというなら伴侶がいいのか。
では伴侶さん、伴侶さんは伴侶さんのどこに魅力を感じていますか、また伴侶さんは伴侶さんがそう思っていることを伴侶さんのどんなところで感じますか、と質問されたらどうなのか。
どちらが回答しても全く同じ回答なのでどちらかを区別する必要がない、というなら伴侶ですらなくもうチーム名みたいなもので呼称したほうが良いのではないか。


買い物をして「まいどあり」といわれたら「毎度はきていない、誰と錯覚しているのか」と個人を他人と見誤られたことについてその見誤った対象が自分に似ていることは蔑称ではないか、差別ではないか、対応が不十分ではないかと本社に電話したり警察に電話したりするのだろうか。


事例をいくつあげても仕方がないのだけれども、こういう構造は階層わけにして事象ごとの間に取り扱いの種類を明示する必要があるのではないか。
そういいたい、いわれたい事があるのならばそれはローカルで定義すればいい、それがグローバルで通じるのかという事である。


お母さんではなく配偶者の方、って呼ばれるべきだと私は思う、という人がそれを主張してもいいと思う。それでは呼ばされる側は「お客様がそう呼べと言ったので呼ばないといけない」理由は何だろうか。
今はまだ「呼び名を当然に」という所で止まっているからよいけれども、ファミリーレストランの順番待ちの名前に好きな名前を書く感覚でそれをされてもこまる。

 

プログラミングの話で、もう古い話なのかもしれないけれどもオブジェクト指向というものが流行った。モジュールで動作を完結させてやり取りを全体で共通の形でさせることで機能の入替やメンテナンス、追加や拡張などしやすくする方法だ。
全部が全体で宣言されていた時代からオブジェクト指向に移るのは当然の事なのかもしれない。しかし言葉狩りというのは「全てのローカル変数をグローバルで宣言しよう」という事のまさしくそれではないだろうか。


狩っているといえば減らせていってしまっているので絶滅が危惧されるようなものを想像するかもしれないが、実際の狩りは相手を動けなくさせて動けないが故に自然などの環境がそれを死に至らしめるというものである。
言葉の狩りはその逆である。定義を増やし対象を増やし例を増やすことで増え切ったそれらが一か所にあつまると酸素が足りずに死滅してしまうような印象を受ける。


全体的な社会としての基板、基礎知識や義務教育で得られる共通認識があって、その上で社会的に分類されるものへの対応があり、その上に男女の性別の区別があり、さらにいうなら家庭内での認識があるだろう。
我が家のルールでは罰金だという事を他者間、地域間、国家の中では有効にしてもよいものだろうか。


自由というものの認識についてもそうなのだけど、極大な視野からみたその形容と個人が示す形容は違うものである可能性が、その包括する対象の数で変わるのではないか。
たとえば100人いたところに黒か白かと尋ねたら、異なるの答えが返ってくる可能は100ほどあるはずだ。しかし個人に白か黒かと聞いたら3:7になることがあるだろうか。
100の対象についても、その1ずつは100の分岐を内包しているわけではない。100あったとしてもその口が代表として一つだけどちらかを答えるはずだ。
それが個人でも100のグラデーションを持つべきだとなるとどうなるのか。365日の1年のうち10日は男性で15日は女性、30日は母親で25日は父親、となるのだろうか。
その権利が人間にはある、と無いということを否定すればたしかにあるとなるかもしれないけれども、それは無しとすることに問題があるのだろうか。
法律に悪人を裁く規定があるから、法律には善人は裁かないということが明記されているのだろうか。

 

見た目男性は男性の呼称、女性は女性の呼称でベースラインを決めて、個別に読んでほしい時は読んでほしい旨を明らかにする方法が必要なわけで、俺の名前をいってみろ方式ではその選択を強いる事自体がハラスメントなのではと思われる。
ハラスメントを受ける要因となる特徴について逆に特徴について偏差のある発言をされたものを「差別」とか「無理解」と断罪するのは「それを知らないものを何らかの弱者として区別する差別」のそれではないだろうか。
なぜ先手で受け身を取ると勝ちが確定しマウントがとれるのか。この状態に異常だと気が付かない程度にはまだそれらの議題は未成熟なのだろうとは思う。
ならば未成熟であるそれを実用に持ち込む意義は、そんなに実質効果を性急にする必要があるのだろうか。
自分は日本人なのでジャパニーズと呼ばれるのは不快だ。日本人と呼べ、というのはよりよいコミュニケーションなのだろうか。

 

自分が指定したルールに沿ってない相手を「ああ、○○なんだな」と思うことはそれこそ自由なはずである。それを公表して共感を得て同じ行動をとる人が増えることについてなんらかの意義があるのだろうか。
相手にまで届けば相手が反省してそれを直してくれるだろう、なんて事を考えているわけではないだろうことは、いずれめぐってその人が変化したことを確認する機会を儲けているのかと考えると、無いだろうと想像して思う。

世界がまわっている中で確固たる自分がいるという天動説に人気を集めたいだけのようにも見える。私がそう見えてしまうというだけで私の眼球の所有権を持っていない限りこれが違うという事はナンセンスである。


なぜ個人レベルでそのあり方について個人間で交渉しなくてはならないのか、それが有価ではないルール、お気持ち的なものなのに実際精神的にも時間的にも、機会的にも損失の可能性のあることに個人が対応しなくてはならないのか。
ご主人と呼ばれて不快、損害がある、としたらどれほどなのか、失ったものと補填されるべきものの金額を必要とする。しかし、呼ばせた方は呼ばされる事にもしストレスがあったら、それを組み入れる時間のロスがあったとしたら、その行動の取りようを評価され商機を失ったとしたら。
どちらが損害があり、その事について補填されるべきがあるかとかんがえると呼ばされる側ではないのだろうか。


財布を落として拾った人が「あのーすみません」と声を掛けると無意味に謝罪とか名前を呼んでいないとか唐突に声を掛けるときにはマイルールがありそれをしないと不快でハラスメントだとするなら、声のの掛けようがないと判断した財布を拾ってくれた人は呼び止めずそれを自分のものにしていいくらいの対価は必要なのではないか。
言い方がわるかったからキャンセルするという注文にはキャンセルフィーが必要なのではないだろうか。予約で旦那さんと呼ばれたからキャンセルすると言われたら、いったいなにがどう必要なのだろうか。

 


必要なのか基準と範囲なのではないかと考える。
芸能人が嘘情報を流すのも、名前の呼び方も、それはその範囲で有効なものと定義をする必要がある時代に来たのではないかと思う。
その背景として個人がかなりの広範囲に情報を発信できるようになったからである。
インターネットを使えば嫌いな男子というのはその場にいるその人ひとりだけなのであるはずなのだが、それを全世界全人類むけに発信するとなるとどうなるのか。
そんなのは個人の事だし個人間のことだ、という話なはずだがその情報に振れることができるのは全人類になってしまうとしたら、あなたがその人についての意見を述べるのには可能な限り局所的にすべきではないのだろうか。
なぜならその批判批評は、その共通点をもったほかの情報受信者にも当てはまるだろうからである。
「こいつ○○してきてうざい失礼、マジ勘弁」といったとしたら○○することがある人やせざるを得ない人、している人についても話しかけていることになる。発信しているからである。
当人にむかって、または近くのそれを言いたい相手にむけてではなく近くの別件にその声をあげて関節的に聞かせるなどして範囲を極小的にすることなく発しているのだから、聞いた人間はまるで隣にいる対象のように聞くだろう。
それがその「言われたら」である。奥さんっていっているのをみて「自分だ」と思ったら、それは相手の判断基準でそうしただけのことなはずである。呼んでほしい旨を伝えたり行動してもらうのも個人間である。
ネットで自分にリプライでその呼称を使われると不快であるとしても、相手側はあなたのことではないと言ってしまえばそうなるのではないだろうか。
この双方が等価のバランスであるはずの呼ぶ、呼ばれるの話がいまなぜ呼ばれるだけが強さをもっているのか、一重に稚拙だから、未成熟だからという話ではない気がする。

 

個人情報保護とは何だったのか。商品を購入する差異は機微ではないので名前で呼んでよいのか。番号にすべきではないのか。結局番号で呼び出す制度もその番号を翻訳する中間点を挟まなければ物理的に番号を渡す以外整合性のとりようもない。
こちらの事情に相手が合わせるべきであるならば、その事情を知らなくてはならない。なぜ地雷原を手ぶらで歩かせて踏み抜いたら罰を与えるとか正気だとは思えない。


呼び名とは何か、扱われとは何か、そうであると認められる必要があるならまず認めさせることが先なのではないか。
認められていないものを当然の権利だとして認められていることを前提に話をするのは、それは人権にだけについていえば成されるべきことなのか。

 

順序がおかしいし、あまりに個人的な事すぎて平均値がないし、平均値がありきであること自体が気に食わないということは教育基礎など根本的なことを変更する事を望んでいることになる。
その日本の全体の基礎を変更することにそんな個人の感覚が重要なのだろうか。他の多くの人の都合がよいことで自分が気に食わない事があったなら1個人が何十個人があつまっている対象を折るべきなのだろうか。
それが正しいから間違っているから、というのは何を基準として対価を準備し担保とした上でそれの意味と価値を成しているのか。

 


先般、裁判所が「著書にあることは真実だとして」という言及をして裁判結果を出していたという新聞記事もあった。
裁判で法的に「真実」が存在したと発言していたのかどうかが気になる。それが故意であるのか事故であるのか悪意の有無は発生要因はその当人の意識のみが振りわけるものだったのか、そういう「真実」があると、事象を裁判で人が肯定したのだろうか。
真実が人によって定義できるのだとしたら、嘘だった出来心だった正気を失っていた、などは意味を成さないし犯人というのは実行犯以外に出てくる。実際に人が殺人を犯すことになった真実が暴かれたとしたなら「その人が人を殺さざるを得なくなった状況をつくったのが本人ではない」場合、それをした人間も罪に問われるべきだろう。
その局面だけで当事者がその行動をとった原因を治療し更生するよう判断するのが裁判であって「真実を見抜いて判断する」事が仕事ではないはずだ。だれもが言葉にできていない真実もあるはずだし、知られていない関係者やそこにある「真実」も存在するはずだから。
あくまで聞きかじった状況とその場でみた原動と内容を鑑みて、あくまで人が人の認識範囲内で人知の範囲内で、その社会の内で用意されている手段にその対象を落とし込むことそれが「裁判」であるはずだと思われるが「真実」の話をしていたのだろうか。

 

人は知らないことがある、それに対して真摯に接すべきということはいまさらいう事でもないだろうし、いまはそういう時代ではないのかもしれない。それがもし変革しているこれが今現在のあるべきであるなら仕方がないし従うつもりではある。
時代背景などもみて、私はこれから活躍する世代ではないということに安堵と申し訳なさを感じるところではあるが、文化的にもこんな息苦しいものが逆に「感覚的に楽」だというなら、それはその現役世代の当事者がそうしていけばよいと思う。

 


思うに、その折衷案というか、個人的にあってほしいその文化も取り入れて旧来の考えも活かしてほしいという期待を取り入れてくれるのならばと考える案として、階層化と基準の作成である。
その呼び名などパーソナルデータの取り扱う範囲と、それを広範囲でやりとりする階層、そしてそれらを全域と、一部地域、一部状況に階層をわけていく。いわゆるオブジェクト指向である。
小さな個人間のやり取りというモジュールから外部に情報を出すときはその上位の基準に合わせる。その上位の基準は個別の状況に情報を送り対処するときはその個人間の定義に入れなおす。
それをさらに大きくしていって最終的には全体を包むようにする。グローバル変数が基準で、これをどこからでも利用できるように義務教育のようなインフラとする。
「旦那様、ご主人さま」がグローバルな基準ならまずそれを使うのは無料でオプションとして最低限あってもいいのではないか。その言葉がどうのというどこかわからないスコープの情報を得るのではなくその範囲内においての定義では「男性を示す最低限度の言葉」とするのだ。
最低限度、というのが抽象的で何の意味かわからないだろうから言葉としては「最低限度の敬意」となるのだろうけれども、その最低限度は直接の意味合いと繋がりをもたないが「必須として義務として学習され周知される教育制度からもたらされる常識、基礎知識」という基礎をなす思考を積み上げる際の定礎となる低さからの最低限度である。
その上で特殊な状態であることを認識してもらってそれに対する態度をとってほしい場合、それはすでにサービスとしてなりたっているはずである。ローカル変数と同じ方でローカル変数に固定値を入れるためには固定値の宣言が必要である。
固定値をどこに用意しておくのか、そのリソースはテーブルなどとして個別にコストをかけ発生させる必要がある。その棚を準備し自分専用に確保し使いたい時に使うのに支払いがなくていいわけがない。

 

夫婦別姓や主従関係の意味を勝手に考えたものや、そんな呼称の自由を味わうために人を使役するのはマナーや常識という言葉で値切って無償化すべきではない。
呼ぶ側の知って対応する行動をさせる事について少なくとも啓蒙する活動を及ばせたことを対価とでもすべきではないだろうか。


私は別姓になろうと呼称を厳密に区分けをすることも、有名人のつぶやきが広範囲に影響してしまうと評価されることも、別になんでもかまわない。
ただ人間地雷原として人に踏ませては倫理を説くという滑稽な啓蒙を続けてもらうのは、それをもしか目撃してしまったら不快になるであろう私個人からみて「当事者ではないがその付近で私に不快な行動をとらないでほしい、人権の名において」ともなるということだ。
不快にさせないでほしい、ただそれだけだ。それはその言葉を狩っている人たちが言っていることでもあるだろう。ではどちらの自由が上なのか優先度が高いのか価値があるのか、すべきなのか。


してほしくないことをしない、SNSで権利を主張すると相手がなにも煎ってこないので一方的になぐれると思うんです、だから殴りました、とされないのでしていいことと、それを勘違いしないことが必要なのではないだろうか。
あなたと同じ考えの人が、各個人ごとに複数意見を述べていくが、逆に反対側の意見もいくつもの同じような範囲にいる人間に差し向けてくるが「あなた自身」は一人しかいないので数百にたいして数百が矢を放ったとしてもあなたにささる矢が数百になる可能性だってあるのだ。

 

ネットリテラシーの教育とは、その発言の段階や階層、対象や範囲といったものを絞ることについて教育が進むべきだったり、価値観も多様性を大きくしていくにあたりその分類を明確にし対処を具体化していくことが必要だろう。
どんな意見でも一個人から世界に発信して、そこからトップダウンする形で末端の幾百幾千とある個別の個人に合っているか合っていないかそれぞれ別れる影響を与え、反発する側からその反発するエネルギー分反撃をくらってへこたれる必要がどこにあるのだろうか。
自分がなにげなくつぶやいた一言と同じ、ほかのだれかの何気なくつぶやいた一言が、砂の中から一粒だけピックアップされるように善意でも悪意でもかたまってくるのだ。

 

その無駄に全体がそのまま原液でダイレクトに無秩序に、無調整で流れてくることを自由として謳歌するまるで野生動物の世界か恐竜のいた時代のような倫理観で権利を語るのは、ひとまず休んで、世界の広さに単位をつけて区分し階層をわけ住処を探し、それらの繋がりは断絶にしないよう求められてほしい。
インターネットという全体が繋がる方法において階層わけや分類すみわけといった分断がよいわけではないが、現にインターネットを使ってプライベートな通信は成されている。同意のあるコミュニティや認識認知のある個どおしが繋がれる方法もあるしそれは広く戸口の開いたインターネットであるはずだ。

いまはうまくまとまらないが、この察して系の最強部類には、なんとかDX的な意味で人と論理的思考、行動様式に有用な検討と選択肢を与えてほしいと願うのだ。